3719.上機嫌の王子
「この研究が上手くゆけば、低品質な紫連樹の葉でも、無駄なく利用できる可能性が拓けますので」
「あ……あぁ……そうですよね」
製薬会社の薬師キルシウスが、トポリ基地の陸軍病院研究所に所属する研究員の答えを聞いて、露骨に落胆する。
……もし、あの頃、そんな凄い技術が実用化してたら、患者さんが頑張って払ってくれた素材、あんなにたくさん無駄にしなくて済んだのにね。
薬師アウェッラーナは、戦後の混乱期にトポリ市立東市民病院で採用された。どこもかしこも極端な人手不足で、数少ない職員は多忙を極めた。
会計係の周囲には、野菜を運搬する大型のプラケースが山積みになり、患者が物納した薬草類は水抜きする時間すらなく、萎びていったのだ。
アウェッラーナの提案で、薬草類を下処理する力なき民のパート職員を雇い、水抜きには【霊性の鳩】学派しか使えない医療の素人も雇った。
現在はどこの病院でも、難民キャンプ帰りで薬草の扱いに慣れた力なき民や、医療の素人だが【操水】なら使える魔法使いを雇うことが当たり前になり、支払いに使われた薬草類の品質を維持する。
紫連樹の葉だけは、そうもゆかなかった。
プロでもそれなりの設備と装備がなければ、重大な事故を起こしかねない危険な有毒素材だ。
採取も命懸けで、強い魔獣が棲息する湖西地方は気軽に行ける場所ではなく、アルトン・ガザ大陸南部の採取地は内戦で政情不安が続く。
国家再統合が実現すれば、アーテル共和国はラキュス・ラクリマリス王国の一地方に戻る。それに伴い、三十万人以上と目される鎮痛剤系違法薬物による薬物依存症患者が、自国民として保険診療の対象者になるのだ。
患者がアーテル地方から旧ネモラリス領や旧ラクリマリス領に流入すれば、治安は一気に乱れるだろう。
紫連樹の葉は、品質がどんなものでも余さず使わなければ……それらをすべて使用しても、まだ足りないないのだ。
「ちょっと早いけど、みんなで一緒にお昼ごはんにしよっか」
軍医のレーグルス・ラキュス・ネーニア王子が、平民にも気安く声を掛ける。
薬師アウェッラーナは、質素な壁掛け時計に目を遣った。十一時四十八分だ。
「手が離せない実験してる人、居る?」
軍医レーグルスが片手を小さく挙げて聞く。
陸軍病院研究所の職員五名は、無言で同僚をチラ見した。
「じゃ、行こっか」
軍医レーグルスが白衣をひらりと翻し、さっさと実験室を出てゆく。緑髪の近衛兵五名が王子に続いた。
様々な髪色の研究員たちはこっそり溜息を洩らしたが、実験器具を止め、パソコンのデータを保存する。
市民病院の薬師アウェッラーナと製薬会社の薬師キルシウスも、彼らと苦笑を交わして食堂へ向かった。
軍医レーグルスが当たり前のようにトポリ基地の管理棟へ移動し、下級研究員や平民の薬師二人をラキュス・ラクリマリス王国軍の幹部向け食堂に通す。
「早めに来たから、色々選べるね」
「格別のご高配を賜り恐れ入ります」
緑髪の男性薬師キルシウスが、レーグルス王子の無邪気な笑顔に恭しく応じる。
薬師アウェッラーナは、緑髪の近衛兵たちを横目で窺ってお辞儀した。実験室から連れ出された研究員五名も、微妙な顔で二人に倣う。
アウェッラーナはこれまでの経験から、幹部向けでも一般職員向けでも、食事内容が大差ないのを知っている。
問題は、ここで軍事機密など、部外秘の話が耳に入ってしまわないかだ。軍の幹部は忙しく、食事を摂りながら会議することも多かった。
そっと視線を巡らせたが、まだ利用者が少なく、今日はラゾールニク少佐の姿がない。アウェッラーナは、彼がどの基地に所属するか知らないことに気付いた。
軍医レーグルスが、白身魚の香草蒸し定食を前に上機嫌で言う。
「おめでたい話があるんだ」
「どんな……お話でしょう」
黒髪の研究員が恐る恐る聞いた。年配で、白衣には各種防護の呪文と呪印が水色の糸で刺繍してある。あの実験室の責任者なのだろう。
近衛兵五名の内二名は、隣の卓にそれぞれ別メニューの定食を運んだ。三名は引き続き、レーグルス王子の周囲を固める。
