第15話 二千金貨の冬と、潰れた商会の昼飯
「来週の荷物が、入りません」
俺が本社へ着くなり、廊下でそんな声がした。
女性が、分厚い帳面を二人の男へ突きつけている。
「冬物で倉庫が埋まっています。売り先を決めるか、別の倉庫を借りるか。今日中に決めてください」
「倉庫を替える案も出している」
「替えた先で売れるようになるなら、喜んで運びます」
二人とも、黙った。
俺も、足を止めた。
開かれた帳面に、赤い字で数字が書かれていた。
冬物在庫、二千金貨。
春が来たくらいで消えるには、大きすぎる数字だった。
「ます様。お電話をつなげます」
クラインに呼ばれて、俺は歩き出した。
今日の用事は、旅先の革屋と話をすることだ。
それでも、さっきの言い合いが気になった。
振り返ると、女性はまだ帳面を開いたまま、二人の返事を待っている。
「その冬物、あとで俺にも見せてくれる?」
女性が顔を上げた。
「倉庫を、ですか?」
「うん。どんな服が余ってるのか、見たい」
「ご案内はできます。ただ、倉庫で見学を受け入れる時間を確認させてください。今日は入荷もございますので」
「分かった。忙しいところ、悪いな」
俺はクラインへ向き直った。
「案内できる日が決まったら、教えて。先に電話、済ませよう」
クラインが頷き、予定を書き留めた。
*
「ます? 皿のますか?」
電話の向こうで、懐かしい声がした。
俺は受話器を持ち直した。
「ほかの覚え方なかった?」
「皿を割ったますだろ」
「一枚だけだって」
「割ったのはな。欠けたのが二枚だ」
そこまで覚えていなくていい。
南の宿場町で二週間働いた宿の親父は、俺の顔より食器の損害をよく覚えていた。電話口の奥では、鍋の蓋がぶつかる音がしている。まだ昼前なのに、あの厨房は忙しそうだった。
少し、安心した。
「元気?」
「忙しい。お前は、また宿代がなくなったのか」
「今日は違う」
「じゃあ、何だ」
俺は机の紙を見た。
革屋の名前。港の名前。聞くことを三つ。
その横にはクローディアの字で、話を聞くだけ、と書いてある。
ダリオの品を送ったとき、数量と日付を決めてから話が進んだ。今回も、先に相手の都合を聞く。
分かっている、と言おうとして、紙の端に小さな追記を見つけた。
帰る日も決めること。
そっちは、まだ信用がないらしい。
「裏通りの革屋と、椅子作ってた爺さん、まだいる?」
「いるぞ。椅子の方は、今は息子がよく働いてる」
「話を聞きたいんだ。王都へ品物を送れないかって」
親父が黙った。
それから、声を少し落とした。
「ます。お前、変な儲け話に捕まったのか?」
「違う!」
「先に金を払えとか言われてないか」
「俺から持ちかけてんだよ!」
向かいでヘルマンが口元を押さえた。
クローディアは澄ました顔をしていた。口元を隠した手の下で、肩だけが小さく揺れている。
「アルフォード商会で、仕事を手伝ってるんだよ」
「……あの、船の?」
「そう」
「お前が?」
「俺が」
「雇ってくれるもんだなあ」
親父の感心が、電話線を伝わって胸に刺さった。
まあ、皿洗いの腕を見ていればそう思うだろう。
会長の息子だと説明するのはやめた。どうせ信じないし、信じたら今度は質問で昼の仕込みが止まる。
「まず、話を聞ける日を教えてほしい。港の担当の人からも連絡してもらうから」
「革屋は今週、祭りの注文で手が離せんぞ。爺さんの息子も町の集会所の仕事がある」
「じゃあ、来週?」
「二人に聞いておく。勝手に来るなよ。椅子に座って昼寝して帰るだけになるぞ」
「そんなことしないって」
「前はした」
した。
反論できなかった。
約束したのは、連絡先を港へ伝えていいかということと、月末にもう一度電話することだった。旅の支度をする前に、相手の予定がある。当たり前なのに、俺の旅にはあまりなかった手順だ。
「宿は取っとくか?」
「日が決まってから頼む」
「分かった。今度は先払いな」
「分かってるよ」
「飯は食ってるか」
急に、声が近くなった。
「食ってる」
「ならいい。変な話だったら、皿洗いに戻ってこい。今度は皿を触らせん」
「それ、何洗うの?」
「鍋」
電話が切れた。
