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25.バタースカッチの一撃

お互い無言のまま、決して長くない廊下をリビングに向かって歩く。前を歩く実弥子の背中を不意に抱きしめたい衝動に駆られたけれど、それだけはと必死になって抑えた。舞い上がる心と、地に落ちるくらいの衝撃を受けている心臓を抱えつつも、未だ啓の奥底は冷静な域にある。まだ、実弥子から明確な答えを得られたわけではないことは、しっかりと理解している。ただ「寂しい」と言った彼女が啓に抱えている想いは単なる『家族愛』、それから『甘えからくる寂しさ』である可能性だってあるのである。


「…コーヒー、飲む?」


リビングに着くなり、実弥子が顔を啓に向けないままポツリと呟いた。不意に聞かれたせいで一瞬動揺した啓だけれど、なんとか「ありがと」という言葉だけ返す。それをキチンと肯定の意として捉えた実弥子は、頭をこっくと動かしてキッチンへと向かっていった。きっと彼女が淹れるのは二杯分には満たない量だろう。実弥子は牛乳を多めに入れないと、コーヒーは呑めないのだから。そして啓は一瞬、英恵に言われたことを思い出す。


そう、啓は実弥子のことならなんでも把握しているし、把握していたい。愛している人の事を何でも知りたいと思うのは、決して不自然なことではないのだ。

時計は既に遅い時間を指さしているので、コーヒーは今の時間やタイミングを鑑みても些か不適切である。それでも啓は黙って実弥子のやりたいようにやらせてあげることを選んだ。間違いなく惚れた弱みであるのと同時に、なんとなく、コーヒーの苦みで冷静さを取り戻せるようにしておきたかった。今から啓が十年話したくて仕方なかったのに、それでも臆病ゆえに出来なかった話をするのだ。そのくらいの動揺は許して欲しい。


実弥子は元々準備をしていたのか、すぐにマグカップを二つ持ってきた。自分が普段使っていたものと、啓のマグカップだ。それをリビングに音もなく置く。その中身を見て、ほんの少しだけ啓は驚いた。啓のカップの中身が深い暗みを帯びたブラックのコーヒーであるのはとうに把握済みだったというのに、実弥子のカップの中まで同じ色合いをしていた。


「ブラック、飲むの?」


「…え?」


「だっていつもは、牛乳入れないとコーヒー飲めないだろ?」


そこまで言って、啓はハッとする。そんなことまで把握していると実弥子が知ったら、気持ち悪がられるだろうかという後ろ向きな考えが思考をよぎっていく。

実弥子の反応を緊張の面持ちで待てば、実弥子はカップを両手で持ちながら、ほんの少しだけ笑った。


「…啓は、すごいね」


啓のドキリと心臓が揺れる。実弥子の言葉が皮肉か本心か読み兼ねたからだ。そんな啓の揺れる瞳を、実弥子が見つめた。先ほどとは違う意味で心臓を高鳴らせれば、実弥子が赤くした目を細めて啓を見つめる。


「啓は私の事、よく解ってくれてるんだね」


実弥子の真意を、計りかねる。啓は慎重に言葉を進めた。


「…当たり前、だろ」


この言葉の後ろに付く言葉は、あえて避けた。「姉弟なんだから」と付ければいいのか「好きだから」と言ってもいいのか、やはり解らないからだ。今の啓には、ただ実弥子の言葉を待つしか出来ない。期待が膨らみ過ぎて衝動に襲われる前に、早く答えが欲しい。そんな啓の真意を知ってか知らずか実弥子は一度上げた顔をゆるゆると下ろして、今度は俯いてしまった。カップを強く握ったのか、ほんの少しだけ指先が白くなっている。


「…実弥、子?」


啓は思わず実弥子の名前を呼んで彼女の反応を待った。じっと、彼女を見つめれば、不意に実弥子が肩を震わせた。思わずぎょっとしてもう一度名前を呼べば、実弥子はテーブルにあったティッシュを何枚か掴み、そっぽを向いて鼻を噛んでからもう一度啓に向き直る。相変わらずのマイペースさに、思わず笑ってしまいそうになるけれど、啓は耐えた。そんな所も愛おしいと思ってしまう程度には、彼女にのめり込んでいる。

ひと段落した実弥子が、ぽつりと話し始める。


「私はね。全然、解ってなかった」


「…なにを?」


「啓のこと、なんにもわかってなかった」


「……」


また涙が零れそうになるのか、実弥子が強く袖で目元を擦ろうとするのを啓はやんわりと止めて、ティッシュで軽く目元を撫ぜてやる。恥ずかしくなったのか、小さな声で「大丈夫」と呟く彼女の訴えは、簡単に退けてやった。


