3664.厨房での騒動
ウヌク・エルハイア将軍が、四阿の柱の脇で整列する近衛兵に命じる。
「ルガビーク、この子を【操水】で部屋まで運んでやれ」
「了解」
セプテントリオー付きの近衛兵ルガビークは敬礼して応じ、茶色の小瓶を手にして呪文を唱えた。【無尽の瓶】から容量以上の水が流れ出て宙に留まる。
……私ももういい歳のおっさんなのだから、子供扱いはやめて欲しいのだがな。
セプテントリオーは抗議しても無駄と諦め、言葉と不満を飲み込んだ。
ウヌク・エルハイア将軍は、セプテントリオーをだっこしたまま四阿の椅子から軽々と腰を上げた。
「いや、あの……自分で歩けますから」
「何もないところで躓くのは、疲れて足が上がらなくなったからだ」
将軍が、長方形に整えられて宙に浮かぶ水塊に「親戚の子」をそっと横たえる。
「よいな。今は療養中なのだから、くれぐれも無理をするでないぞ」
「……善処します」
セプテントリオーが渋々言うと、近衛兵ルガビークが呪文を唱え、水の担架が動き出した。ジャド、ラシーハ、テーメニも担架の他の辺につき、近衛兵四人に囲まれて進む。
ウヌク・エルハイア将軍と彼の秘書官は、中庭を突っ切ってクレーヴェル城の行政棟へ向かった。
水の担架が居館の廊下に入る。
女官が血相が変えて廊下を走って来た。
セプテントリオーが水の上で半身を起こして聞く。
「どうされました?」
「あっ、セプテントリオー様! ッ……いえ、大丈夫でございます」
緑髪の女官は一瞬、顔を明るくしたが、近衛兵を見て、言い掛けた言葉を飲み込んだ。
「大丈夫なのに何故……そんなに急いでどこへ行くのです?」
「厨房でちょっと……えぇっと、油をこぼしてしまっただけでございます」
王族に呼び止められた女官は口ごもったが、背筋を伸ばすと何でもなさそうな表情を繕って答えた。
「油を? それで転んで頭を打つなど、負傷者が出たのですか?」
「急ぎの用がございますので、これにて失礼致します」
女官が近衛兵の顔色を窺い、優雅な所作でお辞儀して離れようとする。
セプテントリオーは、魔力を籠めて命令した。
「今、厨房に負傷者が居るのですか? 答えなさい」
「居ります。……力なき民の料理人が揚げ油を浴びて火傷しましたので、医務室へ呪医を呼びに行くところでございます」
王族の強大な魔力で回答を強制された女官が、諦めた顔で事情を説明した。
「私が行った方が早」
「お待ち下さい! つい先程も将軍に」
近衛兵ジャドたちが止めようとする。
セプテントリオーは早口に【操水】の呪文を唱え、水の支配を奪った。腰の高さに浮いた水の上にしゃがんで廊下を飛んでゆく。
自分で走るより遙かに速く、耳元で風が唸る。廊下に居合わせた官吏や女官、警備兵の驚いた顔があっという間に後方へ流れた。
廊下に騒ぎの声が届く。
「冷やせ冷やせッ!」
「油の回収終わりました!」
「手の空いてる奴は【操水】手伝え!」
「呪医はまだかッ?」
「今、呼びに行ったばっかだろ」
水塊の速度を緩め、乗ったまま厨房に入る。
料理人たちが一斉にこちらを見た。
「なんだ?」
「誰だ?」
「せ、セプテントリオー殿下!」
一人が気付いて驚きの声を上げる。
厨房の担当者たちは一斉に跪いた。
部屋着姿のセプテントリオーは、水塊から降りて言った。
「先程、廊下で女官に事情を聞きました」
「し、しかし、殿下はご療養中では」
「医務室へ行くより早いので来ました。患者は?」
料理長を遮って聞いて厨房を見回す。
セプテントリオーは、クレーヴェル城で居候するにあたって厨房の位置も頭に入れたが、中に入るのは初めてだ。
洗い場の前で、膝を折って頭を垂れる見習い女官だったランクスをみつけた。
彼女の傍らに水塊が浮かび、その上で中年男性が横たわる。
セプテントリオーは小走りで近付いた。
揚げ油を浴びたと言う料理人は、顔と首の大半、左腕が赤く爛れ、【見診】を掛けるまでもなく重度の火傷だとわかる。
