第九章「プラセボ」
その広場は、地獄のようだった。
夜だというのに、松明があちこちで焚かれている。地面に何十人もの人が、倒れうずくまっていた。呻き声。子どもの泣き声。「誰か、霊薬を!」という叫び。混乱の中を数少ない治療師が、駆け回っている。だが手が、まったく足りていない。
焦げた食べ物と、吐瀉物と汗の匂いが、入り混じっていた。踏みしめる地面に、割れた霊薬の瓶が、散らばっている。青い液が松明の火を映して、ぬらぬらと光っていた。
「もっと、霊薬を飲ませろ! 強いやつを!」
治療師の一人が、倒れた男に四本目の瓶を、飲ませようとしていた。
「やめてください!」
俺は駆け寄って、その手を止めた。
「これ以上足したら死にます! 今、この人に必要なのは、引くことだ!」
「なにを、素人が!」
「素人じゃない。この人を助けたいだけです。……お願いします。信じてください」
治療師は俺の勢いに、気圧されたように手を止めた。俺はその隙に、男の口に薄め水を注いだ。
「今夜ここで、祭りがあったのよ」
走りながら、セリカが言った。息が上がっている。
「収穫祭。みんな、祝いの酒代わりに、元気の霊薬を浴びるほど飲む。……そこにあの青い薬が、配られたんだとしたら」
俺は倒れた一人に駆け寄った。老人だった。脈を確かめる。速い。呼吸が浅い。口元に青い薬の、跡があった。祭りの元気水と、青い薬を重ねて飲んだのだ。相互帳で見たのと、同じ組み合わせ。
二本がけんかして、心臓を暴れさせている。
「薄め水を!」
俺はセリカに叫んだ。彼女が鞄から、瓶を放る。俺はそれを老人の口に、少しずつ流し込んだ。焦るな。速さを間違えるな。前世でもこの世界でも、それだけは同じだ。
老人の呼吸が、深くなる。ひとまず峠は越えた。
だが顔を上げると、まだ何十人も倒れている。
――全員は、無理だ。一人ずつ薄め水を飲ませてる時間なんて、ない。
そのときだった。
「た助けて……! 死ぬ……! あたし、死ぬんだ!」
若い女が、俺の袖を必死に掴んだ。震えている。だが――俺は彼女の脈を取って、おやと思った。
乱れていない。呼吸も、正常だ。青い薬の跡も、ない。
「あなた青い薬は、飲みましたか」
「の飲んでない! でも周りがみんな倒れてくから……あたしも、きっともうすぐ死ぬんだ! 体が、痺れてきた気がする!」
女の指は、氷のように冷たかった。だがそれは、恐怖のせいだった。血の気が引いて、手足が冷える。息が浅くなって、しびれた気がする。悪いのは、薬じゃない。心だ。
俺は周りを見回した。
気づいた。倒れている人の、半分近くは――本当は、薬にやられていない。
隣で人が倒れる。悲鳴が上がる。「毒だ」「呪いだ」と、誰かが叫ぶ。するとまだ何ともない人まで、「自分もそうだ」と、思い込む。不安が、伝染する。心が体を引きずり込む。震えが本物になり、痺れが本物になる。
これも一種の――相互作用だ。
薬と薬じゃない。人と、人。不安が、不安を呼ぶ。この広場全体が、恐怖で繋がってしまっている。
俺は立ち上がった。そして鞄から、小さな瓶を取り出した。中身は、ただの井戸水だった。
「聞いてください!」
俺は広場の真ん中で、声を張り上げた。前世では、一度もできなかったことだ。だが今は、震えなかった。
「本当に薬にやられた人は僕たちが必ず助けます! でも、それ以外の人は――大丈夫です! これは、うつる病じゃない! 隣の人が倒れてもあなたは倒れない!」
ざわめきが、少し静まる。
「不安な人は、これを一口飲んでください。“安心の水”です。心を落ち着ける薬。……飲めば痺れも震えも、すっと引く」
俺は井戸水の瓶を掲げた。
本当は、ただの水だ。だが、それでいい。
