3705.星道記の実践
翌朝、印暦二二〇二年一月六日。
ローク・ディアファネス大司教は、ラキュス・ラクリマリス王国領ネモラリス島のクレーヴェル教会で、説教壇に立った。
「日月星蒼穹巡り、虚ろなる闇の澱みも遍く照らす。日月星、生けるもの皆、天仰ぎ、現世の理、汝を守る。敬虔なる信徒の皆様、おはようございます」
会衆席を埋め、壁際にもぎっしり詰め掛けた信徒たちが、ロークに続いてキルクルス教の祈りの詞を唱和する。
「この祈りの詞は【霊性の鳩】学派の【魔除け】の呪文を共通語や湖南語など、自然言語に翻訳したものですが、星道記には、力ある言葉本来の文字で記述されています」
ローク大司教は説教壇の陰で【魔力の水晶】を握り、同じ呪文を力ある言葉で唱えた。
会衆席のあちこちから感嘆の声が上がる。
霊視力のある者には、若い大司教を中心に真珠色の淡い光が広がる様子が視えたのだ。
「皆さんには以前、力ある言葉が魔力の制御符号……プログラム言語のようなものであるとお話しました。この【魔除け】の術は、魔物未満の穢れである雑妖、実体を持たない魔物、まだ小さく弱い魔獣を近付けない効果があります」
大半の信徒が瞳を輝かせて頷く。
「星道記では、この善き業【魔除け】を教会建築や聖職者の衣、夏祭りの踊りなどに取り入れています」
ロークは、大司教の衣の袖を指でなぞりながら言い、礼拝堂の壁に刻まれた力ある言葉と呪印を指差した。信徒たちが聖職者の衣から礼拝堂の壁に視線を移す。
「この善き業【魔除け】は、設計技師の【巣懸ける懸巣】学派の技術で建築物に施され、魔道具職人の【編む葦切】学派の技術で呪符や衣服などに施され、舞踏家の【踊る雀】学派の力で魔踊に落とし込まれ、それらも併せて星道記に善き業として記されています」
ロークは一呼吸置いて、礼拝堂を埋める敬虔な信徒を見回した。
ラキュス・ラクリマリス王国在住で、半世紀の内乱後は隠れキルクルス教徒として過ごした信徒は、義務教育の魔術概論の授業で習った者も多いだろう。だが、彼らには数年前まで、魔法とキルクルス教の聖典との関係を知る手段がなかった。
ローク大司教は画面越しに参列する在外アーテル人に向け、カメラを見詰めて説明を続ける。
「聖典に記された善き業は、条件が揃えば、私たち、魔力を持たない無原罪の清き民でも、手伝うことが可能です。聖者キルクルス様は、魔法使いと助け合えるようにこれらの善き業を書き残して下さったのです」
礼拝堂の信徒たちが、頬を上気させてローク大司教の次の言葉を待つ。
「例えば、呪符なら、それを専用の道具と材料を使って、聖典の記述に従って書き付けるところまでは、私たち無原罪の清き民にも実践できます。書き上がった呪符に【編む葦切】学派の魔道具職人が仕上げの術を掛ければ、魔力を持つ人なら誰でも……魔道具作りの素人であっても、呪符に魔力を籠めて完成させることができるのです」
「大司教様、呪符に書くのはどんなことでしょう?」
クレーヴェル教会の会衆席から、若者の声が飛んだ。
ローク大司教は、聖職者然とした微笑を浮かべて、若い信徒に答えた。
「いい質問ですね。呪符には、先程の祈りの詞を力ある言葉で、決まった手順で決まった場所に書き込みます。また、魔力の蓄積や流れ、解放などの効果を持つ呪印も描きます」
「ジュイン……?」
「この礼拝堂にも刻まれている……あの模様がそうです」
ローク大司教が礼拝堂の白い壁を指差すと、信徒たちが一斉にそちらを向いた。
カメラは固定なので、画面越しに参列する者には伝えられないのがもどかしい。
若い女性が挙手して質問した。
「アーテル共和国の信徒は長年、土魚の大群に苦しめられています。呪符を大量印刷できれば、大勢の信徒が助かると思うのですが、何故、ランテルナ島の業者は印刷して本土で販売しないのでしょうか?」
「呪符は印刷できません。術それぞれに固有の特殊インクが必要で、力ある言葉の文字は、書き順にも決まりがあるからです」
ローク大司教が会衆席に視線を巡らせて答える。
質問者の隣の男性も挙手した。
「もし、書き順を間違えたらどうなるのでしょう?」
「魔力の流れが滞ったり、そこから漏れてしまったりして、呪符に記した術が正常に発動しません」