アウェッラーナとキルシウスは、レーグルス王子の両隣に座らされた。
「ウェルム王女がおめでたなんだ」
「えッ?」
幹部向け食堂の全視線がレーグルス王子に集まった。
「予定日は五月なんだけどね、四月初旬に帝王切開するんだってさ」
レーグルス王子は、あっけらかんと患者の個人情報を漏らした。
護衛の近衛兵たちが顔を引き攣らせる。
……ウェルム王女殿下? ソーフカさんならどんなお方か詳しく知ってそうね。
薬師アウェッラーナは、シェラタン女王、呪医セプテントリオーと軍医レーグルス以外に湖の民を統べるラキュス・ネーニア王家の王族を知らない。
よく知るのは、戦時中、共に避難生活を送った呪医セプテントリオーだけだ。
軍医レーグルスとは、徴用された時に業務で必要な会話くらいしか交わしたことがない。
シェラタン女王に至っては、脳解毒薬調合の褒賞を云々する謁見以外で対面したことがなかった。
「ウェルム殿下は、ネモラリス島のデプルスム市で神官長をしてるんだ」
「左様でございますか」
王子の正面に座る黒髪の研究員が、何かを諦めた顔で相槌を打つ。
レーグルス王子の向かいに並ぶ研究員たちは、定食を黙々と口に運んだ。
「赤ちゃんが大き過ぎる上に逆子でね」
「そッ! ……それは……大変でございますね」
薬師アウェッラーナは、悲鳴に近い声を上げてしまい、慌てて言い直した。
勤務するトポリ市立東市民病院の産科は、戦時中からずっと休止が続く。
科学の産婦人科医も【家守る鸛】学派の呪医も、無差別爆撃で生じた欠員を補充できないからだ。
アウェッラーナは専門外だが、他にどうしようもなく救急搬送された妊婦を診ざるを得なかったことが何度もある。応急処置を施し、一時的に母子を命に別状ない状態にして、無事、産科のある北市民病院に転院させられたが、肝が冷える症例ばかりだった。
妊婦が糖尿病で血糖コントロールが不良の場合、胎児が通常より大きくなりやすい。出産時に難産や母体の損傷、胎児の骨折などの事故に繋がるだけでなく、胎児の臓器に異常がみられる症例が多かった。
レーグルス王子が、アウェッラーナの変わったのを見て明るい声で付け加える。
「ウェルム殿下は糖尿病じゃないから、赤ちゃんが大きいのは、夫のドラコさんと彼の家系がみんな体格いいからだと思うよ」
「左様でございますか」
それなら、単に体格がいいだけで、胎児自身には問題なさそうだ。アウェッラーナは少し安心したが、母体の危険は残る。
軍医レーグルスが、笑顔で王家の医療体制を暴露して、懸念を払拭する。
「ウェルム殿下は私が産まれるずっと前に出産経験があるし、まだギリギリ二百九十歳代だし、大ベテランのマトローナ教授がついて、セプテントリオー先輩も補助に入ってくれるから、大丈夫だよ」
「えッ? セプテントリオー呪医はご静養中ですよね?」
アウェッラーナは思わず普通の口調で聞いてしまった。近衛兵の誰かに咳払いされ、身を縮める。
幹部向け食堂に人が増えてきた。
軍医レーグルスは、張り詰めた空気もお構いなしで話を続ける。
「先輩は、お城の厨房で火傷して死にそうになった料理人を【癒しの水】で治療してたし、一回くらいお産の補助に入ったって大丈夫だよ」
……何それ? 知らないんだけど?
レーグルス王子からとんでもない話が次々飛び出し、アウェッラーナは驚きを通り越して表情が消えた。
☆どこもかしこも極端な人手不足……「2564.思わぬ場所で」「2565.人手不足の弊」→「2645.薬師の困り事」参照
☆力なき民のパート職員……「2650.足りない眠り」「2917.薬草産地再建」「2919.王族への感情」参照
☆ラゾールニク少佐……「3093.水の縁で再会」参照
☆脳解毒薬調合の褒賞を云々する謁見……「3169.承認の報告会」参照
☆お城の厨房で火傷して死にそうになった料理人を【癒しの水】で治療……「3664.厨房での騒動」「3665.紛れ込んだ者」参照




