3622.付与術の解説
キルクルス教団ネモラリス教区を預かるローク・ディアファネス大司教は、神学と魔術を知る者として、キルクルス教の聖典に記された文言を指でなぞりながら、共通語で解説する。
「聖なる星の道を歩む皆さん、もう一度、この文言に注目して下さい。“善き業のすべての刺繍を終え、生地を縫製し、衣を完成させることは、無原罪の清き民にも可能な助力である”と書いてありますが、誰に対する助力とは明言していませんね」
「聖典が、魔導書から、私たちでも魔法使いの人を手助けする為にできる部分を抜き出して書き写したものなら」
若き星道の職人サロートカは、続きを呑み込んだ。
クレーヴェル教会信徒会の青年が、彼女の湖南語を共通語訳した。
ロークは、大聖堂公式チャンネルで火曜礼拝の生配信を視聴する世界中の信徒に向けて、共通語でゆっくり説明する。
「聖者キルクルス・ラクテウス様が活動し、聖典の原本となる手記が書かれたのは、今から約二千二百五十年前……三界の魔物によって壊滅的な打撃を受け、アルトン・ガザ大陸北部が荒廃した時代です」
「魔物や魔獣から身を守れる魔法を使える人が、ほんの少ししか生き残ってなくて、街や村が壊滅したから魔導書もあんまり残ってなくて、何もしなかったら、知識も技術も喪われて二度と取り戻せなくなりそうな状況だったんですね」
サロートカの湖南語が共通語訳されるのを待って、ロークは頷いて言った。
「十世紀半ばにソフスが唱えた学説でも、そのように解釈しますが、神学者ソフスは異端者として火刑に処されました」
「えッ……!」
魔法使いの縫製職人フィランスロピオンが言葉を失う。
ローク・ディアファネス大司教は、カメラに向かって共通語で発言を続けた。
「精光記の元になった聖者様の真筆は、大聖堂で大切に保管されています。しかし、その断片的な文章は、少なくとも三人の筆跡があることが知られています」
「聖者様とお弟子さんの筆跡ってことですか?」
星道の職人サロートカが聞く。
彼女は聖典の星道記の内「縫製の章」を修めたが、修道院ではなく、星道の職人クフシーンカに弟子入りして学んだ為、神学には疎い。
「複数の指導者……あるいは記録者が残したメモを後の時代にまとめて、信仰の象徴として“キルクルス・ラクテウス”と言う人物に集約したとする三人一身説を唱える宗派もありましたが、主流派ではありません」
「三人一身説って初めて聞きました。それも、古い時代の異端者ですか?」
サロートカが驚いた顔で聞く。動画撮影を担当する教会事務員も、カメラの後ろで彼女と同じ顔になる。
ロークは断言した。
「はい。数百年前に異端として弾圧を受けましたが、現在もアルトン・ガザ大陸南部では細々と存続しています」
「アルトン・ガザ大陸南部って、純粋な科学文明国がなくて、魔法と科学両方を扱う両輪の国だけですよね?」
湖の民フィランスロピオンが恐る恐る確認する。
「そうです。土地の魔力が弱いので、強力な魔法を実際に使える人は少ないのですが、力ある言葉のわかる人が多く、聖職者や星道の職人も、その気になれば、聖典に記された力ある言葉の文字列や聖句が魔法だと確認できる環境です」
ローク・ディアファネス大司教が共通語で言うと、執務机に置いたディスプレイに表示された生配信の画面で、コメント欄の流れが止まった。
「聖典の光跡記は、聖者様がご存命の間に弟子や親しく交流した人々が書き残して、死後にまとめられたものですが、こちらも、聖者様がお一人だったとするには矛盾する記述が散見されます」
「具体的に……どんなところが矛盾するんですか?」
星光の職人サロートカが、生配信を視聴する信徒の疑問を代弁した。
「わかりやすいところでは、聖者様のお名前が、キルクルス・ラクテウス、オルビス・ラクテウス、ラクテウス・オルビスと、三種類登場することですね」
