3651.湖東地方の街
クルィーロは今日も、父パドールリクと二人でカルタルス商会トポリ営業所に出勤した。
「所長、おはようございます」
「オルラーンさんたち、おはようございます」
アピウム営業所長が、いつもの笑顔で迎える。
クルィーロはそのまま話を続けた。
「所長、今日からしばらく、お昼はジゴンのお店に行きたいんですけど、いいですか?」
「なんでまた急に?」
クルィーロの父より若いアピウム営業所長が驚く。
父パドールリクも、意外そうに首を傾げた。
クルィーロは、営業所のみんなの視線を背中に受けて理由を説明する。
「ジゴペタルムの会社との取引が増えてきましたけど、湖東語が堪能なトカニーナ先輩に頼りきりです。いつまでもそれじゃいけない気がして、湖東語の勉強を始めたんです」
「私はクルィーロ君って【跳躍】だけでも充分、役に立ってると思うけどね」
トカニーナ先輩が隣に来て言った。彼女は力なき陸の民だ。
「今は【跳躍】で先輩を連れて行くのと、荷物持ちだけが仕事みたいな感じなんですけど、湖東語会話もわかった方がいいかなって思って」
「勉強するのはいいんだけど、いきなり一人でジゴンに行くの?」
トカニーナ先輩が心配する。
父も渋い顔だ。
「端末さえあれば、翻訳アプリで何とかなるだろうが」
「取敢えず、注文の決まり文句だけ覚えたんで、翻訳アプリなしで注文して通じるか試したり、昼ごはん食べながら他の人が喋ってるのを聞いて湖東語に耳を慣らしたりとか、その辺からしてみようかなって思うんです」
クルィーロはアピウム営業所長に言った。
営業所長が、湖東語が堪能な営業社員に視線を向けて言う。
「実地で学ぶのはいいが、ホントに一人で大丈夫か? 最初はトカニーナさんも一緒に」
「先輩が居たら、頼っちゃうからダメだと思うんです」
クルィーロはアピウム所長の気遣いを遮った。
「俺一人で注文できたら自信がつくと思うんですけど、ダメですか?」
「まぁ、最悪、翻訳アプリを使えばいいか。昼休みが終わるまでに戻るなら別に構わんよ」
アピウム営業所長が折れてくれた。
「有難うございます」
「子供を初めておつかいに送り出すのってこんな気持ちかしらね」
トカニーナ先輩も苦笑する。
父は肩を竦めたが何も言わず、自分の席で仕事を始めた。
午前中は、メールの処理、見積書や発注書の作成などで終わった。
クルィーロは昼休みになってすぐ、職場最寄りの【跳躍】許可地点へ急いだ。ここから北門に近い許可地点に跳ぶ。
街を魔獣などから守る防壁を出た直後、一息に呪文を唱え、ジゴペタルム共和国の首都ジゴン市へ【跳躍】した。
ジゴペタルム共和国は湖東地方の最南端に位置し、南でアミトスチグマ王国と国境を接する。
国民の大半がフラクシヌス教徒だが、力なき民の割合がそこそこ高く、北部と内陸部にはキルクルス教徒の多い地域がある。
首都ジゴンも、ラキュス・ラクリマリス王国の都市と同じく、魔物や魔獣を防ぐ防壁に囲まれた魔法都市だ。
北はジゴン港で一般人は立入禁止。西門に【跳躍】した。
五階建てビル並の高さの分厚い防壁を通って市内に入る。
クルィーロ一人で訪れるのは初めてだ。
いつもは【魔力の水晶】を幾つも握って、トカニーナ先輩と二人で来る。
ラキュス・ラクリマリス王国からの輸出は、力なき民向けの魔道具やその部品、魔法の繊維製品が中心で、ジゴペタルム共和国からの輸入は、機械部品や電子部品が多い。
トカニーナ先輩は力なき陸の民だが、魔法の繊維製品方面に明るい営業社員で、クルィーロはいつも荷物持ち兼【跳躍】要員として商談にお供する。
南部のペタロン市には湖南語を解する者がそこそこ居るが、北部の首都ジゴンには少ない。
クルィーロは、道行く人の声に耳を澄ましてみたが、湖南語は単語のひとつも聞こえなかった。湖東語は、挨拶の言葉を中心に少しは聞き取れる。
人で賑わう西門前の広場を見回す。
カフェや定食屋の看板が、幾つも並ぶのが見えた。
運び屋フィアールカが月々の支払いをするタブレット端末で、西門前広場の写真を撮る。
色々な料理の匂いの入り混じった風が鼻をくすぐり、腹の虫が騒いだ。
クルィーロは、西門から一番近いチェーン店のカフェに入った。
注文の列に並ぶ間、自分の端末で湖東語会話のサイトを開き、注文の決まり文句を確認する。
……思ったより緊張してるなぁ。
掌の汗をズボンで拭い、注文カウンターの上に掲出されたメニューを見上げた。