俺はしばらく受話器を見て、それから置いた。
「次の仕事が決まりましたね」
ヘルマンが言った。
「今の仕事、もう駄目だと思ってる?」
「いえ。帰る場所が多いのは、よろしいことかと」
笑っていいのか分からない褒め方だった。
受話器を置いた勢いで椅子にもたれかけ、クローディアの視線に気づいた。上げかけた片脚を床へ戻す。
「何も言ってないだろ」
「まだ、何も申し上げておりません」
「顔で言ってる」
彼女は口元を押さえた。さっきから、よく笑う。
「お電話のお相手には、随分と気安くお話しになるのですね」
「鍋の底まで磨かされた仲だからな。今さら取り繕っても遅い」
「……そうですか」
俺が机に肘をつくと、今度は注意が来なかった。視線が袖口へ落ちている。
「こっちはいいの?」
「よくありません」
少し遅れて、いつもの声に戻った。
*
南への出張は、先方の返事を待つことになった。
なら、しばらく暇になる。そう思って予定表を覗いた。
「では、明日はリーヴェルトへ」
クラインが紙を置いた。
空きはなかった。俺に見えていなかっただけだ。
「リーヴェルトって、あの?」
「どのリーヴェルトでございましょう」
「学院の教科書に載ってた、でかい商会」
「そのリーヴェルトでございます」
俺は紙を覗いた。
工場見学。
工業事業説明。
旧本邸の資産整理状況確認。
「最後だけ、急に楽しそうじゃなくなるな」
「お屋敷をご覧になるだけでは、現在のリーヴェルトは分かりませんので、工場から伺います」
「潰れたんじゃなかった?」
「旧商会は経営が行き詰まりました。現在も続いている事業がございます」
クラインは机の上に二枚の図を並べた。
一枚目は、枝の多い木みたいだった。銀行。資源。物流。貿易。工業。俺が知っている大商会は、だいたいこんな形をしている。得意な仕事は違っても、箱の数だけはやたら多い。
二枚目では、木の枝がずいぶん減っていた。
「金融や広域物流、資源権益などは、破綻時に他の商会へ移りました。アルフォードが引き受けたのは、主に工業部門です」
「いいところだけ、先に持ってかれた?」
「そう単純ではございません。どの事業にも、必要な資金と引き受ける責任がございますから」
俺は残った箱を指した。
「じゃあ、うちは何が欲しかったの」
「明日、ご覧ください」
また、その答えだ。
説明を省かれた気もするが、見れば分かると言われると見たくなる。
俺を動かすのがうまい。腹立たしいことに、少し楽しみになっていた。
「クローディアも?」
「午前は、ご同行できるよう調整しております」
本人が答えた。
「午後は屋敷へ戻ります。旦那様のお薬を受け取る日ですので」
「分かった。じゃあ、工場で飯食えるか聞いといて」
「そちらが一番お楽しみですか」
「働いてる人と同じ飯、気になるじゃん」
クローディアは一瞬考えてから、手帳に書いた。
「工場の方に、そのままお伝えいたします」
「そこは、もう少し格好よく」
「食堂の運営状況を視察なさいます」
「急に飯がまずそうになった」
クラインが、下を向いた。
この人が笑うところも、少しずつ分かってきた。
*
翌朝、工場の門で俺を待っていたのは、花束でも案内板でもなかった。
灰色の上着と、先の硬い靴だった。
「お着替えをお願いします」
受付の女性に言われた。
「俺も?」
「はい」
隣のクラインは、もう上着を脱いでいた。
クローディアも、貸し出し用の靴を受け取っている。
俺だけが少し遅れた。ネクタイを外すのに手間取ったからだ。
「ます様」
クローディアが手を伸ばす。
「待て、自分でやる。引っかかってるだけだ」
「ですから、引っ張らないでください」
クローディアが留め具を外すと、あっさり緩んだ。
「……助かった」
「どういたしまして」
勝負をしていたわけではないのに、負けた気がした。
受付の女性が、俺の名前を台帳に書き込む。
ます・アルフォード。
同行者の名前も一人ずつ確かめ、受付の女性は人数を数えた。
「お帰りの際にも、こちらへお寄りください」
誰が入り、誰が出たか。会長の息子でも、そこは省略できないらしい。
廊下の先から、金属を叩く音がした。
扉が開いた瞬間、熱い空気と油の匂いが押し寄せる。
