第02話
夢の、なか。
真っ白なもやが立ちこめる場所で、わたし・アンゼリカは、ふわふわであたたかな、少し震える『なにか』を抱きよせる。
『なにか』は、今にもわたしの前から逃げ、いなくなってしまいそうで。
なぜかはわからないけれど、それにたまらなく焦ってしまったわたしは、必死にぎゅうっと胸に抱えた。
だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。
わたしは、あなたを――。
***
「んぅ……?」
意識がふわっと浮きがる感覚とともに、うっすら目を開く。
胸のところが湿ったようにあたたかく、やっていた手を無造作に動かすと、さらさら、しゃらりとやわらかな髪束にふれていた。
「ッ、ああ……そんな大胆に、アンゼリカ……♡」
わたしの紅い瞳は、信じられないものを捉える。
真っ白でつややかなシーツが敷かれたあまりに大きなベッド。
はだけた胸もとに、美貌の王子様……リュート様の頭をすがるように抱き、わたしは横たわっていたのだ――。
控えめなわたしの胸へ押しつけられるようにされていたリュート様の吐息は、驚くほど熱くて。
わたしは青くなってしゅぱっ!! と、蜘蛛の子を散らす速度で飛びのいていた。
しゃしゃしゃしゃ、とベッドの端まで下がる。
言葉もなく挙動不審に辺りを見回し、震えるわたしに、リュート様は頬を上気させながらも穏やかにこにこを保っていた。
「あっ、目覚めましたかー……ちっ」
(舌うちした?!)
「なんで、リュート様……」
状況を確認、しないと。
忙しなく目を動かす。
初めての場所。多分お城の高いところにあるお部屋だ。
窓の外、太陽や空気感から、時間は朝早い。
リュート様の香りを強く感じる。白と空色が基調の、それでいて重厚な家具が置かれた――恐らく、王子様の寝室。
下に目線を走らせると、見たことのない白いドレスを着せられていることに気づく。
(はだけていたのかと思ったけれど、ちがう。薄手で胸もとが開いたデザインなんだ)
まるで絵本に出てくる妖精さん、みたいな――ううん。
すごく心もとない婚礼用ドレス、のほうが近いかも……?
ふわふわの花びらを思わせる、繊細に波打ち広がるドレスは丈がびっくりするほど短く、太ももを惜しげなく目の前の麗しい男にさらしていた。
逡巡するようにリュート様をうかがう。
彼もこれまでとは考えられないほど軽装で、まとっていたのは純白に上品な金の刺繍が施された室内着。
普段は一番上まできっちり留められていた釦は、ただ引き締まった胸がさらされるほどに外され露出していた。
リュート様は、わたしの瞳が不安に揺れたのを察知したようで、ひどく悩ましげな表情で舌なめずりする。
「!!」
ぞっとするほど綺麗で、どこか嗜虐的なその顔に、わたしは。
弾かれたように立ちあがり、部屋の外へ駆けた。
重いドアノブを捻り、けれど拍子抜けするくらい簡単に脱出――。
刹那、ジャラララッ、と金属が這うような音とともに、くんっ。
足を引かれたわたしは気づくと、毛足の長いふわふわの絨毯に座りこんでいた。
「――え」
見たこともない形をした『鎖』が、ずるり、と幾重にも。
もつれるようにわたしの足へ絡む『それ』はまるで、リュート様の『影』から伸びているように見える。
「ああ……お転婆さんですね、私の未来の妻は」
ベッドの上でくすくす、と柔らかに言うリュート様。
ただその空色の目は、全然笑ってなんかいなかった。
「『獏』に、私に。『影』を食べられたのですよ? 君♡」
「どういう、こと……?」
リュート様が、『獏』?
王子様が授業でおかしかったのは、『獏』に縁があったから……?
神話のなかにしかいないくらいの『その子』。王族のかたになぜ……いや、逆に伝統があるからこそ関わりあいがある?
……あまりにわからない。けれど……。
このままだと、多分まずい。
わたしは魔術式構築を練り、まんまるもふもふの鳥さんをたくさん生成した。
リュート様のいるほうへ、鳥さんたちを一斉に放つ。
「おやおや、随分とかわいいご抵抗で」
体当たりしようとする鳥さんたちをいとも容易くいなすリュート様。
「この鳥さんは、生きもの以外貫通することもできる」
窓の外に数羽突きぬけたのを確認し、密かに安堵する。
もうひとつ組みこんだ魔術式は、決して彼には教えない。
(“わたしを助けられるひとに、この場所と危機を教える”――!)
