第十章「一包化」
祭りの夜が明けても、危機は終わっていなかった。
あの広場で倒れたのは、氷山の一角にすぎない。街の家々には、青い薬がまだたっぷりと残っていた。無料で配られた、塔からの贈り物。人々はそれを、後生大事にしまい込んでいる。「もっと強くなれる薬だ」と信じて。
このままでは、また倒れる者が出る。次は祭りじゃない、ただのある日の夜に。
「一軒ずつ、回りましょう」
俺はセリカに言った。
「全部の家の、薬を確かめる。危ない組み合わせを抜く。残った安全なものを、飲む時間ごとに、一つの袋にまとめる」
「一軒ずつ? 街じゅうを?」
セリカが目を丸くした。
「何日、かかると思ってるの」
「かかっても、やります。倒れてから助けるより倒れる前に引くほうが、いい。……それに、俺にはこれがある」
俺は相互帳を掲げた。
この一月で街の多くの人が、この帳面に載っていた。誰が、何を飲んでいるか。もう頭の中に街の“薬の地図”が、できかけている。どの家にどんな危ない重なりが、眠っているか。帳面をたどれば優先すべき家が、分かる。
俺たちはその日から、家々を回り始めた。
最初に訪ねたのは、相互帳で、いちばん危ない重なりが眠っていた家だった。年老いた夫婦と、その孫が暮らしていた。
「薬なら、たっぷりあるよ」
老婆が誇らしげに、木箱をいくつも運んできた。中には色とりどりの霊薬が、数えきれないほど。
「うちは、貧乏だけどね。薬だけは、切らさないようにしてるんだ。強い薬をたくさん飲めば、長生きできるって、塔の坊さまが言うからね」
俺はそれを、卓にずらりと並べた。そして、めまいがした。
この一箱の中だけで、危ない組み合わせが、五つも六つもある。老夫婦はそれを毎日少しずつ、飲んでいた。倒れなかったのが、奇跡だった。
「おばあさん。この中の、いくつかは……一緒に飲むと、危ないんです」
俺は一本ずつ、手に取って説明した。これは心臓に。これは腎の臓に。これとこれは、けんかしてめまいを起こす。
老婆の顔が、みるみる青ざめた。
「そんな……あたしゃ、良かれと思って、飲ませてたのに。孫にまで、飲ませてたよ。強くなれって……」
「大丈夫です。まだ、間に合う。今から、直しましょう」
俺は危ないものを抜いていった。残った安全なものだけを、朝・昼・晩の袋に分ける。老婆は俺の手元を、祈るように見つめていた。
やり方はどの家でも、同じだった。
「これと、これは一緒に飲まないで。心臓に、悪い」
「この付与の上に、この薬はだめです。しびれが出る」
危ないものを抜く。
残った安全なものだけを、朝・昼・晩の、三つの袋に分けていく。薄い紙の袋に一回分ずつ。前世で分包機がやっていたことを、この世界では、手で。指が、荒れた。紙で何度も、切った。
「これを、一包化っていいます」
俺は袋を渡しながら、説明した。
「飲む時間ごとに、その一回に飲むものだけを、一つの袋にまとめる。朝は、朝の袋。晩は、晩の袋。こうすれば、飲み間違えない。危ない重なりも、起きない。……袋の通りに、飲むだけでいい」
最初は、皆渋った。「せっかくの、強い薬をなんで抜くんだ」と。だが祭りの夜の恐怖が、まだ生々しかった。あの広場で、誰も死ななかったのは、この薬師のおかげだ。その噂が、街に広がっていた。
だから人々は渋りながらも、俺に薬を託した。
◇
三日目には、手伝いが増えていた。
ノルが母親と一緒に袋を運んでくれた。トーゴが離脱から立ち直り、家々を案内して回った。ガレンは夜警の合間に重い薬箱を運んだ。ミリまでもがこっそり顔を出し、「あたしもあの青いの、やめたわ」と袋詰めを手伝った。
いつのまにか、俺の周りには人の輪ができていた。
