生存戦略
【ストックホルム症候群】
被害者が加害者に対して親近感や依存心を
抱くようになる心理現象の事を指し、語源
は1973年スウェーデンのストックホルム
で起きた銀行強盗人質立てこもり事件から
由来する。
約6日に渡って監禁された人質達は犯人に
協力的な態度を示すという異常な行動から
名付けられた。
この事件では犯人逮捕後、犯人を庇うよう
な証言をしたり、恋愛感情を口にする被害
者もいたそうだ。
この“ストックホルム症候群”は病気や精神
疾患として見なされているわけでは無く、
正式な病名として認められている訳ではな
い。
誘拐、監禁、虐待など特殊な状況下におい
て、自己防衛、生存本能から成す一連の心
理行動とされている。
命の危険に晒される極限状態において、自
らを守る為に被害者は抵抗などをせず加害
者の要求に従ったり、歩み寄る行動を取っ
たりする生存戦略だ。
さらに被害者は恐怖や強いストレスによっ
て精神崩壊を招かぬよう、心のバランスを
保つため加害者の行動を肯定的に捉える事
もある。
そして加害者が被害者を支配するような状
況下において、加害者のちょっとした親切
がとても大きく感じ、被害者は感謝の気持
ちが芽生えたり、信頼し依存するようにな
る。
——少しうろ覚えな部分はあるが、これは高橋が以前貸してくれた本に書かれていた事だ。そして、あの晩、高橋の部屋で私が陥った心理状況もこれに近い。
何が“自傷癖がある”だ。
拘束衣も全て、心理操作をする為の道具に過ぎない。
ストレスを与え極限状態に置いて、少しづつ解放していく、じわじわと安心感を得られた私は高橋に依存するようになる、と思ったんでしょ?
私の事ちょろい女だと思ったら大間違い、2度も同じ手を喰らうと思うなよ。
私は高橋を許さない。
こんな所で時間を無駄にされてたまるか。
あいつを白日の元に晒して罪を償って貰う。
そして自分の人生を取り戻す。
その為ならお尻を見られたり唇を差し出すくらい安いものだ。
早苗さんは私の容姿の事を“障害にも武器にもなる”と言っていた。
ならば今こそ武器として使う時だ。
あいつの心理操作に掛かった振りをして従順な犬を演じる。
そしてチャンスを伺って反撃してやる。
高橋洸平、私は絶対にお前を許さない。
——————
柔らかな唇が軽く触れると私はすぐに踵を床に戻し、頰を赤く染めて顔色を伺うような目線を高橋に送った。
無表情だった彼は眼鏡を直す仕草と共に俯くと、肩を揺らし始める。
表情は見えないが明らかに笑っている。
これはなんの笑いなのか分からず、私は一瞬不安になる。
すると高橋の腕が腰に周り、ぎゅっと体を抱き寄せられた私はうっと声が出てしまう。
力強い抱擁に応えるように高橋の脇から手を回し背中に置いた。
「やっと分かってくれたんだね、僕が君を大切に思う気持ちが」
高橋はそう言うと私の耳元に沈めた後頭部が少し浮き、唇を重ねる。
着けたり離したりモゾモゾと動くやつの唇が、芋虫が唇の上で蠢いているかのようで気持ち悪い。
眼鏡や鼻が顔に擦り当たり、高橋の存在そのものが自分にくっ付いていると思うと突き飛ばしたい衝動に駆られる、でもそんな感情を悟られてはいけない。
今は大人しく、素直に受け入れる。
高橋の顔が離れると私は顔を逸らして息をはぁと吐いた。
「キスの仕方も知らないのに自分からしてくるなんて、可愛いね、杏奈は」
そう言うと再び顔を近づけ軽いキスを交わした。
私は上目遣いで高橋の目を見て照れたように微笑み、彼の肩に頭を乗せる。
開けっ放しの扉の向こうに車椅子が畳まれた状態で壁に立て掛けられているのが目に入った。私を運ぶのに使ったのだろうか。
車椅子の鉄製のフレームに映った自分と目が合うと、父親譲りの灰色の瞳が照明に反射して冷たく光っていた。
———————
降り注ぐシャワーに顔を当てて唇を強く擦った。ついでに頰とあいつの顔が当たった首元も。
「気持ちわる…」
シャワーヘッドの散水板から細く降り注ぐ水を見ながら先ほどの情景を思い出し、思わず呟く。
地下から出ると外の世界は夜だった。
時計は午後11時を指していて、久しぶりに見る暗い施設内に私は安心感を覚えた。
そして高橋は私の手を握ったまま3階まで行くと私を部屋まで送る。
高橋の部屋に連れ込まれるのでは無いかと思ったが、足の向きが自室に向けられると私は悟られないようにホッと胸を撫で下ろした。
部屋の場所やドアプレートがそのままだったので、私は“引き篭っている”という設定でこの施設に居る事になっていたのだろうと推測した。
「今夜はゆっくり寝て、また明日ね」
去り際、扉越しに高橋はそう言うと周りに人がいない事を確認してから私の頰に手を添えてキスをした。
唇を離すとおでこをコツンと当て、別れを惜しむかのようにはぁとため息を吐くとおやすみ、と言って頰から手を離した。
私も離れていく彼の手を両手でそっと包み、おやすみなさいと言って“しおらしさ”を演出する。
パタンと扉が閉まると私は急いで袖で唇を拭いた。
…こんなの、屁でもない。
そう、自分に言い聞かせる。
お風呂を出てベッドに背中から飛び込むと、久しぶりの寝具に体が解れるのを感じた。
ふぅと息を吐き、第一関門を突破した達成感に浸る。
ベッドヘッドに置いてあるデジタル時計を手に取り、日付を確認すると丁度日付が変わり9月3日と表示されているのを見て私は2週間以上も地下に監禁されていたのかと愕然とする。
何が“大切”だ、何が“守る”だ、全て私欲を満たす為だけに私を拘束して監禁して洗脳しようとして、ふざけんな。
悔しくて手に持っていた時計をギュッと握りしめる。
「大っ嫌い…」
思わず呟く。
下着以外にあいつに部屋を荒らされているのではないかと気になり、確認する為ベッドから立ち上がって室内を見渡すと扉の横に設置された棚の足元に何か小さな紙切れが落ちているのを見つけた。
棚に近づき手に取ってみると、それはカレンダーの切れ端で、裏面に何か書いてある。
『アカちゃんへ
気が向いたら連絡して
000-0000-0000
LINE ID ・・・・・』
書いてある内容を見てカナちゃんのメモだとすぐに分かった。
きっと私が引き篭もっていると思って扉の隙間から差し込んだのだろう。
彼女は8月いっぱいでこの施設を出ると言っていたからもう今は居ないはずだ、謝罪も別れの挨拶も何も出来ないままカナちゃんと離れてしまった。
切なさで胸がきゅっと締め付けられる、と共に、メモを残してくれた事が嬉しくて私はそのカレンダーの切れ端を胸に当てた。
もし、何かあって、このメモを捨てられたりしても大丈夫なように私はカナちゃんの電話番号とLINE IDに繰り返し目を通し、頭にしっかりと記憶した。
ここを絶対に出るんだ、そしたら家族や友達、カナちゃんにも会いに行く、絶対に。
そう心に誓い、私は涙を拭いた。