「しかし、外見からは、書き順が正しいかどうか……製造工程のミスはわかりませんよね?」
質問した男性がすかさず指摘する。
一介の信徒が高位の聖職者にするには無礼な質問だが、会衆席を埋める信徒だけでなく、説教壇の傍らに控える司祭や聖歌隊も質問者を咎めない。
ローク大司教はこれまで、どんな質問にもイヤな顔をせず、誠実に答えてきた。また、大司教への無礼な質問を咎めた教会関係者を抑えてきた。
信徒が説教の話の腰を折って堂々と発言するのは、「質問すること」への心理的な安全性が担保できたからだ。
……モーフ君のお陰だな。
質問に答えることで対話が生まれ、相互理解が進む。あの旅で得た貴重な財産のひとつだ。
ローク大司教は落ち着いた声で答えた。
「作用力のある人々は、呪符を手にするだけで、そこに籠められた魔力の流れを感知できます。呪符屋さんの正規販売品は、すべて検品済みです」
「ネット通販の呪符には、不良品が混じってるかもしれないんですか?」
会衆席の後方から質問が飛んだ。
「通販業者に悪意がある……あるいは、検品できる魔法使いが居ない会社であれば、そう言うコトもあるかもしれません」
予想通りの答えで、会衆席に溜息が広がる。
ローク大司教は不当な苦情や通報を避ける為、他の可能性も提示した。
「不慣れな人が、呪符の効果を発動させる祈りの詞を力ある言葉で唱えた場合、不良品だったのか、発音の間違いで発動しなかったのか、検証できません。心配な方は購入を控えた方がよろしいでしょうね」
礼拝堂に詰め掛けた信徒が、ハッとして説教壇を見上げる。
ローク大司教は、声の調子をやや明るくして告げる。
「話を戻しましょう。羊皮紙に呪符作成用の銀の付けペンで書くことは、どの呪符でも共通ですが、インクは呪符に書込む術それぞれで、異なる特殊な材料が必要です」
「そのインクの材料は、我々でも手に入れられるなのでしょうか?」
会衆席中央付近から上がったよく通る声が、信徒たちの疑問を代弁した。
ロークは、呪符屋でのアルバイト経験に基づく知識で答える。
「例えば、善き業として代表的な【魔除け】の呪符は、魔獣の消し炭を鶏の血液で溶いた黒インクが最も安く手に入りますが、効力はあまり強くありません」
「鶏の血……?」
「ヤダ……ッ!」
「そんなのプリンタに入れらんない」
信徒たちが顔を引き攣らせた。
「魔獣の消し炭を水知樹の樹液で溶いた黒インクを使う方が、【魔除け】の効果が強くなります」
年配の男性が瞳を輝かせて質問する。
「同じ【魔除け】の護符でも、インクの種類によって効果に差が出るのは何故ですか?」
「ミジュチジュ……と言うのはどんな樹木ですか?」
彼とほぼ同時に中学生くらいの少年が聞いた。
ローク大司教は、年配の質問者に顔を向けて答える。
「インクの素材によって、定着できる魔力の量が異なるからです。水知樹の樹液は強力な溶媒で、肌に触れると爛れますので、素人が扱うのは危険です。素材屋さんやインク屋さんも、無資格者には販売しません」
「それなら、鶏の生き血の方がいいですね」
質問した年配の男性が諦め半分、安堵半分で頷いた。
今度は、微妙な顔になった少年に顔を向けて答えを与える。
「水知樹は異界の樹木です。この世に迷い込んだものが古い時代に定着し、世界各地で繁殖しています」
「ウチの国にも生えてるんですか?」
少年が怯えを含む声で質問を重ねる。
「山間部には自生していますし、専門の業者が栽培する地域もありますね」
くたびれた服の中年女性が小さく手を挙げた。
「あの……司祭様、わ、私たち……信徒が、呪符屋さんの内職をしても大丈夫でしょうか?」
「勿論です。【魔除け】の呪符など、善き業の呪符を作ることは、星道記の実践です。問題ありません」
「星道の職人じゃないのに……素人でも、いいんですか?」
質問した女性が、若い大司教の答えに驚く。
ローク大司教は貧しい信徒に向けて畳み掛けた。
「星道の職人は、無原罪の清き民にできる工程をすべて一人でこなせる専門家です。アミトスチグマ王国の場合、力なき民の従業員は、魔法使いの指示で工程毎に分業しています」
ヨレた服を纏う信徒たちの顔が明るくなった。
☆アミトスチグマ王国の場合……「2709.思わぬ副産物」「2710.経済難民の職」参照