「コーヒーはどうやって飲むのか、朝ごはんは何食べてるのか。ここ最近、どんなことを考えてるのか。…全部全部、解ってるつもりでいたんだ。だって私は啓のお姉ちゃんで、一番啓に近い場所にいるんだもん」


小さな棘が、啓の胸に刺さる。啓が実弥子をそんな風に見ていたのなど、一体何年前の話になるだろうか。でもね、と実弥子が言葉を繋ぐ。


「私、知っている気になっているだけだった。お姉ちゃんだから、なんて偉そうに言っておきながら、啓のこと全然解ってなかったの。そのことがね、すごくショックで、すごく、情けなくて…」


すん、と実弥子が鼻を啜る。空気の沈む深夜なのも相まって、コーヒーが徐々に冷めているような音さえ聞こえそうな静寂の中でその音は妙に響いてしまった。恥ずかしいのか、実弥子はまたティッシュを数枚掴む。


「…なんで急に、そう思ったの?」


啓のこの質問は、少しばかり意地が悪かった。啓は気付いていたのだ。きっと実弥子は糸井が家に来た時に何か言われたのだと、糸井の女性らしい卑怯な部分も知っている啓なら簡単に予想が付くのにもかかわらず、実弥子にあえてそれを言わせよとしている。


「…糸井さんがね、教えてくれた」


教えてくれた?啓は首を傾げる。


「糸井さんはね、啓のことよく知ってた。お仕事のパートナーだからっていうのも、きっとあるんだと思うよ。それでも私より啓と一緒に居る時間ってきっと少ないのにそれでも啓のこと、よく見てたの。よく知ってるなって、私最初は一瞬感心しそうになっちゃった。…でもね、それって単純に私が啓のこと何にも知らなかっただけなんだなって思ったんだ」


「……」


「そしたらね、わ、私悔しくなっちゃって。糸井さんの方がずっとずっと啓のこと知ってるのかもしれないって思ったら、自分が啓のこと見てなかっただけなのに、糸井さんに敵意がいっちゃって、そんな自分が情けなくて、恥ずかしくて…そしたら、あの、」


お酒飲んで、あんなになっちゃって…。と、実弥子が消え失せそうな声で呟いた、真っ赤な目元と同じくらい頬を赤くして。

そんな実弥子を見ていたら、啓の右手が不意に悪さをした。実弥子の髪を耳元から掬って、ゆっくりと撫でる。実弥子が小さく、肩を揺らした。


「嫉妬、したの?」


啓が呟いた。その声は、熱い喉元のせいで酷く枯れている。


「え、えっと」


「嫉妬してくれたの?糸井さんに?」


「わ、わからな」


「わからなくないでしょ?ねぇ実弥子。察しが悪いフリするの、やめて。俺のこと自分よりも知っている糸井さんに嫉妬して、やけ酒なんかして後悔してるの?」


実弥子はとうとう黙り込んでしまった。それでも啓の走り出してしまった衝動は。止まりそうにない。撫でていた髪の奥、後頭部に手を添えた。実弥子の肩が、今度は大きく跳ねる。


「啓、あのね、私、それでね」


必死に声を繋いで実弥子が会話を止めないようにしているのが、頭が熱に遣られ始めている啓にもわかった。けれど、彼女の言葉はきいてやりたいと、どうにか耳を傾ける。


「もっと啓のこと、知らなきゃって思った」


「それは…俺の、姉として?」


語尾が小さくて聞こえないくらいの声量で、啓が口を開く。


「…わかんない」


「…本当に?」


「本当に、わかんない」


実弥子が小さく頷いた。啓はゆっくりと、触れていた実弥子の後頭部から手を離す。今度は啓の瞼が熱くなった。


「だって、啓はずっと弟で、たとえもう家族じゃなくても大事で…でも、それがどういう大事なのかが、まだわからないの」


「…え?」


啓の左腕が、少し重くなる。実弥子が、彼の服を小さく握っていた。


「糸井さんにヤキモチやいた自分が、どうしてヤキモチなんてやいたのか、自分でもよくわかって、ない。だからお願い、少し待って」


「実弥子…」


「仕事なのは解ってるよ。忙しいのも解る。啓、なんか少し痩せたもん。落ち着くまでお母さんの家にいるのは正解だと思う。でもね」



涙声で叫ぶような実弥子の声。啓はきっと一生、この声を忘れないだろう。


「ちゃんと、ちゃんとこの家に帰ってきて…私がね、寂しい、から」


我が儘で、ごめんね。


そう最後に付け加えた実弥子がボロボロと泣き始めてしまったのは、啓にとって好都合だったのかも知れない。啓だって、涙が止まらなくなってしまったのだから。

涙声で話せない代わりに、啓は突き飛ばされるのを覚悟してそっと実弥子の身体を引き寄せた。引き寄せて少し強めに抱き締めれば、実弥子は抵抗しなかった。抵抗はしなかったけれど、その手が啓に回ることもなかった。