正直、伝えたとして来てくれるかわからない。
ただ、そもそももし害意があったなら、リュート様はわたしが眠っている間にいつでも命を奪えたはず。
“『獏』に『影』を食べられた”という言葉も、わたしは知る権利と必要がある。
もちろん、怖さはある。でも、わたしはリュート様が悪いひとだと今も思えないし、今この瞬間も彼の瞳に揺れているあの違和感……感覚を信じたい。
幸い、ドレスだって動きやすい。
今のわたしにできることは。
「教えてほしい。あなたは、わたしになにをしたの?」
第三者が訪れるまで極限まで距離をとり、カードをそろえること――!
***
「はぁっ、はあっ……」
わたしは息を整え、余裕をまったく崩さないリュート様を見据えた。
攻防はもう、数時間続いている。
跳躍力強化の魔術式で、それでもわたしはリュート様の手からひらり、と逃れた。
「ふふふ、今日明日と公休を入れておいてよかったです。……こんなにかわいい天使とゆっくり追いかけっこできるのですから♡」
リュート様は、なんでもできる王子様と聞いてはいたけれど……!
取り急ぎ、カードは少しずつだけれど、増えてきている。
王家に継がれた『獏』の血筋。
リュート様はその継承者で、運命の相手――『番』を感じとるちからがあること。
わたしが彼にとっての『番』であり、既に『獏』が生涯一度だけ行使できる『影喰み』が施されていること。
(事実なのだと思う。現にわたしはリュート様から離れられない……捕縛の魔術式に近いけれど、もっと原始的かつ強固な構成の術)
改めて、先ほどとは別の扉から飛びだそうとする。けれども、真っ黒な『鎖』に絡めとられ、リュート様のほうへ引きずられてしまう。
幾度となく試してみたものの、本当に一定距離離れた瞬間に発動してしまうようだった。感覚として三十メートルあるかもわからない。
再び立ちあがり、美しい王子様へ向きなおる。
わたしは基本的に、生活の工夫に関する魔術しか遣えない。
お母さんは、攻撃特化なのだけれど……万が一お母さんと同じ魔術スタイルだったら、リュート様がけがをしかねないしなあ……。
その思案が、わたしの反射を遅らせたらしい。
リュート様に手を絡めるようにつかまれてしまう。
にいっ、と満足気な猫さんのように、王子様は凄艶な笑みを漏らした。
「……捕まえた、っ!?」
こ、こうなったら……!! わたしはその手ともう片方のリュート様の手も同じ形でつかんで、ぐぐぐっと取っくみあう姿勢をとる。
「魔女は大きな薬草鍋とか日常的に持ちあるく生きもの!!」
「えっ、あっ……本当に意外と力が強いですね?!」
しばらく、決死の押しあいが続いた。
でも。
「……アンゼリカ、けれどね?」
「きゃっ……!?」
不意に、リュート様はその手を引いてしまわれて。
わたしは完全に、彼の腕の中にいた。
「そろそろ限界なのですよ、私も……」
彼に抱えられ、じたじたするも、あまりにもあっけなく寝台へおろされる。
身をよじって逃れようとしたら、あまりに歴然とした体格差をもって、後ろからのしかかられた。
「ねぇ。アンゼリカ? 『番』の意味はわかりますよね……?♡」
ずりっ、ずりっと大きな男性の手が、わたしのお腹を這い撫でる。
そして、彼は耳もとで囁いた。
――私たちの子は、きっととてもかわいいですよ、と。
その声は、あまりに湿度を帯び。
熱に浮かされたようで、狂気すら滲んでいて。
……でも。
わたしは振りかえり、リュート様の目を間近で見つめた。
ほら、やっぱり。
「どうして、リュート様はそんなに……」
「……え」
「ずっと怯えているの……?」
そう。リュート様の柔らかに澄む空の色をした瞳の奥にわたしが見ていたのは……。
壊れそうなほどの恐れ、だった。
金色の睫毛に縁取られた目が見開かれ、リュート様のくちびるは震えだす。
「――何、を」
そのとき。
「うっおおぉおおお!!」
窓の外から、超速で『そのひと』は現れた。
ばりぃーーん、と凄まじい音と同時に乱入した無数の『紫蛇』により窓ガラスは粉砕され、飛行用箒ごと飛び込んでくる。
「やぁん、ちょっとォ! 雄々しい声出させないでくれなぁい!?」
慣れ親しんだ低音。長身で筋肉質の彼は、不機嫌そうに金の瞳を細め、後ろのほうで伸ばした紫髪をさらりと払った。
朝に放った魔術式の鳥さんの救援を聞き届けてくれたのは――!
「ヨルくん!!」
「アンゼ! アンタの救援伝言、意味不明すぎてマイナス五百点!!」
ヨルムンガンド=イストワール。
わたしと姓を同じくし、お母さんに育てられた兄弟子。そして。
この国の若き魔術師長様だ――。




