第二話 名前
馬鹿みたいに高級そうで冗談みたいに広い風呂に入れられた。
こう見えて僕は背が高いんだ。高校生にしては大きい方で、だから銭湯とか温泉以外にこうして足をゆっくりと伸ばせるバスタブは本当に久しぶりだ。
猫足バスタブ。こんなのホテルでだって見た事ない。
風呂場の中は確かに高級感あふれているけれど、それでもどちらかというと子供が好みそうなグッズが沢山あった。
まず、お風呂と言えばこれぞ王道。と言うべきアヒルの玩具。そしてイルカのスポンジ。タイルにはここは保育園か幼稚園なんじゃないだろうか。と思わせられる絵が描かれていた。
和む。
その一言に尽きた。
何て言うか、高級なのに、子供の為に作られている。そんなギャップがまたいい。この風呂にあの美少女とエメラルドさんは毎日入っているのだろうか。
そこまで考えて、少し違うな。と直感的に思った。
何故だか分からないけれど、この風呂場は毎日使われていなくて、むしろ最近は全然使われていなかったんじゃないか。ここを使う事はなるべく避けていたんじゃないだろうか。そんな風に思えた。
勿論それはなんの根拠もない只の直感であるけれど、それでもここはとても特別な場所で、そしてそれを使わせて貰っている僕は確かにちゃんと客なんだなぁと。丁重に持て成されているのだなぁ。とそう思った。
まあ、なんの根拠もないのだけれど。
上の方に雨の様に降らす事が出来るシャワーがあった。僕はそれの正式名称を知らないけれど、動かす事が出来なくて、それでも固定する手間がいらないそれは、とても子供が好きそうだった。
身体を念入りに洗うのが何となく礼儀だとそう思ったから指の間も耳の裏も、首の後ろもどこもかしこも綺麗に洗い終わった後、用意されていた服に身を包んだ。
ちなみに体を拭くタオルはもの凄く分厚くて、とても柔らかかった。こんなにふわふわなのに柔軟剤の匂いがしないのはどういう事なのだろうか。
それに、あんなに可愛らしい内装だったのに、風呂場に置いてあったシャンプーもトリートメントもボディーソープも匂いが何もしなかった。
もちろん、化学物質の筈なのだから、無臭と言う訳ではなかったけれど、何と言うか、特別匂いを付けた様なそんな匂いは微塵もしなかったのだ。
まるで、僕の匂いを消し去る様に。
考え過ぎだろうか。
「湯加減の方は如何でしたでしょうか」
脱衣所から出て少し広めの部屋にエメラルドさんは佇んでいた。
その表情は無。無表情だった。
同じ顔をしているあの美少女(男)はいつも口元に笑みを浮かべているというのに。あの、見るもの全てを嘲笑するかのような、あの美しい笑みを浮かべているというのに。
「えっと、エメラルドさん」
で良いのだろうか。
「エメラルド・カラー・ステッキと申します」
長い名前だ。
「エメラルド・カラー・ステッキ?」
「エメラルドとお呼びください。旦那様もそう呼ばれておりますし、私以外にもステッキはおります」
ああ、まあ苗字なんだからそうだよね。
「あの、彼はどこに」
彼、で良いのだろうか。そもそも僕はあの美少女をどう呼んで良いのかすら知らない。あの美少女の名前を知らないのだ。
「旦那様はもう既に寝室へと」
「寝室?」
「疲れたからもう寝る。と」
疲れる。それは何と言うか妙な感じの言葉だった。
あの美少女が、自分が乗っている飛行機が墜落していたのにあんなにも機嫌が良さそうで、むしろ少し楽しんでいた様な、そんな雰囲気を纏わせていたというのに。
まあ、僕も人の事は言えないが。
「結城さまをこの屋敷に馴染ませるのはかなり力を使うのです」
力。そういえばそんな感じの話を飛行機の中で。
「旦那様は二つの世界を犠牲に作られた魔法少女。大きすぎる力を持て余しながら、旦那様の身を蝕んでゆくのです」
魔法少女。それは一番最初にされた説明で、そして一番詳しく説明されながらも核心の方は全くと言って良いほど突いていなかった。魔法少女。
そうか、あの美少女は魔法少女なのか。少し納得。
「彼は、大丈夫なんですか?」
「お腹が減ったと仰られていましたので、今食事の用意をしている所でございます」
食事。エメラルドさんはここにいるというのに。
いや、まあこんな大きな屋敷なのだから、使用人がエメラルドさんだけとは限らないか。
「結城さまはお腹の方は」
「機内食を食べたから、平気です」
最近の飛行機は美味しい物を出してくれる。
「左様ですか。では、旦那様の許へご案内します」
そう言ってエメラルドさんは歩き出した。
何となく、そう何となくだけど、この屋敷に着いてから、あの自分を一歩引いて見ていた感覚は薄まってきたような気がした。
それも、あの美少女の力なのだろうか。
「結城さま。結城さまは間時引きで在られるのですよね」
「え、ええ。さっき彼に聞いただけですけど」
それが何か?
