3740.現場での教育
翌日、朝食前に回診が来た。
医官セプテントリオーと研修医のヴェスペルゴ王女、点滴や血圧計などを乗せたワゴンを押す看護師たちだ。
二人を護衛する近衛兵も一緒で、デルタ伍長は仮設アルブム港湾病院の六人部屋が狭くなった気がした。
医官セプテントリオーが、まだあどけなさの残る研修医に説明する。彼は中年に見えるが、長命人種で、呪医の職歴が四百年以上ある大ベテランらしい。
「院長からも説明されたと思いますが、魔獣に襲われた負傷者への【見診】は、感染の徴候などに注意して診て下さい」
「はい。異界由来の病原体だと、急に悪化することがあるから……ですよね?」
研修を始めて一年以上経つ筈だが、ヴェスペルゴ王女は自信なさそうだ。
医官セプテントリオーは、やさしく微笑んで肯定した。
「そうです。炎症や発熱、組織の壊死など、僅かな徴候も見落としませんよう、お気を付け下さい」
「はい……今のところ、そう言うコトがあった患者さんは居ませんでしたわ。でも、魔法の消毒薬に取りこぼしが出るものなのですか?」
二人ともラキュス・ラクリマリス王国の王族で、親戚の筈だが、随分と他人行儀な態度だ。
「患者さんが一度に大勢、搬送されますと、現場が慌ただしくなります」
「えぇ、昨日もとても忙し……あッ! 途中で抜けてしまってごめんなさい」
中学生くらいに見えるヴェスペルゴ王女が、目線の高さが同じくらいの中年男性の顔色を窺う。
小柄な医官はにっこり笑って応じた。
「いえいえ、王女殿下のご出陣、頼もしく思いました」
「そう……? 呪医としてはまだまだ全然お役に立てませんから、せめて魔獣退治くらいはと思って出ましたの」
「私には巨翼の顎と戦うなど無理ですから、大変助かりました」
昨日、フリグス基地に出現した大型旅客機並みの飛行型魔獣は、巨翼の顎と言う種類らしい。
デルタ伍長は後で魔獣図鑑を調べようと、心の中でメモした。
研修医のヴェスペルゴ王女が首を傾げる。
「セプテントリオー様も去年、倉庫くらいもある大きな鱗蜘蛛と戦われましたわよね?」
「私は【従僕の絆】で魔力を供給しただけで、実際に戦ったのは近衛兵ですよ」
「でも、指揮はなさいましたわよね?」
「大したことはしていませんよ」
医官セプテントリオーは苦笑した。
二人がのんびり話す間も、看護師たちは、治癒魔法の反動で衰弱したバルバツム兵の検温と血圧測定、点滴の交換、下の世話を手際よく進める。
ヴェスペルゴ王女が話題を変えた。
「セプテントリオー様がお元気になられて、わたくし、とても安心しましたの」
「えぇ。ご心配をお掛けしまして恐れ入ります。四月にウェルム王女殿下のお産をお手伝いした際、ドラコさんが【活力移送】で体力を分けてくれまして、それでここまで回復できたのですよ」
「まぁ……そんなことが?」
研修医の王女が驚く。
……普通はそんなのできないってコト?
デルタ伍長には、ヴェスペルゴ王女が何に驚いたかわからない。
医官セプテントリオーは、何事もなかったかのように続ける。
「えぇ。ウェルム王女殿下に生命力をお渡しする筈が、私で止まってしまいましてね」
「ドラコさんは大丈夫でしたの?」
ヴェスペルゴ王女が三カ月も前のことを今更心配する。
「彼は魔力を体力に変換する魔道具を持っておりましたので」
「よかった!」
王女が無邪気に笑顔を咲かせる。
医官セプテントリオーも頬を緩めた。
「お陰でこうして復帰できました」
「まだ午前中だけですわよね?」
「えぇ。一昨日までは、クレーヴェルの中央市民病院で午前中だけ、それも、予定された手術の補助しかさせてもらえなかったのですよ」
ヴェスペルゴ王女が顔を曇らせる。
「まだ、本格的な復帰はご無理ですのね? お身体、大丈夫ですの?」
「私は大丈夫だと思うのですが、今週いっぱいまでは時短勤務で様子を見なければならないと言われました」
医官セプテントリオーが不満を漏らす。
近衛兵たちは途端に微妙な顔になった。
……社畜かな?
バルバツム連邦陸軍のデルタ伍長は、病床で何とも言えない気持ちになった。どちらかと言えば、近衛兵たちに共感できる。
研修医のヴェスペルゴ王女が、病室を見回して遠慮がちに聞く。
「あの……昨日の兵隊さんはどうなさるんですの?」
「一晩考えてみましたが、まだ結論が出ません。今日は帰ってすぐ、シェラタン陛下に相談します」
「それがよろしいですわね」
王女は明るい顔になった。
デルタ伍長が地図を見た限り、ラキュス・ラクリマリス王国には城が複数ある。
ここでこんな話が出ると言うことは、この王族二人はそれぞれ別の城で暮らすのだろう。
「話を戻しますね。救急処置室が慌ただしくなると、どの患者さんに消毒薬を使用したか把握できなくなることがあるのですよ」
「昨日もそうだったんですの?」
医官セプテントリオーは何でもないことのように言う。
「昨日くらいでしたら、ヂェーニとここの医療秘書官の二人だけでも手が回りますが、慣れない秘書官では、誰に何の処置を施したか記録が追い付かず、呪医が複数居ると誰がどの患者さんを治療したか把握できなくなることがあります」
「それで、消毒漏れが起きるかもしれないんですのね?」
研修医のヴェスペルゴ王女は、わかった顔で頷いた。
「そうです。忘れるくらいでしたら、余分に消毒する方がいいのですが、まだまだ魔法薬の量が不足しがちですからね」
「節約したくなる気持ち、わたくしもこの一年余りでよくわかりましたわ」
王族の二人が頷き合う。
「消毒薬が不足することもありますし、患者さんの状態によっては、消毒より先に傷を塞がなければなりません」
「傷口がなければ、消毒薬できませんものね」
「そうです。今回は、消毒を待てる程度の患者さんばかりでしたが、これまで、そのような重傷者は来ませんでしたか?」
医官セプテントリオーが当たり前のように言って、研修医に聞く。
病床のデルタ伍長は、病床で目を剥いた。
……手足食い千切られた重傷が「まだマシ」扱い?
中学生くらいに見える研修医も平然と答える。
「いえ、院長がわたくしに説明する間、看護師たちが消毒してくれていました」
「そうなのですか。あの消毒薬は魔法薬で、通常は患部に塗布するだけでいいのですが、傷を塞いだ後で投与する場合は、注射が必要になります。呪医の免許では注射器を扱えませんので、必ず、科学の医師免許か看護師免許を持つ職員に指示して下さい」
「そうなんですの? 今までそのような症例がなかったものですから、院長からは何も」
研修医のヴェスペルゴ王女が困惑する。
「実際の症例で逐次、教える場合、まだ遭遇していない症例は、説明できませんからね。そちらは大学の方でじっくり教わるとよろしいかと」
「セプテントリオー様の頃は、大学がまだございませんでしたわよね? どのようにお勉強なさったんですの?」
「五歳から修業を始めて、実際の症例と文献で教わりましたが、徽章を得るまで十年掛かりましたよ。さあ、一緒に【見診】しましょう」
医官セプテントリオーは懐かしむ目で答えると、診察の呪文を唱えた。




