3679.新年のお菓子
印暦二二〇一年も残すところ後僅かだ。
パンの椿屋では、新年用のお菓子の仕込みが佳境に入った。
今冬は今のところ、ネーニア島北東部に位置するトポリ市周辺の農場で鳥インフルエンザが発生せず、鶏卵が潤沢にある。
椿屋を経営するオレオール家の四人は、一家総出でアパートの狭い台所を目いっぱい使い、縁起物を象ったアイシングクッキーと、アイシングで飾り付けたカップケーキを作る。
カップケーキは時間が掛かるので予約販売。クッキーは、ケーキを引渡す大晦日に一般販売する予定だ。
……後三日。
カップケーキの生地を泡立てる手には、何度も血肉刺ができたが、潰れる前にレノ、ピナ、ティスの三兄姉妹が、交代で呪歌【癒しの風】を謳って作業の手を止めない。母のファリナはひたすら生地を捏ね続ける。
旧直轄領で島守マガン・サドウィスの妻エス・スハーに無茶振りされた経験から学んで、この体制を構築した。
オーブンで生地を焼く間に夕飯を食べる。
「こんばんはー」
ノックに続いて聞こえたのは、隣人ラピナの声だ。
レノは口の中のものを急いで飲み込んで、アパートの戸を開けた。
中学生になったセリノンが、声変わり途中の掠れ声で言って、母ラピナの隣で小さな革袋を差し出す。
「これ、頼まれてた分です」
「いつも有難うございます」
ラピナとセリノン母子も、いつもより多く【魔力の水晶】を充填してもらう特別体制だ。
赤毛のラピナが、食卓を見て申し訳なさそうに会釈する。
「ご飯時にお邪魔しちゃってすみませんね」
「いえいえ、今はご飯時の方が暇なんで大丈夫ですよ」
レノたちの母ファリナが屈託のない笑顔を返した。
「じゃ、これ、今日の分です」
ピナが食卓から立って、報酬として小さな紙袋を渡す。
中身は完成品のアイシングクッキーだ。主神フラクシヌスを表す秦皮の葉、湖の女神パニセア・ユニ・フローラを表す青雛菊の花、岩山の神スツラーシを表す山塊型、三種類のクッキーを二枚ずつ入れた。
「いつも有難うございます」
隣人の母子は声を揃えて受取った。
二人が帰ってすぐ、ティスはレノに話を振った。
「お兄ちゃん、今日、何か変わったコトとかあった?」
「変わったコト……? あぁ、北市民病院に見学の人が来たな」
「見学? 病院を? 何で?」
ティスが早速、話題に食いついた。
ピナと母ファリナも、丸パンを千切る手を止めてレノに注目する。
「三人来たんだけど、その人たちみんなアーテル本土産まれの力ある民なんだ」
「えッ?」
母と妹が目を丸くする。
レノが勤務するのは、トポリ市立北市民病院だ。
「星の標にみつかったら殺されるから、国が再統合するまではアーテル政府の国費留学でこっちに避難して来て、留学先は【編む葦切】学派の職人を養成する専門学校らしいよ」
「見学に来ただけの人が、病院の人にそんなことまで教えてくれたの?」
ピナが半信半疑の声を出す。
「自己紹介では特に何も。単に葦切の専門学校生ですってだけ」
「いいの? そんな話、私たちに聞かせて」
ティスが顔を曇らせる。
レノは、運び屋から聞いた話を思い返しながら答えた。
「フィアールカさんが留学を斡旋してるって言ってたろ、あれだよ」
「あ、あぁ、あれ!」
ピナが思い出した顔で大きく頷く。
ティスがスープを掬った匙を止めて聞いた。
「どうして本人が何も言わないのにアーテル人ってわかったの?」
「案内して来たの、フィアールカさんだったから」
「あぁ、それで」
ティスも納得した顔になる。
母ファリナはピンとこない顔で首を傾げた。
「それだけでわかったのかい?」
「うん。だって、ずっとこの国に住んでたら、病院なんて珍しくないだろ?」
「まぁ……ねぇ」
騙されて鎮痛剤系違法薬物を飲んでしまい、何カ月も入院する羽目になった母が微妙な顔になる。
レノは母の気を逸らす為に早口で語った。
