第十一章「偽りの勝利」
塔の中は、光で満ちていた。
らせん階段を上る。壁一面に無数の棚。そこに色とりどりの霊薬が、天井まで並んでいた。青、赤、緑、金。どれも市場のものより、深く濃い。強い光を放っている。空気そのものが、薬の匂いでむせ返るようだった。
案内役の錬成術師の、数歩後ろを俺とセリカは、歩いた。セリカは腰の鞄を、ずっと握りしめていた。
「相互帳は、置いてこいと言われたが」
俺は懐に忍ばせた帳面を、上着の上から、そっと押さえた。持ってきてしまった。手放せなかった。この帳面だけが俺のたった一つの、武器だから。
最上階の大きな扉が、開いた。
円い部屋だった。天井が、高い。中央に巨大な釜のようなものが据えられ、その中で七色の光が、渦を巻いていた。あの封蝋の渦と、同じ。すべてを飲み込むような、渦。
そしてその渦を背に、一人の男が立っていた。
「よく来た。“引きの薬師”」
豊かな、よく通る声だった。
歳の頃は、四十半ば。背が高く、痩せている。銀の混じった髪。上等な、白い錬成長の衣。そして――その目。
俺の全身が、ぞくりとした。
人を、値踏みする目だった。上から下まで、なめるように見て、値打ちを勘定する目。ガレンが言った通りだった。「お前は、まだ足りない」。そう言われている気が、確かにした。
「私がオルダだ。この塔で日々より強き霊薬を、練っている」
オルダは優雅に片手を広げた。窓から差す光が、彼の白い衣を、透かすように輝かせた。
「まずは、礼を言おう。祭りの夜街の者を、多く救ったそうだな。見事だ。素晴らしい腕だ。街の者は、君を“引きの薬師”と呼び、崇めているそうじゃないか」
崇めている。
その言葉が俺の胸にじわりと、広がった。
思えばここまで、来た。転生してきて、ハズレと笑われ、冒涜だと罵られた俺が。今では街の英雄だと、塔の主にそう言われている。自分の店を持ち、人に囲まれ崇められている。前世で夢にも見なかった場所に、俺は立っていた。
俺の、望みは――叶ったのだ。
なのになぜだろう。ちっとも、嬉しくなかった。むしろ渦の釜を見上げるほどに、胸の奥が、冷たくなっていく。この称賛はこの栄光は、何かの上に乗っている。倒れかけた危ういものの、上に。
「……ありがとう、ございます」
「だが」
オルダの声が、すっと冷たくなった。
「私が配った、青い霊薬を街から引きはがしているとも、聞いた。あれは私が何年もかけて練り上げた、最高傑作だ。あれを飲めば人はこれまでの何倍も、強くなる。病にも、負けなくなる。……なぜそれを人々から、遠ざける」
「あの薬は、他の薬と相性が悪いんです。重ねると――」
「重ねると、強くなる」
オルダが俺の言葉を遮った。指をぴしゃりと、鳴らすように。
「そうだろう? 強い薬を、さらに重ねれば、もっと強くなる。それがこの世界の、理だ。君はそれを、否定するのか」
俺は答えられなかった。
その、言葉の遮り方に。人の話を最後まで聞かず、途中で結論を被せる。あのレジの前の、薄い声を思い出した。だがまだそれが、誰なのか思い出せない。
オルダはゆっくりと渦の釜に歩み寄った。
「見たまえ。この、大錬成釜を。私はこの街のすべての霊薬をここで練っている。そして今、私は究極の霊薬を作ろうとしている。この世のあらゆる薬を、あらゆる付与をたった一つに重ね合わせた――万能の、霊薬をな」
渦がひときわ、強く光った。
「それが完成すれば、この街の者は、誰も病で死ななくなる。傷も老いも、克服できる。……私はこの街を救うのだ。足りない力を、すべて足しきることで」
その横顔は、どこか恍惚としていた。
