暗闇へ飛び込む
先ほどまで聞こえていた自分の心音まで止まってしまったかのように静まり返る深夜の室内。
私の背後で名前を呼んだ人物は更に言葉を発する訳でもなく黙って私の動きを探っている様子だった。
手を袖の中に隠し、ゆっくり振り向くとそこには牧内啓太が立っていた。
最悪だ…
もはや諦めのような感情が滲み、呆然とその場に立ち尽くす。
「出て行くんですか?」
小声でそう問う牧内啓太。私達2人には距離があったが、彼の声はしっかりと届いた。
私は何も答えず、何のリアクションも起こさずいたが彼は続ける。
「助け…警察とか、に?」
「…」
しばらくの沈黙の後、彼は予想外な発言をする。
「お願いします、呼んでください、警察」
私は思わず顔を上げて彼を見た。
「僕はもうこんな事したくない、ケアして来た人達を、まだ生きてるのに…殺すなんて、こんなの間違ってる…でも…怖くて…僕には何も出来ない…僕は人を助ける為に看護師になったのに…」
悔しさと悲しみの滲んだ声で彼は訴える。
「母もどんどんあいつに心酔していって、僕の話を聞いてくれないんだ、お願いします後藤さん、僕達を……助けてください」
そう言うと彼は私に向かって頭を下げた。
下を向いた彼の顔からは微かな光に反射した水滴がポロリと床に落ちていった。
すると、突然通路の奥でパッと灯りが付く。
牧内啓太は光の方へ顔を向けると、慌てて私に早く行くよう手を振ってジェスチャーしている。
そして彼は電気の付いた方へ歩いて行くと、灯りを付けた人物に話しかけ、足止めしてくれている。
私は体の向きを変えてテラスから外に出ると、棚に置いてある黒色のクロックスサンダルを手に取った。
芝生の上に放ると走りながら足に滑り込ませ、足早に花壇へと向かう。
この施設の外周は高さ2m以上ある塀に取り囲まれている。
その塀は木の板を横に並べただけのシンプルな造りになっており、施設とは不釣合いな無骨さがある。垂直に建てられたツルツルとした、ただの木の板を登るのは現実的ではないと分かっている、だが、私は塀に近づいた。
足を止めたのは黄色の薔薇の前。
キョロキョロと周りを見渡し、人が居ない事を確認する。施設内の灯りも消えており、先ほどいた人物はもういないようだ。
私はしゃがんで薔薇の根本を掻き分ける。
カーディガンの袖を引っ張り腕や手を守ろうとするが、薔薇の棘に対してニットのカーディガンでは何の防御にもならず、棘が刺さったり引っ掛かったりしながらも、痛みに耐えて薔薇を押し退けた。
あった、ここだ、
私が見つけたのは木の板の腐って変色している箇所だ。
以前、翔さんが指を刺して笑っていた。
“あいつ、いつも黄色の薔薇にしょんべん引っ掛けてる”って。
立ちションしていた当の本人は見かけなくなったが、私はその事を覚えていて先日ここを見つけていた。
名前も知らないかつての施設利用者の習慣のお陰で私はこの施設から脱出するチャンスを得たのだ。
背のほどの高さの薔薇と柵の間に入り込み、鏡を割った時の要領で私は膝を曲げて押し当ててゆっくりと体重を掛けた。
動く度に背後にある薔薇の棘が刺さり、その度にビクビクと体が反応してしまう。
無数の棘に攻撃されて体のあちこちが痛かった。ベージュのルームウェアのズボンは所々破れ、血が滲み出す。
力を入れる程に汗が滲み、呼吸が荒くなっていく。
塀にへばりつく様に体を押し当て力を加えていくとメリメリと木の裂ける音が聞こえ始める。
バリッと鳴って木がくの字に折れ曲がる。
思いの外大きな音に私は周囲を見渡した。
外から見える施設の一列に並んだ窓は暗いままで動きは感じず、りーりーりーと言う虫の鳴き声以外何も聞こえない。
濁りのない濃紺色の澄んだ夜空と影のように黒い樹木群が夜の森の存在感を主張している。
風が吹き、汗ばんだ私の体を冷やす。
落ち着いて、冷静に、大丈夫。
荒くなった息を整える。
…よし、行こう、
私は四つん這いになり、ふくらはぎをガリガリと薔薇の棘に引っ掻かれながら塀に空いた穴から外に出た。