誰に頼んだわけでも、ない。祭りの夜に助けられた人が、次の家を手伝う。その家の人が、また次を。プラセボの水が、広場で手から手へ渡ったときと、同じだった。安心が、恩が人から人へ伝わっていく。これも――相互作用だ、と俺はまた思った。
前世では、考えられないことだった。うつむいて、隅に座っていた俺の周りに、こんなに人がいる。
昼になると、女たちが握り飯を差し入れてくれた。塩の効いた、素朴な味。作業の合間に、皆で車座になって食べた。俺の袋詰めの手つきを見て、子どもたちが、真似をして遊び始めた。朝の袋晩の袋、と口ずさみながら。
「あんた、変わったね」
セリカが握り飯を頬張りながら、言った。
「初めて会ったとき、あんた、声もろくに出せなかったのに。今じゃ街の真ん中で、人に囲まれて笑ってる」
「……そう、ですか」
俺は自分の頬に手を当てた。確かに笑っていた。無意識に。前世の俺なら、絶対にしなかった顔で。
「なあ、薬師さんよ」
ある年寄りが袋を受け取って、しわだらけの顔で、笑った。
「あんた来る前まで、うちの婆さんは毎晩薬を七つも八つも、飲んでたんだ。それがあんたのおかげで、三つになった。なのに前より、元気になった。……不思議なもんだなあ。引いたら、良くなるなんて」
「引いたら、良くなる。そういうこと、よくあるんです」
俺はそう言って、微笑んだ。
誰かが、俺の“引く”を、初めて当たり前みたいに受け入れてくれた。冒涜だと罵られた、あの日から。ずいぶん遠くまで、来た気がした。
◇
街の東の一角を、一包化し終えたころ。倒れる者は、ぱたりといなくなった。
人々は、俺を「引きの薬師」と呼ぶようになった。最初は蔑みだった、その呼び名がいつのまにか、敬いの響きを帯びていた。
俺の店には、行列ができた。「うちの薬も、確かめてほしい」「相互帳に、載せてほしい」。相互帳の頁は、みるみる増えていった。
これが俺のやりたかったことだ。
自分の店を持ってカウンターに立って、街の人の飲んでいるものを、確かめて危ない重なりを引く。倒れる前に。
夢が、叶いかけていた。
そんな、ある夜のことだった。
店じまいをしていると、扉が叩かれた。あの青い外套の、塔の錬成術師だった。
彼は一通の、封書を差し出した。金の縁取り。塔の、封蝋。
「錬成長オルダさまより、正式な招待状だ」
男の顔は前よりいくらか、こわばっていた。
「三日後、塔へ参れ。……“引きの薬師”とやらの顔を、直々に見たいそうだ。街の者をあれほど、こちらの薬から、遠ざけた男の顔をな」
俺はその封書を受け取った。指先が、冷たくなった。ずしりと、重い。紙の重さじゃない。その向こうにいる、何かの重さだった。
「言っておくが」
男は、去り際に低く言った。
「オルダさまは、この街を心から愛しておられる。誰も病で死なぬ街を、作ろうとしておられる。そのために日夜身を削って、薬を練っている。……お前のやっていることは、その尊い御業への、妨害だ。分をわきまえろ」
尊い、御業。
男は本気で、そう信じている顔だった。だからこそ、俺はぞっとした。悪意ではない。善意なのだ。この街を救おうとしている。ただその方法が――足すこと、だけなのだ。
男が去ったあと、セリカが封書をのぞき込んだ。
「……行くしか、ないのね」
「はい」
俺は封蝋を見つめた。塔の紋章。その中心に、渦を巻く模様。すべてを飲み込むような、渦。
なぜだろう。その渦を見ていると、遠い記憶がざわめいた。
どこかで、見た渦だ。ずっと昔――前世で。忙しい薬局の、レジの前で。何かを飲み込んでいく、大きな流れ。回転率、という名の。
――お前は、まだ足りない。
あの声がまた耳の奥で、聞こえた気がした。
三日後。俺はあの青白く光る塔の、てっぺんにいる。
そこで待っている“錬成長オルダ”が、何者なのか。
俺はまだ知らなかった。知らないまま、その渦の中心へ、歩いていこうとしていた。