「いいえ。旦那様はグルメであられますから。珍味というものにも目がないのです」
その言葉に少しばかり、いやかなり危機感を煽られた。
そう言えば、どうして僕は風呂に入っていたのだろうか。どうして僕は無臭のシャンプー等を使ったのだろうか。どうして僕は、あの美少女に連れられて来たのだろうか。
身体にクリームを塗ってはいない。塩も塗り込んではいない。けれど、それでも、何となく注文の多い料理店とかそういう感じのものを思い起こさせる状況に僕は足を突っ込んでいる様な。そんな気がしてくる。
僕は、食べられるのだろうか。あの美少女に。
常に微笑を絶やさず、容姿にそぐわない乱暴な口調で周りを煙に巻く。そんな、あんな美少女に。食べられるのだろうか。
飛行機が墜落していたあの時は全然恐怖を感じなかった。ただ、リアリティがないと、そう思っていた。
けれど、今はどうだろうか。本当に少ししかないあり得ないとしか言い様のない可能性に怯えている。エメラルドさんについていくのが恐ろしい。怖い。喰われる。どうしようもなく、全てを。
聖食者と、そう言ったのはあの美少女だったというのに。僕が喰われる立場なのだろうか。
「旦那様の寝室はこちらです」
そう言ってエメラルドさんは扉の前で立ち止まった。乳白色の扉を開けば、あの美少女がいる。
僕は、喰われる?
鐘打つ心臓を必死に宥めながら、僕は扉を開けた。
扉を開けた先は、プラネタリウムだった。星空の中だった。
天井のみならず、床も、壁も、全てが星空が描かれていて、モビールの様に天井からキラキラとした、そうまるでクリスマスのオーナメントの様な星が垂れさがっていた。
真ん中にある天蓋付きで純白が眩しいベッドの中にはしだなく寝そべる美少女がいた。
この状況を僕は言葉で上手く説明出来ない。
星空の中を歩くと、いくつかの星が流れ星となって流れる。どういう仕組みだ。
いや、今更仕組みとかそういう事を考える時ではないのだろうけれど、それでも考えさせられるものがある。
「結城」
名前を呼ばれて、僕は美少女にどう返していいか悩んだ。
普通なら僕の方からも呼び返したりするものなのだろうけれど、僕は美少女の名前を知らない。
だから僕は何だ?と聞き返した。
「俺はグルメだ。美味いものには目がなくて、特にレア物は味わってゆっくり食べる」
舌なめずりをしながら僕を指で誘った。
それは、ベッドに乗れという事なのだろうか。
男だと分かっていても、美少女は美少女だ。
女子に対して免疫がない僕はどうするのが正解か分からない。
だから素直にベッドに乗ってみたんだけれど、強い力で引っ張られてベッドに押し倒された。
目の前には美少女の笑みがある。
「結城。お前は天敵にのこのこついていって食い殺される趣味でもあるのか?」
「そんな趣味はないよ」
「だろうな。間時引きが魔法少女に喰われるって事は、即ち魂の消滅を意味する。飛行機事故に遭うのとは訳が違うぜ」
ああ。今はげらげらとは笑わないんだな。何となく残念だった。
あの笑い方は決して上品とは言えないけれど、美少女の容姿に全く似合わないけれど、美少女にはとてもよく似合っていると思えたから。
美少女の容姿ではなく、この場合、魂とかそういうものに似合っていると思ったから。
「結城。俺はお前を喰うつもりは元からねぇよ。エメラルドだってそうだ。Lの風呂に入れた時点で喰うとかそういうのはねぇよ」
「L?」
「あの風呂、子供趣味だと思わなかったか?」
「ああ。ちょっと思った」
「シャンプーも匂いがしなかっただろ?」
「ああ」
「あそこは保っておきたかったから」
保つ?