一番安いセットは、白身魚のフライサンドとフライドポテト、飲み物は幾つかある中から選ぶ方式だ。
クルィーロは、ジゴペタルム共和国で進行中の公害訴訟を思い出し、二番目に安いチキンサンドに決めた。
注文の列が進み、順番が回って来た。
カウンターにも同じメニューが置いてある。
「あ、あの、こレくだサイ」
たどたどしい湖東語で言って、メニューの写真を指差す。
「お飲み物はどれにしますか?」
「あ、えっと、こ、コーひーです」
「チキンサンドセット、お飲み物は珈琲でよろしいでしょうか?」
「はい」
「お席にお持ちしますので、番号札を持ってお待ち下さい」
立てて置ける小さな看板のような番号札を渡され、クルィーロは窓際の二人席に陣取った。
……俺、意外と聞取りは何とかなるんだな。
冷や汗を拭い、運び屋フィアールカに渡されたタブレット端末を出す。
テキストファイルには、この端末の本来の持ち主「水質汚濁を防ぐ会会員五号」に拡散を頼まれた公害訴訟絡みの湖東語の記事URL一覧、バルバツム連邦軍の悪事を告発する動画のURL、翻訳アプリで作成してくれた湖東語の文章を保存してある。いずれも、ファーキルが用意して送ってくれたものだ。
〈今日のお昼ごはん〉
今日のSNSの投稿は、これで乗り切る。
運び屋フィアールカに教えてもらったパスワードを入力し、水質汚濁を防ぐ会会員五号のアカウントにログインした。
水質汚濁を防ぐ会会員五号自身の投稿は、湖南語と湖東語が半々だ。
……五号さんって、南部の人なのかな?
性別不明の環境活動家は、持病が悪化して人工透析に通うようになり、しばらく自分で活動するのは控えるらしい。
健康状態の悪化を伏せ、替え玉として、ジゴペタルム共和国に於けるラキュス湖の水質汚濁訴訟関係の記事を拡散するのを条件にこの端末を貸してくれた。
湖南語の公害関係の記事は、クルィーロも自分の端末で調べてこの端末に送っておいた。
チキンサンドセットが来るまで、湖東語の記事と湖南語の記事を順番に開いて、交互に拡散する。
ラーヌンクルス電池産業は、二十年近く前にジゴペタルム共和国で操業を開始して以来、工場廃液をラキュス湖に垂れ流し、水質汚濁で魚を大量死させた。
生き残った魚には畸形が増え、到底、食用にできない状態だ。
ジゴペタルム人から激しい抗議が起こり、バルバツム連邦に本社を置くラーヌンクルス電池産業は何年も経ってから一応、水質汚濁防止措置を取った。
ジゴペタルム漁協とフラクシヌス教団が尽力し、何年も掛けて汚染水を浄化。努力の甲斐あって、魚は安全に食べられる状態に戻った。だが、新聞に載った衝撃的な写真の印象を拭えず、売上はなかなか回復しない。
クルィーロ自身、湖水を浄化したからもう大丈夫だと言われても、この国で獲れた魚を口に入れるのは怖い。
漁協が代表で訴訟を起こし、湖水の浄化費用と売上減少に対する損害賠償を求めるが、ラーヌンクルス電池産業側は、公害対策に関する世俗の法がないことを盾に全面的に争い、未だに最高裁で係争が続く。
ラーヌンクルス電池産業はアーテル共和国で土地を買収し、工場を移転する予定だったが、魔哮砲戦争、インターネット回線の途絶、未曽有の大水害、魔獣の大量出現などの悪条件が幾つも重なって、計画が何年も停滞した。
それがなければ、アーテル領への移転が完了した途端、訴訟を放り出して知らんぷりを決め込んだ可能性が高い。
……ウチの国とアーテルが再統合したら、こんな会社、速攻追い出されるよな。
土地の買収費用は返却するだろうが、ラキュス・ネーニア王家や湖の女神パニセア・ユニ・フローラの信者が、こんな企業の操業を許すとは思えない。
バルバツム連邦にとって、自国の大企業の利益確保は、それだけでもラキュス・ラクリマリス王国とアーテル共和国の国家再統合を妨害する理由になり得る。
……税収と献金……か。
クルィーロには、カネの為なら他国の人間や水棲生物の命を脅かしても構わないと言う考えが全く理解できない。
訴訟関連の記事を貼付けただけの投稿が、環境活動家「水質汚濁を防ぐ会」の同志の手で瞬く間に拡散される。
チキンサンドセットが来た。
忘れずに写真を撮って、水質汚濁を防ぐ会会員五号のアカウントに載せる。
こんな他愛ない投稿にも、たくさんの賛意が寄せられた。
クルィーロは一仕事終えた気分で、チキンサンドにかぶりついた。