まだ、それでいいと啓は思う。

啓にとっては、実弥子が自分から逃げないでいてくれるだけで、今死んでもいいとさえ思えるほど幸せなのだから。十年分の想いを受け止めてもらうには、まだまだ熱量も時間も足りない。これから、もっともっと自分のことを知ってほしいと、改めて思った。


それは、弟の啓としてではない。一人の男としての啓として。


コチコチと、時計が鳴り響く。時計に反するように少しの間自分たちは動きを止めてから、やがてゆっくりと実弥子が身体を動かした。それに合わせて、啓も名残惜しそうに身体を離す。

実弥子が恥ずかそうに「へへ」と笑うのを少し卑怯だ、なんて思いながら、啓はすっかり冷めたコーヒーを飲む。苦いけれど、妙に美味しかった。


「ケイのことね、桐山さんが前に『バタースコッチ味みたい』って言ってたんだ」


不意に実弥子が、的はずれな会話を始めた。真意がまたもや解らない啓は、一度首を傾げる。


「その時は少し否定的な風に言われちゃったんだけどね、私も啓はバタースコッチ味みたいって、思うんだ」


「…?どういう、意味?」


ふと、実弥子が立ち上がる。そのままリビングを出て行こうとするのか、足を出口に向け始めた。「…実弥子?」と思わず焦るように答えを求めれば、実弥子は耳を赤くしたままま、振り返らずにこう言った。


「私、ビターキャラメル味よりね、バタースコッチ味の方が好きなんだ。癖になる味してるもん。一つ食べると、もっと食べたいなぁって思う感じ」


「…え?」


「きっといつかそういう風に面と向かって言うかもしれないから、あの、そうしたら、その時は、よろしくね」


トイレ、と一言呟いて、実弥子はリビングから消えていった。

啓は思わず足を崩して項垂れる。実弥子の言葉の真意を勘違いしていないかが解らない上に、もし自分がしている解釈が合っていると言うのなら、こんなに甘い言葉はない。腰が抜けてしまったのではないかと思うほど体が動かなかった。


「ねぇ、実弥子。気付いてる?」


完全に実弥子が姿を消してから、啓が呟いた。抑えきれそうになかった衝動を、曲げた人差し指を噛むことでなんとか抑えて、グラグラ煮立ちそうな頭を抱えた。


「俺も、好きだよ。大好き。誰よりも、君が好き。…好きだよ。実弥子」


相変わらず少しせっかちで、思い込みが激しくて、誰よりも愛おしい彼女が求めるバタースコッチの味と香りに、啓はなりたいと願う。彼女が啓を知りたいと願ってくれたように。





大橋実弥子の家庭は、一言で説明するには、少しばかりややこしかった。

実弥子と血の繋がった母と離婚した父が再婚してから十年後、今の母とまた離婚をすると言い出した時、彼らは計り知れぬ衝撃を実弥子に与えた。更には父も義母も互いに別の相手がいることも判明し、実弥子の混乱はあっという間に沸点を超えたのだ。そんな中、一つの凛とした声が実弥子を混乱から救ったのだ。


「おれは、母さんにも、勿論親父にも付いて行かない」


横にいる弟は背筋を真っ直ぐに伸ばして、両親を見つめる。


「二人の都合に巻き込まれるのは、まっぴらなんだよ。…姉さんもそう思わない?」


実弥子は小さく頷いた。啓はそれを見ると、実弥子に少し笑いかけながら、大丈夫。とで言うように泣き続ける実弥子の背中に優しく手を置いた。


「俺と姉さんは、あんたたちの言いなりにはならない」


子どもの我が儘だと、笑われるかもしれない。けれどこの時の啓に実弥子は何より救われたのを、実弥子は絶対に忘れない。

実弥子のことをこんな風に救ってくれたのは啓だけなのだと、啓しかいないのだということを、いつか告げられたらいい。




いつか、あの時の啓のように、背筋を伸ばして、凛とした声で。

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