「危ないから、白線の内側へ!」
いきなり怒鳴られた。
足を引っ込めると、すぐ目の前を、金属の棒を積んだ台車が通った。
押していた男が片手を上げる。
「すみません、お客さん!」
「いや、俺が!」
こっちも声を張らないと届かない。
格好よく名乗る余裕なんてなかった。
「お待ちしておりました」
大柄な男が、布で手を拭きながらやってきた。
背広ではなく、作業着。胸にリーヴェルトの小さな紋章がある。
「工場長のオットーです。まず、こちらへ」
「どうも。ますです」
「承知しております。頭上にもお気をつけて」
「え?」
頭の上を、大きな鉄の塊が動いていた。
俺は口を開けた。
クラインが、横からそっと俺の袖を引いた。
紹介より、安全。
歓迎より、作業。
世界でも大きかった商会の、今の姿を見に来たはずだった。
なのに俺は、入って三分で思っていた。
これの、どこが小さくなったんだ。
*
最初に見せてもらったのは、手のひらに載る金属の輪だった。
さっき頭の上を通った鉄の塊より、ずっと小さい。
輪には穴があって、内側に細い溝がある。
「これ、何?」
「ポンプに使う部品です」
工場長が答えた。
「水を送る?」
「水の場合もあります。油の場合も。使う場所によって材質も寸法も変わります」
「なるほど」
分かった。
何となく。
俺が頷くと、隣にいた若い男が嬉しそうに別の輪を持ってきた。
「こちらは、内部の流れを変えた試作品です。従来品に比べて損失が――」
「ヨーゼフ」
「はい」
「まず、何に使うかからだ」
「はい!」
ヨーゼフは深く息を吸った。
そして、さっきより難しい話を始めた。
俺は五秒で取り残された。
クローディアを見る。
彼女も俺を見た。
助けてもらえると思ったのに、穏やかに頷かれた。
頑張れ、という意味だった。
「ごめん。一回止めて」
ヨーゼフの顔が固まる。
「何か、説明に不備が」
「俺の頭に、前の説明がまだ入ってない」
工場長が咳払いをした。
笑いをごまかす咳だった。
「これがいいと、誰が楽になるの?」
ヨーゼフは金属の輪を見た。
少し考えてから、奥の壁を指す。
壁には、島の揚水設備の写真が掛かっていた。
「高い場所へ水を上げるとき、同じ量でも、機関を回す力が少なくて済みます」
「ああ」
「燃料が減ります。機械の大きさを変えずに、もう少し多く送れる場合もあります」
「それ、空島の畑とか?」
「そうです!」
途端に声が大きくなった。
俺はようやく輪を見直した。
水桶を担いで往復した、島の畑を思い出した。あの坂を上る回数が減るなら、使う人間はずいぶん助かる。
「これ作った人、すごいな」
ヨーゼフは、背後を振り返った。
「設計は私と先輩です。でも、ちゃんと形にするのは、あちらの方で」
あちらの方は、小柄な年配の女性だった。
作業台で何かを測っている。
俺たちの視線に気づいて、顔を上げた。
「何?」
「ます様が、部品を」
「ああ。そっちの箱は触らないでね。不合格だから」
俺が手を伸ばしかけた箱だった。
「見た目、同じだけど」
「同じに見えるうちは、合格の方だけ見ていればいいよ」
横でヨーゼフが笑った。
厳しいことを言われたのに、変に気分が悪くならない。
たぶん、誰にでも同じなのだ。
工場長が声をかけた。
「マルタさん。少しだけ説明を」
「五分なら。これ、今日中に返す分だから」
五分。
俺たちの都合より、出荷先の都合が先だった。
マルタさんは二つの部品を光へかざした。
「こっちは、この端に傷がある。圧力をかけると困るんだよ」
「こんな小さいので?」
「小さいから見逃していいなら、私の仕事はずいぶん楽になるね」
「そうだな」
俺は笑った。
マルタさんも、少しだけ笑った。
「分かればいい。あと、こっちの坊やが図面を書き直す前に、現物を見に来れば、もっと楽になる」
「先週は来ました!」
「戻ったら違うところを変えてたじゃないか」
「あれは性能が」
「削る道具が入らないんだよ」
ヨーゼフが黙った。
工場長は、止めなかった。
俺も、何となく分かった。
すごいものを作る人たちは、すごいものを作る途中で、普通に怒られるらしい。
*