「あのまま。あの時のまま。あの日のまま。保っておきたかった」
「なら、どうして僕を入れたんだ?」
「お前を近づけたかったから。間時引きである結城がLに近付けばLを近くに感じる様になれば、きっと、お前はLを見付けてくれるって、そう思ったから」
どうやら、美少女にとってLというのはとても大切な存在らしい。
魔法が使える美少女の事だから、あの風呂場は僕なんかが考えられない程昔からあのままなのだろう。
それは、つまりそんな長い間美少女はLを忘れられなかったという事だ。
「Lというのは、兄弟か?」
「・・・いや。血の繋がらない実子だ」
実子に血の繋がりがないとかあるのだろうか。
けれど、そうか。子供。子供がいるのか美少女には。
子供を産めると言っていたし、そういう事もあるだろう。
「言っとくけど、俺が産んだんじゃねーからな。アイツは、俺の妻が俺以外の男との間に作った子供だ」
それは、かなりドロドロとしているな。
でも、
「実子って事は、愛しているんだね」
「当たり前だろ。血の繋がりなんて些細な事だ。勿論血が繋がってれば余計な事考えなくて済むけどよ、それだけだろ?俺は、Lを愛していたし、愛している。実の息子だと思っているし、何より、元に戻りたいと思っている」
元に戻る。それは、どうやって?
というよりも、どうして?
それよりも、どういう風に?
「結城。俺は、Lを諦められない。あの飛行機に乗ってたのだって暇つぶしって言ったらそうだけど、探してたんだ。あんな乗り物に乗った事は確かに暇つぶしだったけれど、それでも、ああしてどこかに行くのは、探しているから。探して、手がかりだけでもないかって。行った先で似た歳の子供を見れば今どのくらい大きくなっているのか考える。最後に見た歳ぐらいの子供を見れば、泣きたくなる。子供を探してる親っていうのは、・・・子供を失った親っていうのは、大体こんなもんだろう」
以前として僕の上から退く気はなさそうだけれど、それでも、それは泣き顔を、泣きそうな顔を見せつけてる。そんな意味がある様な気がした。
「僕だと君の息子を見付ける事が出来るの?」
「・・・ああ」
「だから、僕を助けたの?」
「そうかもな」
何となく、それだけじゃない様な気もしたけれど、多分大事なのはこちらの方だろう。いや、もしかしたらもう一つの言いたくない方の方が本命なのかもしれないけれど、それでも、それを僕に察しろというのは土台無理な話だった。
「僕は誰かを助けるのがとても苦手なんだ」
「あ?」
僕の言葉に美少女は怪訝そうな顔をした。
「どうしてだか、誰かの為に何かをすると、どれが、どうするのが正解なのかギリギリまで悩んでしまって、結局助ける役割は他の人がする。それか、助からない」
僕は優柔不断だから。柔らかいのに切れないから。
「だから、君が助けて欲しいって言っても、失敗するかもしれない。君の子供を見付けられても、君の許に届ける事は出来ないかもしれない。もしかしたら、余計拗れる事になるかもしれない。それでも、良いなら」
僕は美少女の目を、甘い瞳を見つめながらハッキリと言った。
「僕は君を助けるよ」
その瞬間、部屋の中の星たちが、まるで流星群の様に一斉に流れ星となった。
「・・・綺麗だ」
