3692.初めての半休
印暦二二〇二年一月一日の勤務は、午前中で終わった。
午後からは、部下の薬師ソビョーノクに引継いで帰宅する。
ほんの数年前まで、元日に半休を取得できるなど、夢にも思わなかった。
「あら、アウェッラーナ薬師、お帰りですか?」
トイレ帰りの入院患者が、廊下で私服姿のアウェッラーナと行き会って驚く。
主任薬師のアウェッラーナは、愛想笑いで応じた。
「えぇ。部下が優秀なので、安心して任せられます」
「そうよねぇ。新しい人、二人ともお若いのに優秀ですもんねぇ」
この老婦人は、持病が悪化する度に入院する常連だ。
戦時中は治療薬が入手できず、アウェッラーナがトポリ市立東市民病院に採用された直後は、かなり容態が悪かった。長期入院を経て無事に退院できたが、その後も、数カ月に一回程度、数日から数週間は入院する。
「勿論、アウェッラーナ薬師にも感謝してますよ。薬師のお陰であの時死なずに済みましたし、寛解が長くなって、悪化しても戦前より入院が短くなりましたし、今年もよろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ……今年はお孫さんが産まれますし、お大事になさって下さいね」
「えぇ。孫が大きくなって、曾孫の顔を見るまで頑張りますよ」
老婦人は車輪付きの点滴棒を連れ、上機嫌で病室に戻った。
半休とは言え、元日に帰宅できるのは、アウェッラーナがトポリ市立東市民病院に採用されて以来、初めてのことだ。例年は、年末年始もずっと入院患者や救急外来の対応で、ほぼ帰宅できなかった。
部下のソビョーノクは、薬科大生の頃に研修生として受容れた奨学生だ。正式採用後、病院の実務を通じてどんどん腕を上げ、任せられることが増えた。
もう一人の部下、ソーフカも中堅の薬師として日々成長する。
薬師三人体制に加え、脳解毒薬の褒賞として人事を願った結果、昨春には【青き片翼】学派の呪医リーリヤが配属。アウェッラーナの負担は、終戦直後とは比べ物にならないくらい減った。
帰宅後、兄のアビエースと共に昼食を共にする。
新年料理の魚を食卓の真ん中に据え、二人で取り分けた。
大きな魚にスパイスをまぶしてこんがり焼いたもので、パンとスープはどちらも緑青をたっぷり入れた湖の民用だ。
兄が目尻に笑い皺を寄せて言う。
「去年最後の網が豊漁でな」
「何か特別なコトしたの?」
「去年の春、沖に漁礁を増やしたんだ」
「その効果が出たのね」
アウェッラーナも漁師の娘だ。その一言で合点がいった。
「漁協のみんなも喜んでたよ。今年、もうひとつ増やすか相談中だ」
「餌が足りるといいんだけど」
「何年か前、レサルーブの森の沼沢地に濡首獣と多刺蟹の養殖場ができたろ」
「あぁ、半世紀の内乱中に埋め立てられたとこを復旧したとか何とか、患者さんが言ってたわね」
「それだけじゃなくて、新規の養殖場も幾つかできてな。雨が降ると養殖場の養分が湖に流れ出て、プランクトンが増えて、水草もよく育ってるんだ」
「へぇー……陸の養殖が湖にもいい影響を与えてるのね」
アウェッラーナは戦時中、アガロート養殖沼を見学した記憶が甦った。
兄アビエースもそうで、地元民と釣に行った思い出話に花を咲かせる。
……後何回、兄さんとお正月を迎えられるんだろう?
兄のアビエースは常命人種で、毎年老いてゆく。既に老齢に差し掛かり、高血圧の薬を常用する身だ。何かの弾みで脳梗塞や心筋梗塞を発症し、急死する危険を抱える。
アウェッラーナは長命人種で、外見は童顔と相俟って、中学生か高校生くらいにしか見えない。特に持病などもなく、何事もなければ、今後も七百年余りは生きられる。
アウェッラーナは、そう遠くない別れの日を意識から追いやって、目の前の焼菓子に集中した。
食後のデザートは、秦皮の甘い樹液を混ぜた焼菓子だ。
何種類もある祝い菓子のひとつで、主神フラクシヌスの信者が新年に食べるものだが、兄がトポリ漁協の仲間からお裾分けされた。
パンとクッキーの中間くらいで、食感が軽く、少し濃い目に入れた紅茶とよく合う。
湖の女神パニセア・ユニ・フローラの信者向けの新年菓子は、白い雛菊の葉の粉末を生地に練り込んだクッキーだ。表面に花弁を添えて焼き上げる。
こちらは日持ちするので、明日用に取っておく。
「それにしても、また、こうしてラーナと一緒に新年を過ごせるとは思わなかったよ。病院は去年まで忙しそうだったもんなぁ」
「忙しいったって、私はセプテントリオー呪医程じゃないけどね」
アウェッラーナは苦笑した。
市民病院では薬師の業務だけで済むが、呪医セプテントリオーは病院業務だけでなく、王族としての公務や保健省の業務も担う。多忙を極め、戦後七年余り三百六十五連勤が続いた結果、過労で倒れたのだ。
「あの呪医、まだお元気にならないのかな?」
「後輩のソーフカさんが、ニュースをずっと追いかけてるんだけど、全然そんな話ないみたいね」
「ソーフカ……あぁ、あの……王室ファンの」
兄が、薬師ソーフカが何者か思い出した顔になる。
「そう。郷土資料館の入館者十万人目の記事を教えてくれた人」
「あれはびっくりしたなぁ。まさかアマナちゃんが十万人目になるとは」
兄が目尻の皺を深くする。
「そうよねぇ。水の縁って凄いわよね」
「あの呪医の実家に十万人もお客が行ったのもびっくりだ」
「記事でしか見てないけど、すっごいお屋敷よね」
アウェッラーナはそのニュースからしばらく経った頃、新聞記事を切抜いたものを兄に見せてもらったのを思い出した。
兄がしみじみ言う。
「なんせ世が世なら公爵様だもんなぁ。今も王族だけど」
「一緒に旅してた頃は、全然そんな感じしなかったけど」
「そうだなぁ……呪医、今日はどうしてるんだろうな?」
「調べてみよっか」
アウェッラーナも一応、私物の端末を持っている。
検索してみたが、呪医セプテントリオー関連の記事はみつからなかった。
ポータルサイトには、新年のニュースがどんどん流れて来る。二人は、アーテル共和国のミェーフ大統領が年頭の挨拶をする動画ニュースをみつけた。
☆ソビョーノク……「2918.千年茸奨学生」参照
☆呪医リーリヤ……「3393.短信での報道」参照
☆アガロート養殖沼……「1801.養殖沼の見学」~「1805.食用蛙と大鯰」参照
☆地元民と釣……「1815.流入する棄民」参照