食堂では、工場長が俺の隣へ座ろうとして、席を取られた。
マルタさんだった。
「そこ、いつも私の席」
「今日はお客様が」
「だから、隣で説明すればいいでしょう」
工場長は向かいへ回った。
俺は笑いを噛み殺しながら、皿を受け取った。
豆と肉の煮込み。黒いパン。湯気の立つスープ。
うまそうだった。
「これ、いつも?」
「今日は肉が多い」
マルタさんが即答した。
「そういうこと、言わなくていいから」
工場長が顔をしかめた。
「お客様に、いつもこの肉の量だと思われても困るでしょ」
「減ったら俺が来ればいい?」
俺が聞くと、マルタさんは初めて声を出して笑った。
「いいね。毎週来なよ」
隣のテーブルでも笑い声がした。
俺は煮込みを口へ運んだ。
熱い。うまい。
うっかり二口目を急いで、舌をやった。
クローディアが何も言わず水を寄せる。
マルタさんが、それを見て目を細めた。
「いい人がついてるね」
「昔から怒られてる」
「怒ってくれるうちはいいんだよ」
母親みたいなことを言った。
クローディアが少し困った顔で微笑んだ。
向かいでは工場長が、食堂の端の空いた席を見ていた。
俺もそちらを見た。
ほかは人がいるのに、窓側だけ、長いテーブルが二つ空いている。
「交替?」
聞くと、工場長は首を横に振った。
「以前は、もう少し人がおりました」
煮込みの味は変わらなかった。
でも、さっきまで聞こえていた匙の音が、急にはっきり聞こえた。
「別の工場へ?」
「移った者もおります。自分で工房を始めた者も。今も、仕事を探している者も」
工場長はそれだけ言って、パンをちぎった。
俺は空いた席をもう一度見た。
ここへ来るまで、工場が残ったと聞いていた。
残った、の中にも、いなくなった人がいる。
「さっきの試作品、売れたら人が増える?」
ヨーゼフが顔を上げた。
工場長は、俺を見た。
「まずは、今いる者の仕事を切らさずに済みます」
「そっか」
「試験中です。売るのは、それが済んでからです」
俺は輪を持つヨーゼフの手を思い出した。
あんなに嬉しそうだったのは、試作品の性能に自信があるからだけではないのかもしれない。
俺にはポンプを買う畑はない。
だが、あの島で水汲みをしたことならある。
「試すところは、もう決まってる?」
ヨーゼフが頷いた。
「工場内で、規定の条件を変えて試験します」
「島でも?」
「その段階は、まだ先です」
「だったら、そのとき聞いてほしい。機械のところへ行く道、すごく狭かった。昔の部品、二人で運べないと交換できないって、畑の人が言ってた」
ヨーゼフの匙が止まった。
俺は、手で幅を示した。
「性能がよくても、そこまで持っていけないと困るだろ。細い道の先で、誰が直せるかも」
「どちらの島でしょう」
名前を言うと、彼は上着のポケットを探った。
鉛筆はあった。紙がなかった。
マルタさんが、俺たちの間へ献立の裏を置いた。
「ほら。冷めないうちに書きな」
俺は覚えている港と集落の名前を書いた。
「売れるって話じゃないよ。今も同じ設備か、確かめないと」
「もちろんです。営業を通じて、現地の保守担当へ照会します」
工場長が答えた。
ヨーゼフは、俺の紙を折ってしまった。
さっきまで、説明を聞いても何も分からなかった。
その人が今は、俺に道の幅を聞いている。
ちょっとだけ、背筋が伸びた。
ヨーゼフが献立の裏へ、部品を運ぶ道、と書き足した。
「試験項目に入れます。現地の写真だけでは、交換する人がどこに立つかまで分かりませんから」
「立つ場所もないぞ。片方は水路、片方は崖だった」
「……先に伺えてよかったです」
鉛筆が止まった。今度は俺にも、その顔の意味が分かった。
飯の席へ持ち込んだ三年前の愚痴が、試作品を直す理由になったらしい。
「ます様、ほかにも何か」
「ある」
ヨーゼフが鉛筆を構えた。
「煮込みが冷める」
マルタさんが笑った。
工場長も笑って、ようやく自分の皿を引き寄せた。
*
午後、クローディアは先に帰った。
帰り際、上着の襟を直してくれた。
「見学、いかがでしたか」
「面白かった。まだ分かんないけど」
「では、お帰りになってから伺います」
「難しい説明になるかもしれない」




