第十四話 帰る場所と行く場所
ダリオと親方が帰る日、俺は港へ行った。
荷物は来たときより少なかった。
代わりに、ダリオの鞄には注文書と名刺が増えていた。
親方は、王都の修理工房で借りた道具の名前を、何度も思い出していた。
「あの細い鑢、ベルクでも手に入るか」
「手紙で聞けばいいだろ」
「聞くほどのことでも」
「三回も言ってるじゃん」
俺が笑うと、親方は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
乗船の案内が始まる前に、俺はダリオへ声をかけた。
「あれ、売って」
「あれって?」
「青い石の、銀の葉」
「知ってる」
最初から分かっていた顔だった。
ダリオは小箱を取り出した。
「残してあった」
「売る品、勝手に減らすなよ」
「お前が買うから、減ってない」
「そうだけど」
俺は代金を払った。
箱の代金も取られた。
親方が横から言う。
「柔らかい布で拭け。強く擦るな」
「分かった」
「留め金が緩んだら送れ」
「分かったって」
「自分で直すな」
「どんだけ心配なんだよ」
親方はそっぽを向いた。
ダリオが笑った。
「ちゃんと渡せよ」
「渡すよ」
「仕事のお礼だけで済ませるなよ」
「何だよ、それ」
「何でもねえ」
あいつは最後まで、余計なことを言った。
別れ際、俺たちは握手した。
「次はベルクへ来い」
「戻るなって言ったじゃん」
「仕事で来いってことだよ」
その言葉が、少しくすぐったかった。
「飲む時間も空けとけ」
「それは毎日空いてる」
「知ってる」
親方は先に歩き始めていた。
途中で一度、振り返る。
「納品のとき、見とけよ」
「何を?」
「ちゃんと作る」
俺は笑った。
「知ってるよ」
*
クローディアへ箱を渡したのは、その日の夕方だった。
庭の花壇の前で、彼女は使用人に何か指示をしていた。仕事が終わるのを待っていると、こちらに気づいて歩いてくる。
「どうかなさいましたか」
「これ」
箱を差し出した。
言いたいことは考えていたはずなのに、目の前にすると順番が分からなくなった。
「迎えに来てくれたのと、見本市の手伝いと、あと……いつも」
クローディアは、俺と箱を見比べた。
「私に?」
「ほかに誰がいるんだよ」
言ってから、急に恥ずかしくなった。
彼女は両手で箱を受け取った。
蓋を開ける。
銀の葉を見たまま、しばらく動かなかった。
「違うのがよかった?」
「いいえ」
すぐに返事が来た。
「こちらが、嬉しいです」
俺はほっとした。
クローディアは髪留めを取り出し、日差しへかざした。
青い小石が光る。
「覚えていてくださったのですね」
「似合うって言っただろ」
「ええ」
彼女は目を細めた。
いつもより少し、言葉が少なかった。
それがかえって、俺を落ち着かなくさせた。
「付けてみてよ」
「では、お願いできますか」
「俺が?」
「贈ってくださった方に、お願いしたいのです」
背を向けられた。
俺は髪留めを受け取る。
見本市で何度も触ったはずなのに、留め金が妙に小さかった。栗色の髪へ挿そうとして、指が耳に触れた。
「ごめん」
「大丈夫です」
耳が赤かった。
俺まで落ち着かなくなった。
何とか留めて、少し下がる。
クローディアが振り向いた。
「いかがでしょう」
「似合ってる」
それは、すぐ言えた。
彼女は眼鏡の縁へ指を添え、嬉しそうに笑った。
「大切にいたします」
何となく、俺の方がお礼を言いたくなった。
そのとき、屋敷の窓で金色のものが動いた。
ミリスだった。
俺と目が合うと、ものすごい勢いで隠れた。
「見られてた」
「存じております」
「怒らないの?」
「あとで」
俺は、少しだけミリスに同情した。
*
親父の部屋へ行くと、新聞のほかに、商会の報告書が置いてあった。
「休めって言われてるだろ」
「読んでるだけだ」
「仕事じゃん」
「お前の話も仕事だろう」
「それは聞いて」
親父は笑って、報告書を閉じた。
俺は見本市の話をした。
最初に売れた銀の花。
親方を褒めた小さな子。
六十点の注文。
五日間で何度も作り直した見本。
話しているうちに、親父も何度か質問した。俺が答えられないこともあったが、そのときは、ダリオに聞くと言った。
親父は、それで満足したようだった。
「納品は、これからか」
「うん。終わったら、また話す」
「待っていよう」
俺は机の端の報告書を見た。
「それ、俺の話も書いてあるの?」
「少しな」
「何て?」
