賢い判断
何もない部屋でただひたすら泣いて時間を潰しているだけなのに、私の体は生命維持のために動いている。
生きているから仕方ないが、かれこれ体感で30分ほどは我慢している。そろそろ限界かも。
私は部屋の隅で正座して体をもじもじさせた。
静かだったカメラの動作音が聞こえ、フォーカスリングが動く。
しばらくすると部屋の扉が開き高橋が姿を現した。
私は正座したまま彼を睨む。
高橋は私が飲んだ空のペットボトルを見ると、トイレ、行きたいんでしょ?と聞いた。
目を逸らしてコクリと頷く。
高橋は私に近づき、体を支えながら体育座りさせると膝のベルトを外し始めた。
下半身からベルトが外れて行き圧迫されていた筋肉や血管が解放されて、体が解れていく。
クロスして固定された腕を解き背中のファスナーを下ろすと締め付けていた拘束衣が一気に体から離された。
中に着ていた薄手のワンピースが露出すると涼しい空気が体に当たりその気持ち良さに思わずため息が出る。
拘束衣は通気性が悪く汗が蒸発されずずっと不快だったからだ。
「立って」
高橋は私の腕を引っ張り立ち上がらせると、凝り固まった膝の関節がギギと鳴った。
私は転けないように高橋に掴まって歩く。
部屋の外に出ると見覚えのある細長い通路、やはりここは地下だった。
「5分後に強制的に開ける、そのつもりで」
トイレに着くと高橋はそう言って扉を閉めた。
私は壁に手を当ててバランスを取りながらトイレに座ると我慢していたものから解放されて、ほっと息を吐く。
便座に座って足首を動かしながらふくらはぎのストレッチをして足をほぐし、高橋にドアを開けられる前に自らトイレを出た。
高橋は何も言わずに私の腕を掴み部屋まで連れていく。
部屋に戻り高橋は床に置いてあった拘束衣を手に持つと、私はそれに反応し、壁に背中をつけて警戒する。
「嫌なの?」
冷淡に言う高橋に私は頷く。
「じゃあ自傷しないと約束できるならこれは着せない、その代わり、少しでも自傷している素振りがあったら着てもらう」
もう一度頷くと、高橋は拘束衣をくるくるとまとめて腕の中に収めた。
その行動を見て私はほっと胸を撫で下ろす。
先ほどから身も心も軽くなってばかりいる、拘束衣が自分にとってどれぼどストレスだったのかが分かる。
高橋は白衣のポケットから新しいミネラルウォーターと飴を一つ取り出して床に置いた。
「お利口にしていれば食べ物が増えていくから」
そう言うと高橋は部屋を出た。
高橋が部屋を出ると私は飴の袋を開けて口に放り込んだ。
久々に味のするものが口に入り、その美味しさに感動を覚える。
飴玉一つでお腹が満たされるとは思えないが、それでも心が満たされていくのを感じる。
しばらくすると再び高橋が部屋を訪れる。
片手には施設で利用するランドリーバッグを持っていた。
「着替えを持って来たから袋の中に入っている物と替えろ」
そう言うと部屋の端に居た私にバッグを投げた。中を見ると施設のルームウェアと私の下着類が入っていて、勝手に部屋に入って人の下着に触ったのかと思うと鳥肌がゾワっと立つのを感じた。
気持ち悪い奴…
そう思いながら高橋とカメラを交互に見る。
「今、ここで着替えられないなら持って帰るぞ」
挑発的な物言いに私は乗り、高橋を睨みながら立ち上がって袋を広げると、彼とカメラに背を向ける状態になるように部屋の角を向いた。
スカートから手を入れパンツを脱ぎ、清潔なパンツとルームウェアのズボンを履く。
柔らかな床で片足立ちするのはバランスを崩しそうだったが、私は手早くその作業をこなした。
その後ワンピースの背中のファスナーを下げてキャミソールとブラジャーを脱ぐ。
胸が後ろから見えないように手で押さえながら下着を装着し、上着を着た。
「こっちに持って来い」
脱いだ服をランドリーバッグに入れると私は不服な顔をしながら高橋に歩み寄り袋を渡す。
視界の隅に入った高橋の口元は笑っていた。
私の真っ赤な顔がそんなに面白いのだろうか、嫌な奴。
高橋は袋を受け取ると顔を覗き込むように顔を近づけ、良く出来ました、と言って部屋を出た。
—————
1人で居ると故郷の島の事を良く思い出す。
絶えず聞こえる海の波音、潮の匂い、衣類に入り込む細かな砂、同居している子供達の賑やかな話し声、みんなで囲った食卓。
もう一度帰りたい。
早苗さんに会いたい。
そんな思考が無限にループして何度も涙を流した。
何も無い真っ白な部屋に閉じ込められ、泣くかボーと一点を見つめて時間をすり潰している。
今は早苗さんを亡くした悲しみで思考は固定されているが、その内この悲しみを受け入れるようになったら私はこの空間に耐えられるだろうか。
何も無いただの白い部屋。
不意に思考が停止すると、静か過ぎて耳鳴りが怖いくらいに音量を上げ出す。
気が狂いそうだ。
高橋の考えている事が分からない、組織を危険に晒した人物なんだからさっさと殺せば良いのになぜ私を生かしているのか。
じわじわと楽しみながら嬲殺そうとしているのだろうか。
あんなサイコパスの考えている事なんて知りたくも無いが。
部屋の隅で体育座りしてそんな事を考えていると扉の開く音が聞こえ、顔を向けるとラップに巻かれたサンドイッチを床に置く白衣の腕が見えた。
それを床に置くと去ろうとしたため私は慌てて声を掛ける。
「待って」
高橋は扉を少し開け、私を見る。
「いつまで、私はいつまでこのままなの?」