「聖者様の直筆の記録って言われてる古文書の筆跡が三種類……三人一身説で、光跡記のお名前も三種類ですか」
「はい。光跡記のお名前が三種類あることも、三人一身説を補強する材料です」
〈高校の教科書で見た奴だ!〉
〈三人一身説って世界史で習ったゎ〉
〈まさか、まだ生き残りが居たとは胸熱〉
〈異端者として駆逐されたんじゃなかったのか〉
生配信のコメント欄がざわつき始めたが、ロークは無視して続ける。
「それでは、フィランさん、そろそろ聖職者の衣への付与をお願いします」
「はい。えーっと……その前に個別の術を説明しといた方がいいですか?」
「お願いします」
ロークとフィランの湖南語の会話を信徒会の青年たちが共通語訳する。
縫製職人フィランは、応接机に広げた真新しい聖職者の衣の袖を持って刺繍を指でなぞった。
「この部分は【魔除け】ですね。力ある言葉で“日月星 蒼穹巡り、虚ろなる闇の澱みも遍く照らす。日月星、生けるもの皆、天仰ぎ、現世の理、汝を守る”って書いてあります」
「キルクルス教の聖句としては、共通語で同じ文言を唱えます」
ロークは、フィランの湖南語が共通語訳されるのを待って言った。
カメラを操作する教会事務員が、応接机に三脚を寄せて撮る。
星道の職人サロートカが、フィランに聞いた。
「その部分、力ある言葉で読み上げてもらってもいいですか?」
「いいですよ」
魔法使いのフィランが、聖職者の衣から手を放して力ある言葉で唱える。【魔除け】の術が発動し、彼を中心に真珠色の淡い光が広がった。
霊視力のある者なら、術の効果範囲を視認できるが、キルクルス教徒の大半は魔力も霊視力もない半視力だ。
カメラ越しでは、霊視力のある者の目にも視えないことが多い。
ロークはカメラに向き直って、手を大きく振った。
「肉眼……霊視力のある目には、フィランさんを中心にこの執務室いっぱいに真珠色の淡い光が広がって【魔除け】の効果範囲が視えています。ですが、カメラ越しでは、恐らく、何も変化がないように見えるのではありませんか?」
〈大司教様、霊感あるんだ?〉
〈マジかよ?〉
〈南部なら余裕〉
〈遺伝だろ。怪物いっぱいの地域は霊視力ないと逃げ遅れて食われるから〉
〈あぁ、自然選択?〉
生配信のコメント欄で、共通語の似たような短文が凄まじい速度で流れてゆく。
縫製職人フィランは【魔除け】の呪文が刺繍された部分の傍にある複雑な模様を指差した。
「これは【魔除け】を服全体に巡らせる呪印です。で、こっちが【耐寒】の呪文で、その隣はそれを全体に行き渡らせる呪印」
フィランは【編む葦切】学派の術者として【耐暑】【耐衝撃】【耐火】【頑強】の刺繍も、それぞれ指でなぞって解説した。
「これらは付与魔術専用なので、呪文を唱えても何も起きません。術毎に決まった方法で服や建物に書いて、発動の呪文を唱えれば、それに魔力が供給される間、ずっと術の効果が持続します」
「私たちキルクルス教徒の間では昔から、魔物に追われたら教会に逃げ込むようにと言われていますが、建物も発動の呪文が必要なんですね?」
ロークが、魔術と縁遠い信徒の為に質問で確認する。
縫製職人のフィランは、建築分野を掌る【巣懸ける懸巣】学派は専門外だが、一般常識として答えた。
「他の魔法はそうなんですけど、建物に付与する【魔除け】だけは、呪印がちゃんとしてれば、魔力の供給だけで発動しますね」
「仕上げの魔法がなくても、建物に魔力が供給されれば【魔除け】の効果が出るんですか?」
「そうです。だから、さっき見せてもらったこの教会の礼拝堂も、警備の兵隊さんたちの魔力でずっと【魔除け】が作動してましたよ」
コメント欄で、新鮮な驚きの叫びが滝のように流れた。
☆ソフスが唱えた学説……「1739.残された魔法」参照
☆三人一身説を唱える宗派……「554.信仰への疑問」参照