「でも、見学の人たちは、いちいち細かいことに驚いたり、感心したりしてたんだ。名目は【編む葦切】学派の職人さんの作った物が、病院で実際にどう使われてるか、魔道具の使い勝手とかを確める為ってことだったけど、眼の着け所が魔法のコト何も知らない人みたいだったからピンと来たんだ」
「あぁ……そう言うコト」
母もわかった顔で頷いた。
「フィアールカさん、俺が【癒しの風】を謳う時に使う【防音】の部屋に入った時、医療費の支払いのこととかも説明してたから、見学者は絶対この辺の人じゃないよ」
「あぁ……そうよね。そんなのみんな知ってるもんね」
ピナが納得を深めた。
ティスが興味津々で聞く。
「ねぇ、その人たち、医療費が物納って聞いて何て言ってた?」
「租借地の病院と一緒なんですねって言ってた」
「それッ……!」
「他の職員の人に聞かれたらマズいんじゃ……?」
ピナが息を呑み、ティスの顔色が変わった。
「うん。それはフィアールカさんに釘刺されてたよ。アーテル人だってバレるから他の職員の前では絶対言うなって」
「留学生の人たち、何か言ってた?」
母が恐る恐る聞く。
レノは自分の顔を指差した。
「この人はいいんですか? って聞いてたよ。フィアールカさんが、この人は戦時中にアーテルで支援活動してた人だからいいって言ったら、驚いてた」
「アーテルで支援活動? 魔獣がいっぱい居て危ないんじゃないの?」
母が怯えた目で聞く。
「あの時は知合いにお使いと情報収集を頼まれて、買物の対価としてアーテル人の支援をしたんだ。クルィーロともう一人魔法使いの人と駆除屋さんも一緒だから大丈夫だったよ」
レノは取り繕った。
実際は、現地で偶然出会ったランテルナ島の魔獣駆除業者を雇ったのだ。
母が微妙な顔で聞く。
「アーテル人の支援って何してあげたの?」
「情報や車の部品とかと引換えに水や食べ物を渡しただけだけど、向こうは飢え死にしそうだったから凄く感謝されたよ」
「だけって、そんな……命の恩人じゃないの」
レノが答えると、当時は移動放送局プラエテルミッサのトラックで留守番させられたピナが力強く言った。
母が怯えと疑問の混じった声で聞く。
「飢え死にってそんな酷かったのかい?」
「うん。北部の街は水害で流された泥で埋まってて、そこに土魚がうじゃうじゃいて、力なき民が歩ける状態じゃないから買物や通院も無理で、泥道でちょっとでも怪我したら破傷風とかになるし、でも、病院は使い物にならないし、水害のせいで水道やガスが全然使えなくなってて、お店の人は二階に避難してたけど、みんな凄く痩せてたよ」
語る内に当時の様子がまざまざと甦り、レノの声が沈んでゆく。
「そんな大変だったのかい。見学の人にはここが天国に見えるだろうねぇ」
母は、しみじみ言って何度も頷いた。
焼き上がったカップケーキは【保存】の木箱に片付け、クッキーは単なる木箱に並べて冷やす。
アイシングは明日、ティスと母が施す予定だ。
レノとピナは年末年始も病院のアルバイトがある。工場の食堂と専門学校は冬休みだ。
大晦日はレノが休みなので、いつものようにワゴン車で新年用の焼菓子類を売りに行く。
カップケーキは予約の引渡しだけだが、クッキーは当日販売もあるので、母だけでなく、ティスにも売り子をしてもらう。
印暦二二〇一年も色々なことがあったが、どうにか無事に終えられそうだ。
レノは様々な感慨を胸に焼き上がった菓子を木箱に詰めた。
☆トポリ市周辺の農場で鳥インフルエンザが発生……去年はなかった「3194.委託品を補充」参照
☆エス・スハーに無茶振りされた経験……「1649.菓子生地生産」「1650.民主制の堅持」→「1658.忘れられた者」参照
☆隣人のラピナとセリノン母子……「3085.休業計画の案」「3153.退院できた母」「3154.イタチごっこ」参照
☆フィアールカさんが留学を斡旋……「3195.業務内容変更」「3196.解禁前の情報」参照
☆魔獣駆除業者を雇った……「2308.死にゆく住民」「2309.駆除屋を雇う」参照