“効く”と信じて飲めば、本当に、体が楽になることがある。思い込みが、体を動かす。前世ではそれをプラセボ、と呼んだ。効き目のない薬でも、信じる力が痛みを和らげる。嘘みたいな話だが、本当のことだ。人の体は、心と切り離せない。心と体は、繋がっている。恐怖が体を蝕むなら、安心もまた体を癒せるはずだ。
今この広場に必要なのは、強い薬じゃない。安心だった。それも伝染する安心が。
俺は震える女に水を飲ませた。
「大丈夫。もう、大丈夫です。ゆっくり、息を吐いて」
女はこくこくと、水を飲んだ。そして――数呼吸のあと。
「……あ。ほんとだ。痺れが……引いてく」
その声を聞いて、周りの人々が次々と手を伸ばした。「あたしにも」「俺にも、その水を」。俺は井戸から水を汲み直しては、配って回った。ただの水が、人々の恐怖を鎮めていく。
不思議な光景だった。誰も倒れなくなった。それどころか水を飲んだ人が、隣の人に「大丈夫だよ」と、声をかけ始めた。安心が、手から手へ渡っていく。さっきまで恐怖が伝染していた広場に、今は逆のものが、広がっていた。
広場の混乱が、潮が引くように収まっていった。
本当に薬にやられた人だけが、残った。それならセリカと二人でも、一人ずつ確かめて、助けられる。
俺とセリカは、松明の火を頼りに、倒れた人を一人ずつ見て回った。青い薬の跡がある者。ない者。飲んだ量。重ねた組み合わせ。俺はそれを、頭の中で仕分けていった。前世で何百人もの薬歴を、面で読んできた目が、この闇の中でも働いていた。
夜明け前。
最後の一人の呼吸が、安定したのを確かめて、俺は地面に座り込んだ。
全身が、汗だった。腕が、上がらない。だが誰も、死ななかった。一人も。
松明の煙が、朝の風に細くほどけていく。あちこちで助かった人々が、家族と抱き合っていた。その光景を俺はぼんやりと、眺めていた。前世であの患者を運ばれるのを、ただ見ていることしか、できなかった夜を思い出した。あのときと、今夜は違う。今夜は俺の手が、間に合った。
「あんた……あの水、ただの井戸水だったでしょ」
セリカが隣に座って、呆れたように言った。
「よくあんなの、思いついたわね」
「心の、相互作用です」
俺は朝焼けの空を見上げた。
「薬と薬が、けんかするみたいに。人の不安も、隣にうつる。……でも、逆もあるんです。安心も、うつる。誰かが大丈夫だって言えば、それが、隣に伝わっていく。相互作用は悪いことばかり、じゃない」
言いながら、俺は初めてその言葉の、別の顔に気づいた気がした。
相互作用。混ざって、害になるもの。ずっと、そう思ってきた。前世でも、この世界でも。俺の仕事は、その悪い相互作用を、見つけて止めることだった。
でも――さっきの広場は、どうだ。
水を飲んだ人が、隣の人を安心させた。その隣が、また次を。恐怖が伝染したのと、同じ経路で今度は安心が、伝わっていった。人と人が混ざって、助け合った。
混ざって害になることも、あれば。
混ざって助け合うことも、あるんじゃないか。
その考えは、まだうまく形にならなかった。夜明けの光が、まぶしくて頭が回らない。だが何か大事なものを、掴みかけている気がした。それは俺が、これまで見てきた“相互作用”とは、正反対の顔をしていた。
俺は懐から、相互帳を取り出した。倒れた人々の名を、一人ずつ書き足していく。飲んだもの。青い薬。祭りの元気水。指が疲れで、震えた。それでも、書いた。書いておかなければ、この夜のことも、いつか忘れてしまう。
書いていて、俺の手が止まった。
倒れた人々の頁。共通しているのは、青い薬だけじゃなかった。もう一つ、あった。
全員が同じ場所で、青い薬を受け取っていた。祭りの、始まる前に。無料で。「塔からの、贈り物です」と言って。
――塔から遣わされた、一人の配り手から。
俺はその名を帳面に書き留めた。
この夜のことは、たまたまじゃない。誰かが意図して、この街に青い薬を撒いている。
朝日が、大錬成塔の頂を赤く染めていた。