そう聞くと少し間を置いた後
「僕が飽きるまでかな」
と言って部屋を出た。
それを聞いた私は、まだあいつのペットだったのかと自分の置かれた立場を理解したような気がした。
高橋はまだ私で遊びたいんだ——。
その後も高橋は定期的におにぎりや惣菜パンなど、ラップに包んだだけの食材を置いて行き、その内紙スプーンを付属したプリンなども持ってくるようになった。
ある日、白衣では無い腕が扉越しから伸びて食べ物を置いた。
それは黒いポロシャツを着た牧内啓太さんで、私は「待って!」と声を掛けるが彼は私をチラリと見ると慌てて扉を閉めて行ってしまった。
きっと彼は命令に従って此処に来たのだろう。牧内親子は高橋に盲従だ、そう思わずにはいられなかった。
ふと、高橋の言っていた“被害を最小限に抑えた”と言う言葉を思い出す。
本当にあのまま私と早苗さんが島に帰っていたら『山と海とこどもの家』の子供達や義理姉の理恵さん、香さん家族もみんな手を掛けられていた可能性はある。
これで良かったのだろうかと考えてしまう。
私は高橋を裏切るような行動を取ったが、彼はまだ私を生かしている。
高橋にとって私がまだ特別な存在なのであれば…
——————
ある時、高橋がサンドイッチと一緒に小説を持って来た。
サンドイッチよりも小説が嬉しくて私は手に持っていた本に釘付けになる。
高橋はそれを床に置くと出て行こうとし、私は思わず声が出た。
「…ありがとう」
ぱっと口に手を当てて目線を外し、ゆっくりと高橋の方に目を向けると彼はすっと目線を逸らし部屋を出た。
“大人しく言う事を聞いていれば良い事がある”
そんなプロセスが頭に浮かぶ。
私は支給された小説をじっくりと味わいながら読んで過ごした。
音も色も何もない空間だが、本があるだけで有意義で心穏やかな時間を過ごせる。
ゆっくり読書をしていると扉が開く音が聞こえ、目を向けると高橋がランドリーバッグを持って立っていた。
「着替えろ」
そう言ってバッグを私の居る部屋の隅に投げる。
今着ているのはパジャマのようなルームウェアで、前回のワンピースとは違い下半身を隠せるだけの面積がない。
私は少し戸惑いながら本を閉じて袋を手に取り、立ち上がった。
前回のように部屋の角を向いて上着のボタンを外す。
キャミソールとブラジャーを脱ぎ、胸を手で押さえながら清潔な物を身につける。
そしてズボンのウエストゴムに親指を引っ掛けるが、手を止めてしまう。
少し躊躇した後、私は意を決してズボンを下ろし、パンツを脱いだ。
自分で脱いだが下半身が露わになり、お尻を見られていると思うと居た堪れなくて急いでパンツを履いた。
嫌な汗をかきながら脱いだ服をランドリーバッグに詰め込み、足元に視線を落としたまま高橋の所まで持って行く。
ランドリーバッグを受け取ると高橋は白衣のポケットに手を入れて、小袋に入ったクッキーを取り出した。
「よく出来ました」
そう言ってそれを差し出し、私は素直に受け取る。
こんな風に順応していけばその内私はここから出して貰えるのかも知れない。
素直に、彼の望むように。
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幼い頃、母の膝の上であんころ餅を食べているとふと疑問が湧いて何気なく聞いた。
「杏奈はなんで“あんな”なの?」
「お名前の事?」
「うん」
「お母さんのお名前には“海”が入っていてね、だから杏奈には大地に由来したお名前が良いなって思ったの」
杏奈の“杏”は果実の実る木の事。
土に深く根を生やして、綺麗なお花と美味しい果実を付ける杏のような実りある人生と、美しい心を持って欲しいから。
杏奈の“奈”は人を助けると言う意味があるの。
困っている人がいたら綺麗な心で人の事を助けて欲しいな。
母はそう説明した。
幼い私にはよく理解できなかったが大切な話なのだという事を肌で感じ、口の周りに粒あんを付けながら母の話を聞いていた。
最後のフレーズで“困っている人がいたら助ける”それが心に残り、私の医者になりたいという気持ちを作り上げたのかも知れない。
——幼い頃の夢を見ていたら小さな物音で目を覚ました。
扉の近くには本と小袋に入ったマドレーヌを床に置く高橋の腕があった。
私が小説を読み終えた事を監視カメラに映る様子で気付いて新しい本を持って来たのだろう。
すぐに去ろうとする高橋に私は起き上がって声を掛ける。
「あ、待って」
高橋が扉を開けると私は立ち上がって彼に近づいた。
「えっと…少し話したいんだけど、いいですか?」
高橋は両手を白衣のポケットに入れ、冷たさの宿る目で私を見る。
「…あの、ごめんなさい、私…」
そう言うとじわりと涙を滲ませる。
「あなたを裏切るような事をしてしまって、こんなにも私の事を守ろうとしているのに…全部私のせいなのに、本当にごめんなさい…全部私が悪いの…」
涙が頰を伝い、服の袖で拭いた。
高橋は無表情のまま動きもせず、ただその場に立っているだけだった。
「…あの、どうしたら償え…ますか?」
私は顔を上げて高橋の顔を見る。
高橋の頬が片方だけピクリと動くのが見えた。笑うのを堪えているような仕草だ。
「さぁ、どうしたらいいのかな、僕にも分からないよ」
淡々とした口調で高橋がそう言うと私は少し戸惑う仕草をした後、両手で白衣を掴んで握りしめ、ゆっくり踵を上げて彼の唇にキスをした。