思わず口からそう感想が零れる程、その景色は美しかった。
「結城。俺は」
口ごもる美少女の頬に僕はそっと手を添えた。
僕にはこの美少女と違って男に、いや、女の子相手ですらキスなんかする度胸はないけれど、それでも、今すべきだと思ったから。
僕は美少女の服からちらりと見えていた胸元にキスを贈った。
「さあ、名前を名乗れ」
僕の口からすり抜ける様に出てきた言葉に美少女はその笑みを深くした。
「樹姫友樹の樹と同じ字だぜ?」
そう言って、美少女、樹姫も僕の胸に口付けた。
「僕は、結城友樹」
そう名乗り合った途端、僕達の胸に、口付け合った箇所にまるで樹が根を張る様に。薔薇の樹の様に棘のある樹が絡まって、刻み込まれた。
それに全く痛みを、熱を感じないと言ったら嘘になるけれど、それでも僕達はそれで良いのだと知っていた。
僕は、知っていたのだ。
「お互いに所有し合うってのは、意外と良いもんだな」
そう言いながら樹姫は自分の胸にある刺青の様なそれを優しく撫でた。
「ああ、そうだ。結城。お前も俺も、本来は他人に名を知られちゃ不味いんだぜ?特に、天敵同士はな」
天敵。聖食者と魔法少女は、か。
「他の奴にも知られたら面倒だ。だから、結城。お前はこれから結城友樹じゃなくて結城友樹な。これは、約束。お前も俺を樹姫って呼ぶなよ?他人の前では絶対に呼ぶな。俺の事は、そうだな。お前が名前付けろ」
「え?」
「俺だって付けたんだから良いだろ?」
そう言われても、ゆうきゆうきって、馬鹿じゃないのか?今までのゆうきともきも馬鹿だったけれども。
でも、そんな感じで良いのなら。
「じゃあ、樹姫で」
「分かってんじゃねーか」
ああ。字は変えないで読み方だけ変えるというのは正解だったらしい。にっこりと嬉しそうに微笑む樹姫に僕も嬉しくなった。
「さ、てと。実際腹が減ったのは事実だからな。結城。飯にするぞ」
「ああ、確かご飯を用意してるってエメラルドさんが」
あ、れ?そういえば、エメラルドさんは名前名乗ってたけど、良いのかな?僕も普通に名前を知られているけど。
「あ?何言ってんだ。食事は俺達お互いだぜ。結城」
「おた、がい?」
待ってくれ。それって本当に僕の事を食べるつもりで?
押し倒された格好のまま、僕は逃げ出そうとしたけれど、樹姫はかなり力が強く、僕は逃げる事が出来なかった。
「大丈夫。魂を喰うなんて野暮な真似はしねぇよ。ただ」
ただ。ただなんだろう。
「性的な意味でカニバリズム的意味で喰い合おうって話だ」
そう言って、樹姫は僕の頬に噛みついてそのままマシュマロでも食べるかのように優しく柔らかく噛み切った。
それに不思議と痛みは感じなかったけれど、というかむしろとてつもなく気持ちよかったんだけれど、何て言うか。僕もお腹が空いて来た。
樹姫の繊細そうな指に噛みついて、まるでチョコレートでも食べる様にパキッと食べてみた。
ああ。確かに美味い。
食べられると気持ちが良くて、食べてみると食欲がうずく。
それは、性的な意味合いも確かにあるし、カニバリズム的でも確かにあるだろう。
不思議と、血は溢れなかった。
そのまま僕達はお互いの踊り食いを続けながら、甘くて美味しい、気持ちの良い時間を過ごしたのだった。