「ちろちろと 白き鱗の触れる者 ちろちろと 白き鱗の舐める者
白き翼を水に乗せ 明かせ傷 知らせよ病
命の解れ 詳らか 綻び塞ぐ その為に」
念の為に【見診】を唱え、無事だった右腕にそっと触れた。
白い調理服に隠れた肩、胸、腹だけでなく、鼻腔と口の中にまで火傷がある。鍋がひっくり返った瞬間にそちらを見て悲鳴を上げ、揚げ油が入ったのだろう。右目はどうにか無事だが、左目の眼球は酷い火傷で既に視力がない。
料理人が何か言おうとしたが、呻き声が漏れただけで、言葉にならなかった。
「すぐ癒します。もう少し辛抱して下さい」
セプテントリオーは過労で倒れる前と変わりなく、安心させる為の微笑を患者に向けた。自分を乗せて来た水塊の一部を取って煮沸消毒。急速に冷却して【癒しの水】を掛けた。
「血は血に 肉は肉に 骨は骨に あるべき姿に立ち返れ
損なわれし身の内も外も やさしき水巡る
生命の水脈を全き道に あるべき姿に立ち返れ」
魔力を帯びた水を体表の患部に走らせると、拭い去ったように火傷が消えた。
続いて、左の眼球に【癒しの水】を集中させて復元する。その水を鼻の穴から流し込み、喉を経由して口の中も癒やした。
一通り火傷の治療を済ませ、使用した水を宙に浮かせたまま、再び【見診】を掛ける。
「火傷は完治させましたが、体液の回復には、入院して点滴を受けなければなりません。それから、肺にも病変がみつかりましたので、内科で詳しい検査を」
「えッ? に、入院ッ? あ、いや、その……お休み中にも拘らず、治療して下さって有難うございます」
料理人は水塊の上で跳ね起きたが、周囲の視線に気付いて頭を下げた。
「ヂェーニ、カルテを……」
セプテントリオーはいつもの調子で傍らに顔を向けたが、電子カルテを入力する医療秘書官の姿はない。
「あっ……えぇっと……」
「セプテントリオー様!」
振り切って来た近衛兵たちが厨房に駆け込んで叫んだ。
セプテントリオーは、四人の剣幕に思わず身を縮めた。治療に使った水が床に落ちて水浸しになる。
近衛兵ジャドが苦々しい顔で言った。
「御身は療養中なのですよ」
「しかし、あの女官の様子は一刻を争うようでしたし、実際、この患者は熱傷による失明などの重傷でした」
セプテントリオーが反論すると、近衛兵四人は、水塊の上で身を起こした料理人を見詰めた。
料理人が、縮こまって詫びの言葉を繰返す。
近衛兵ラシーハが、顔見知りの元見習い女官ランクスに声を掛けた。
「何故、彼はそのような重傷を負ったのです?」
「えぇっと、その……あっちの人が急に振り向いて肘がぶつかって、そっちの人がバランスを崩して転びそうになって、揚げ物中のお鍋の把手にぶつかって、お鍋がひっくり返って、その人は無事だったんですけど、近くで座って芋の皮剥きしてたこの人が油を浴びてしまってですね、大変なことになって、それでみんなで【操水】で油を洗い流して、お菓子を取りに来た女官の人に頼んで、呪医を呼びに行ってもらってる間、水で冷やしてました」
洗い場担当として正式採用されたランクスは、調理台の傍らで低頭する二人を掌で示して滔々と説明した。
「それでよりによって、力なき民の彼に」
セプテントリオーは嘆息した。
負傷者の白い調理服には、防禦魔法の刺繍などがひとつもない。
振り向いた料理人も転びかけた料理人も、調理服には本体と同じ白色の糸で様々な防禦の術が施してある。彼らの【耐熱】の掛かった服なら、揚げ油を浴びても、単に汚れるだけで済んだのだ。
「二人とも顔を上げなさい。今後、このようなことがないように」
「文間にて綾成す妖し肖りて、怪しき力零しつつ……」
セプテントリオーの小言に被せて、近衛兵テーメニが呪文を囁く。【舞い降りる白鳥】学派の【消魔】だ。若い近衛兵が微かに声を発しながら調理台に歩み寄り、揚げ物鍋にぶつかった料理人の手首を掴む。
「……危うき業の綾解き、過たず過ち正せ、綾織り成せ」
結びの言葉と同時に料理人の顔が別人に変わった。