「帰ってきた三男が、あちこち走っている」
「もっと仕事っぽく書いてくれよ」
「ヘルマンの報告では、もう少し立派だったぞ」
親父が笑った。
俺は少し照れて、椅子へ座り直した。
「ビジネスは楽しいか」
親父が尋ねた。
「うん」
「そうか」
「思ったより、ずっと」
すぐに答えられた。
大変だった。
分からないことも多かったし、断られたし、恥もかいた。
でも、あの注文書にダリオが署名したときのことを思い出すと、またやりたいと思った。
親父はしばらく俺を見ていた。
それから窓際へ目を向けた。
クローディアが花瓶の水を替えている。
髪の銀の葉を見て、親父が俺へ目を戻した。
嫌な予感がした。
「そっちの買い物は」
「その話はいい」
「まだ何も言ってないぞ」
「顔で言ってる」
親父が笑った。
クローディアは振り向かなかった。
ただ、花瓶を置く手が、少しゆっくりになった。
*
約束の納品日、最初の四十点が王都へ届いた。
俺は、また女将さんの倉庫で蓋が開くのを見た。
箱の中には、見本と同じ銀の花が整然と並んでいた。
余計な模様は増えていなかった。
荷札の裏には、親方の字で短く書いてあった。
『足してない』
俺は笑った。
装身具店へ届け、見本と照らし合わせてもらった。
数を確かめ、留め金を動かし、仕入れ担当の男が受領書へ署名する。
「次の二十点も、予定どおりにお願いします」
俺は頷いた。
倉庫へ戻り、ダリオへ電話した。
「受け取ってもらえた」
『何か言われたか』
「次もよろしくって」
『……そうか』
向こうで、誰かが何か言った。
ダリオが受話器から口を離し、親方へ伝えているらしかった。
遠くで、短い声がした。
『当たり前だ』
聞こえた。
俺は笑った。
受話器を戻してからもしばらく、机の前に立っていた。
始めたものが、ちゃんと一度、終わった。
その先に、次の仕事があった。
一週間後、残りの二十点も届いた。
今度の荷札には、親方の余計な一言はなかった。
品名と、数と、ダリオの商館名。
俺は蓋が開くのを待って、女将さんと一緒に確かめた。
店へ届けると、担当の男は受領書へ署名し、控えを返してくれた。
「これで、今回の分は揃いました。ありがとうございます」
「こちらこそ」
「店が開いたら、見に来てください。どこへ置いたか、お見せしますので」
俺は顔を上げた。
「行っていいんですか」
「お客様としても、ぜひ」
男が初めて、仕事のときとは少し違う顔で笑った。
売り場の準備は、まだ続いていた。
俺たちが届けた銀の花も、誰かの手で箱から出されていく。
今度は、その先を見に来られる。
俺は受領書を折らずに鞄へ入れ、外で待っていたクローディアへ、開店日を伝えた。
*
翌朝、俺は目覚ましが鳴る前に起きた。
机の上には、ヘルマンから頼まれた調査の紙がある。
知らないことばかりだった。
でも、誰に聞けばいいかは、いくつか分かった。
俺は服を着た。
扉が叩かれる。
「ます様。朝でございます」
「起きてる」
「……まあ」
クローディアが、本当に驚いた顔で入ってきた。
「そんなに珍しい?」
「ええ」
「否定してくれよ」
彼女は笑い、俺の襟を直した。
栗色の髪には、青い銀の葉が光っていた。
「今日は、どちらへ?」
「本社。そのあと、女将さんのところ」
「かしこまりました」
「昼飯も食う」
「何時に?」
「……そこまで決める?」
クローディアは手帳を開いた。
俺は観念して、昼までの予定を話した。
玄関へ向かう途中、ミリスが顔を出した。
「坊ちゃま、今日もお仕事っすか」
「そう」
「すごいっすね。ちゃんと帰ってきて、ちゃんと出かける人になってるっす」
「褒め方おかしくない?」
「今日は何年後に帰るっすか?」
「夕方だよ!」
クローディアが隣で笑った。
俺も笑いながら、靴を履いた。
旅の間、朝起きると、今日はどこへ行こうかと考えた。
それは今も変わらない。
ただ、今日は会う約束をした人がいる。
帰ってから話を聞かせたい人もいる。
「行ってくる」
「行ってらっしゃいっす!」
扉を出ると、王都の空を白い飛行船が横切っていた。
青い翼の紋章。
あの船にも、誰かが待っている箱が積まれているのだろう。
俺は少しだけ見上げて、それから隣のクローディアへ顔を向けた。
「今日、帰りに寄りたい店があるんだけど」
「何のお店でしょう」
「焼き菓子。親父が、ここのところ同じのばっかりだって」
「旦那様のお好みは、甘さ控えめです」
「知ってる」
