3720.情報漏洩対策
印暦二二〇二年四月三日。
セプテントリオーが、クレーヴェル城内に与えられた私室で白衣に袖を通す。軍医用の赤い刺繍糸ではなく、魔力の消費量を抑える薄青い刺繍糸で各種防護の術を施されたものだが、久し振りに纏うと身が引き締まる思いがした。
約一年振りに対面したヂェーニが、眼鏡を外して目頭を押さえる。
呪医セプテントリオーは医療秘書官ヂェーニを伴い、保健省の医官としてクレーヴェル城を出発した。近衛兵が【跳躍】で一行を運ぶのは、ネモラリス島西部に位置するデプルスム市だ。
街を囲む防壁の周囲に青草が萌え、春の花が穏やかな朝日の下で咲き乱れる。
デプルスム市は、交通の要衝ギアツィント市の北隣、チャール島の対岸の湾を領有する港街だ。
デプルスム湾は北西に開口する。穏やかな湾内と外の小島が点在する漁場を大小様々な漁船が行き交う。ギアツィント港は旅客と貨物が中心だが、こちらは漁業と養殖業が盛んな港なのだ。
かつてはエウロアウステル侯爵領だったが、旧王国時代末期にウェルム王女との縁組が成立し、ラキュス・ネーニア王家の直轄領となった。
夫のドラコはエアロアウステル侯爵家の次男で、ウェルム王女との婚姻で王家に婿入り。エアロアウステル侯爵家は、ラキュス・ネーニア王家の代官として、共和制移行まで引き続き統治した。
共和制時代も、家門から幾人もの市長を輩出して市政を担う。この侯爵家は、民からそれなりに慕われていたのだろう。
呪医セプテントリオーは、数日前から少しずつ与えられた情報を反芻しながら、デプルスム市の南門を潜った。
様々な商店に挟まれた大通りを魔道発電式電気自動車のトラックが走り、歩道を行き交う人々の顔は明るい。
ウェルム王女の懐妊はまだ公にされていないので、この地の景気の良さを反映してのことだろう。
「セプテントリオー殿下、ご静養中にも拘わらず、デプルスムまでご足労賜りまして、誠に恐れ入ります」
屈強な魔法戦士が、やや震える声で挨拶する。緑髪の青年は、小柄なセプテントリオーより頭ふたつ分も背が高い。
南門の脇で出迎えた巨漢は、ウェルム王女の夫ドラコだ。彼が分厚い防壁に手を触れると、魔法で隠された扉が現れた。
ラキュス・ネーニア王家の血縁者か、特に認められた者以外には存在すら認識できない【認証】の掛かった扉だ。
「妻……ウェルム王女殿下を何卒よろしくお願い申し上げます。早速ですが、城へ参りましょう」
「わざわざお出迎えいただき、恐れ入ります」
呪医セプテントリオーが恐縮すると、ドラコは更に輪をかけて恐縮した。
「いえ、とんでもない。ゆっくり休息なさって、万全の態勢でお願いします」
床に【跳躍】許可の魔法陣があるだけの殺風景な部屋に招じ入れられる。
ドラコは、呪医セプテントリオー、医療秘書官ヂェーニ、近衛兵五人、アルボル女官長と若い女官モルムを一度にまとめて運んだ。
セプテントリオーは旧王国時代、軍医として何度かこの地に派遣されたことがある。デプルスム城は半世紀の内乱を経ても、数百年前と同じ威容を保っていた。
「まずは、ごゆるりとお寛ぎ下さい」
ドラコが家令に命じ、呪医セプテントリオーの一行を客間に案内させる。
呼称は失念したが、エアロアウステル侯爵家に仕える家令は、かつてと同じ人物だ。二百年余りの歳月を挟み、緑髪に白いものが増えても、侯爵家の懐刀としての鋭さは変わらなかった。
デプルスム城は煌びやかな宮殿ではなく、質実剛健な城塞だ。
半世紀の内乱時代は、アーテル地方から飛来する爆撃機を迎撃する防衛拠点として活躍したことだろう。
廊下の途中で中年の女官が合流し、客間の応接机にお茶の用意を整える。
「御用の際は、なんなりとお申し付け下さい」
「城から出ただけですから、疲れてなどいません。主治医のマトローナ呪医と情報共有したいのですが」
呪医セプテントリオーが家令に声を掛けると、彼は何とも言えない顔でアルボル女官長と近衛兵ジャドに視線を向けた。
……何故、答えないのだ?
呪医セプテントリオーは苛立ちを抑えて更に言う。
「なるべく早く、ウェルム王女殿下とお子の状態を【見診】で直接確認して、担当の看護師などとも顔を合わせて打合せしたいのです」
急拵えの周産期医療チームだ。ケアカンファレンスなしのぶっつけ本番で、万一のことがあってはならない。
つい先程、胎児の父であるドラコにも頼まれたばかりだ。
至極当然の申し出だが、老いた家令は申し訳なさそうに答えた。
「生憎、マトローナ教授の日程が合わず、本日はご都合がつきません。明日でしたら、問題なく会議を設けられるとのことでございます」
今回、ウェルム王女の主治医を務める呪医マトローナは、グロム医科大学で教鞭を執る【家守る鸛】学派の教授だ。
王族相手の用事に優先する用件が何か不明だが、呪医セプテントリオーは大人しく引き下がった。
「そうですか……? では、ヂェーニ、先にカルテを」
「恐れ入ります。ウェルム王女殿下のカルテはマトローナ教授がお持ちです」
傍らに控えた医療秘書官ヂェーニが、いつもの大判タブレット端末を抱え、申し訳なさそうに身を縮めた。
「その端末から閲覧できないのですか?」
呪医セプテントリオーは、療養した一年余りで何か体制が変わったのかと不安に駆られた。
医療秘書官ヂェーニが即答して懸念を払拭する。
「ウェルム王女殿下のご懐妊は非常に機微な事柄ですので、情報漏洩を防ぐ為、王室や保健省のイントラネットに登録しておりません。主治医であるマトローナ教授に専用端末を渡し、スタンドアロンで運用する体制でございます」
……術で禁じられていたから、何も言えなかったのか。
道理で、デプルスム市の地勢や歴史など、出産と無関係な話ではぐらかされたワケだと納得する。
「紙のカルテはないのですか?」
「戦後、紙の価格も非常に高騰しておりまして、奥様のご意向で節約に努めております」
答えたのは、エアロアウステル侯爵家の家令だ。
呪医セプテントリオーは驚いた。
「えッ? 端末が故障してデータが消えたらどうするのです? 備えは?」
「マトローナ教授が印刷して厳重に保管しておられますが、何分、【渡る白鳥】学派の【禁帯出】が掛かっております。こちらではご用意致し兼ねますこと、平にご容赦賜りたく存じます」
「えぇーっと……では、マトローナ呪医から何か伝言などはありませんか?」
呪医セプテントリオーは溜息混じりに聞いた。
「本日は必須症例の病院実習があり、どうしても抜けられないこと、誠に申し訳ございません。口頭による伝達で齟齬があってはなりませんので、明日、改めてご説明申し上げます……とのことでございます」
家令は、身を二つ折りにして最敬礼した。




