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奮い立て

静かに扉が開いたあと、そっと閉める音が聞こえた。


扉を背にして壁側を向きながらベッドで寝ていた私は目を開ける。時計を見ると深夜1時、ベッドから起き上がると音を立てないよう脱衣所へと向かった。


洗面台の上に取り付けられた鏡の前に立ち、伸ばした左腕にタオルを垂れ掛ける。体を前に倒し、肘を曲げて鏡の右下辺りにタオルを押し当てた。

中庭で拾って来た小さな石の尖っている部分をタオルの上から鏡に当て、手の腹で支えると私は両足を広げて踏ん張り、ゆっくりと力を加えていく。


ジリジリ、と鏡が鳴り出す。


少しづつ音の段階が高くなっていきパリッと小さな破裂音がして鏡が割れ、前のめりになっていた私の体は一瞬バランスを崩してしまう、割れた破片が落ちてしまわないよう慌ててタオルの上から手の平で押さえた。

鏡の破片をタオルで包み、その中から大きめな物を手に取った。


長く伸びた髪の毛を硬く縛った後、ヘアゴムを頭から10センチほど下にずり降ろし、それをテーブルの上に乗せる。左手で毛先を引っ張りピンと張らせ、右手に持った鏡片の切断面を束ねた髪に押し当てた。


ふぅと、息を吐く。

そして、バイオリンを弾くように私は右手をスライドさた。



もう、後戻りは出来ない。



———————



今朝、私は早朝の散歩をしなかった。

そして朝食を摂らず、昼食時も食堂に顔を出さなかった。そうしていると自ずと高橋が様子を見に部屋までやって来る。


ノックの音が聞こえて扉を開けるとそこには予想通り、高橋が立っていた。

「どうしたの?朝もお昼も食べてないみたいだけど」

「えっと、その、お腹が痛くて、体が重くて動きたくなくて…」

扉越しにそう言うと、高橋は察したように表情を動かし、薬を持って来るから待ってて、と言うと足早に去って行った。

私はベッドに潜り込み、壁側を向いて寝転んだ。


しばらくすると再び高橋がドアをノックして室内に入って来る。

手にはトレーを持っており、その上には薬とカイロとお茶の入った水筒、ブッセや小さなシフォンケーキの入ったお菓子の袋が乗っていた。


「ありがとうございます、気を遣わせてごめんなさい」

私は体を起き上がらせてそう言うと、高橋はトレーをテーブルに乗せ、ニコリと笑顔を見せる。

「寝てていいよ、これからは鎮痛剤と鉄剤を常備薬として杏奈にあげるね」

高橋はそう言いながらベッド横に屈んで私と目線を合わせた。


「ありがとう、…また、来てくれる?」

私は伺うように上目遣いで高橋の目を見ながらそう言うと彼はもちろんだと返事をした。

「次、来たらカーディガンを持って来て欲しい、です」

「え?カーディガン?」

高橋は私の部屋のハンガーにかけてあるカーディガンを見た。

「違うの、あなたのが、欲しいなって」

私はモジモジしながらそう言うと照れたように顔を俯かせる。

高橋は嬉しそうに笑い、私の頭を撫でた。

「いいよ、後で持ってくるね、杏奈の欲しい物なんでもあげる、今はゆっくり休んで」

そう言うと高橋は部屋を後にした。


私は高橋が持って来たお菓子と薬を口に放り込み、再びベッドに横たわった。

本当はお腹が痛いわけでも、体が重いわけでも無い、これは私の計画の一部だ。




先日、高橋の話を聞いて私は苦慮した。


私の考えていた通行人に助けを求める作戦やら救急車作戦は、通用しなさそうだからだ。

どこまで彼が見抜いているのか定かではないが、高橋は私の“従順じゃない部分”に気付いており、きっとこの状況を脱却する手立てを企てている事も想定しているだろう。


もしかしたら東京に向かうのはノンストップかも知れないし、もしかしたら深夜に出発してサービスエリアではなく人の少ないパーキングエリアのような小さい休憩所しか寄らない可能性もある。

全ては想定の話で可能性でしか無いが、これは命懸けだから半端な計画では動けない。

だからと言って大人しく一緒に東京に行く訳にはいかない。


高橋は本田に私を会わせるつもりだ。

…絶対に、会う訳にはいかない。


本田は私を見たら直ぐに気づくだろう、仁海と自分の子だと。

高橋は本田が母に対する執着を知らないから深く考えていないようだが、例え高橋が本田の大切なビジネスパートナーであろうと波乱が起きるのは目に見えている。


それと高橋が電話で話していたのはフクちゃんの事だ。あいつは近いうちに彼女に手を掛けるつもりでいる。

私は翔さんの事を助けられなかった。でもフクちゃんの事なら助けられるかも知れない。

来月の19日まで待っていたら間に合わない、だから私は動くことにした。


本当はとても怖いすごく、すごく。


一度失敗しているから、あの感覚をまた味わうのはもう嫌だ。

でももう、怯えてばかりの泣き虫な私じゃ無い。


どんなにあいつに本心を見抜かれ、弱みを握られていようが私には首輪もリードも付けられていない。

何をしようが私の自由だ。


私はフクちゃんを守ってみせる。


そして高橋から、本田からも逃げ切ってみせる。

私はやろうと思えばいつだってここから抜け出せる、私は自由だ。



————————



思ったよりも切れ味の悪い鏡片の切断面を何度か押したり引いたりしていると髪の毛が頭から切り離す事が出来た。

これだけの作業で私の息は上がり、全身に汗を滲ませてしまう。

残った髪は肩ほどの長さになり、毛先は凸凹で所々長く、酷い髪形になってしまった。


トイレのサニタリーボックスにセットしてあった黒いビニール袋を取り外してその中に丸めたタオルを入れ、枕の上に置くと先ほど切った髪の毛を添えて布団を半分くらいまで掛ける。布団の中にはクッションを2つ、縦に並べている。

部屋の扉側から見るとまるで私が横たわっている姿に見えるように。

日中はなるべく壁側を見る形で横たわっていたから、高橋がまた扉越しに様子を覗きに来たとしても私の後頭部だと思うだろう。


私の予想通り、高橋は定期的に様子を見に来ている、その行動が示すのはこの部屋に監視カメラが設置されていない事と、私の事を制御出来ている自信がない、もしくは監視下に置きたいからだ。

この偽物の私が少しでも時間稼ぎになってくれるといい。


高橋が置いていった黒いカーディガンに袖を通しボタンを閉めると、スタンドカラーのカーディガンは私の顔の下半分を隠した。

甘くてスモーキーな私が大嫌いな匂いがしている。


長い袖から手を出してドアノブを握り、少し開けて外の様子を確認する。暗い廊下は静まり返っており、人の気配はなかった。

スリッパを脱いで部屋を出るとそっと扉を閉めて足音を立てないように廊下を歩いて行く。


目指すのは1階。

通りの突き当たりや角に行き着く度に私は立ち止まって人が居ないかを確認する。

人が居たらどうしよう、それがもし高橋だったら…そう考えると吸い込む空気がずっしりと重いものに感じ、身体をも振動させるような鈍くて重い鼓動が耳にまで届いて来る。


時折深呼吸をし、力み過ぎないよう程よい緊張感を保つように心掛けた。

目と耳を研ぎ澄ませて神経を集中させて、暗闇と静寂に身を潜めた。


1階へ着くとテラス窓まで駆け寄る。順調だ、後は外に出るだけ、




「…後藤さん?」


静かな空間で背後から突然声が聞こえ、窓を開けようと手を伸ばした私は動きを止めた———。

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