「ます様がお好きなのは?」
「甘いやつ」
「では、別々に」
俺たちは並んで歩き出した。
今日も少し、忙しくなりそうだった。
*
そう思ったのは、本社へ着くまでだった。
俺の予定は、午前のうちに一つ増えた。
クラインが、応接室で待っていた。
「ます様。副会長がお呼びです」
「また何か、手紙来た?」
「本日は、お手紙ではございません」
安心しかけたところで、付け足された。
「地図でございます」
その言い方で、もう嫌な予感がした。
グランツの部屋には、ヘルマンもいた。
机には、大きな地図が広げられている。
ベルクから王都まで、鉛筆で線が引かれていた。
ダリオの箱が通った道だった。
「昨日、先方の支払いを確認いたしました」
ヘルマンが言った。
「ダリオ殿から、次の便も同じ条件でお願いしたいと」
「うん。俺にも来た」
「王都側の荷受けも、継続していただけます」
それは、昨日、女将さんに聞いた。
俺は頷いた。
おっさんが、地図の隣に、もう一枚の紙を置いた。
倉庫の使用状況だった。
「こちらは?」
「同じ航路沿いの、中継港です」
ヘルマンが答えた。
見覚えがあった。
俺が二週間、皿洗いをしていた町だ。
「ここ、行きは荷物が多いけど、帰りは空いてることがあった」
「時期によりますが、その傾向はございます」
「革屋がある。あと、変な形の椅子を作る爺さん」
「椅子でございますか」
「座ると楽なんだよ。持って歩きたくないだけで」
ヘルマンが少し笑った。
おっさんは笑わなかった。
俺の話を聞きながら、港の印へ指を置いた。
「その方々は、今も品物を作っておいでですか」
俺は答えかけて、止まった。
今も。
最後に会ったのは、いつだっただろう。
旅の途中には、変わった店も、なくなった店もあった。
「……聞かないと分からない」
「では、聞いてきていただけますか」
俺は顔を上げた。
「現地へ?」
「まずは、ご連絡を。そのうえで、訪ねる意味があるなら」
胸の奥が、少し動いた。
知っている町へ行く。
知っている人に会う。
それなら、できそうな気がする。
でも、今回は、自分が楽しむだけでは済まない。
戻って、話を聞かせる相手がいる。
紙へ書いて、次の人へ渡す仕事もある。
「俺が行って、何もなかったら?」
「何もなかった、とご報告ください」
「失敗じゃないの?」
「ないものを、あると書かれる方が困ります」
おっさんらしい返事だった。
俺は地図を見た。
昨日まで気にしていたのは、ベルクから王都までの一本だった。
その先に、別の線がある。
もっと先にも、まだある。
全部を何とかできるとは思わない。
あの親父だって、できなかったのだから。
でも、二週間世話になった宿の親父へ電話するくらいは、できる。
「聞いてみる」
俺は答えた。
「最初に、革屋へ。あそこ、欲しがる人はいたのに、送るの面倒だって断ってたから」
ヘルマンが紙を引き寄せた。
グランツは、それを見届けてから、もう一つの書類を開いた。
部屋を出る前、俺はおっさんの方を振り返った。
「なあ」
「はい」
「これ、親父は知ってる?」
「ご帰宅の後、ます様からお話しください」
俺は笑った。
「分かった」
廊下へ出ると、クローディアが手帳を閉じた。
「ご予定が変わりましたか」
「少し」
「昼食のお時間は?」
「そこは守る」
「では、伺います」
俺は地図を見せた。
指で、その港を示す。
「ここ、覚えてる? 俺が手紙に、飯がうまいって書いたところ」
「お料理の話が多かったので、どちらでしょう」
「干し肉の前」
「では、南の宿場町ですね」
覚えていた。
俺は少し嬉しくなって、続きを話した。
工房のこと。帰りの荷物のこと。今も作っているか、まず聞いてみること。
クローディアは、途中で一度だけ頷いた。
「現地へいらっしゃることになりましたら、何日ほど?」
「まだ分かんない」
彼女が俺を見た。
俺は慌てて付け足した。
「決めてから行く。今度は」
クローディアの目元が緩んだ。
「かしこまりました」
「お前の予定も、聞いていい?」
「私の?」
「うん。一緒に来てもらえるか、相談したい」
彼女は、しばらく俺を見ていた。
それから、手帳をもう一度開いた。
銀の葉が、窓からの光を受けて小さく揺れる。
「では、帰る日から決めましょう」
俺は頷き、隣へ並んだ。
その前に、電話を一本かけなければならない。
三年前とは違う用件で、旅先の扉を叩く。
アルフォード商会の、ますとして。
第一章 終