だが俺の目は、その渦の釜の“中身”を視ていた。
背筋が、凍りついた。
あれは、駄目だ。あんなもの、混ぜてはいけない。あの釜の中では何十何百という薬と付与が、無理やり押し込められ、けんかし合っていた。青が赤を暴れさせ、緑が黄を打ち消し、金が全部を際限なく煮え立たせている。相互作用の、坩堝だ。前世で言えば――ありとあらゆる劇薬を、一つの試験管に、詰め込むようなもの。
あれが完成する日など、来ない。来るとしたらそれは完成ではなく、破裂だ。
「オルダさま。その釜は――」
「口を、慎め」
案内役の錬成術師が、鋭く俺を制した。
オルダは構わず、渦を見つめていた。
「あと、少しなのだ。あと、いくつかの薬を足せば。完璧になる。……そうすれば、もう誰も死なせずに済む。“あの日”のように手の中で冷たくなっていくのを、ただ見ていることも、なくなる」
あの日。手の中で、冷たくなっていく。
その言葉の底に、一瞬だけ深い暗い、悲しみが覗いた気がした。だがそれは、すぐに渦の光にかき消された。
救う。この街を。誰も、死なせない。
その言葉には、嘘がなかった。この男は、本気でそう信じている。だからこそ俺は背筋が、寒くなった。悪意で街を壊す男なら、まだ分かりやすい。だがこの男は――善意で、街を、毒に沈めようとしている。
「どうだ、リツ」
オルダが振り向いた。俺の名をいつのまにか、知っている。
「君の、その目。“混ざると危ない”を視抜く目。惜しい。実に惜しい。そんな才を、“引く”ことに使うとは。……こちらへ来ないか。私と共に、究極の霊薬を完成させよう。君の目があれば、より完璧に重ねられる」
オルダは手を差し出した。長い、白い指だった。
俺はその手を見つめた。
なぜだろう。この、招き方。この、断らせない口ぶり。この、値踏みする目。
どこかで、見た。
ずっと昔――いや。
思い出そうとして、頭の奥がずきりと痛んだ。霧が、かかっている。何か大事なことを、思い出しかけている。それなのに。
「返事は、急がなくていい」
オルダは手を引っ込め、薄く笑った。
「近いうちにまた会おう。……そのときには、君も分かるはずだ。引くことがいかに愚かで、罪深いことか。人を、見殺しにする行いか。私がそれを、教えてやろう」
塔を辞した。
らせん階段を、下りながら、俺はずっとめまいがしていた。あの釜。あの渦。あれが街の真上で、煮え立っている。もし、あれが破裂したら――街どころではない。この世界のどこまで被害が及ぶか、見当もつかない。
帰り道セリカが、青い顔で言った。
「あの男……何かが、おかしい。優しい言葉を並べてるのに、目がぜんぜん、笑ってなかった」
「……ええ」
「それにリツ。あんた塔にいる間、ずっと変だったよ。あの男を見るたびに、幽霊でも見たみたいな顔してた」
俺はうわの空で、うなずいた。
あの、値踏みする目。あの、口ぶり。人の話を途中で遮る、あの癖。頭の霧の向こう側で、何かが俺を呼んでいる。
――お前は、まだ足りない。回転率を下げるな。大げさなんだよ、お前は。
あの声と、オルダの声が。だんだん重なって、聞こえてきた。
まさか。
俺は足を止めた。
まさか。そんなはずが、ない。ここは、異世界だ。あの人が、いるわけがない。あの人は、前世の日本の――。
だが心臓は、正直だった。うるさいほど、鳴っていた。
塔を振り返る。青白い光の柱が、夕闇の中にそびえていた。あの渦の中心に、あの男がいる。
俺はこの街に来て初めて手にした栄光の、すぐ隣で。
思い出してはいけない何かを、思い出しかけていた。
その夜、俺は眠れなかった。相互帳を開いては、閉じた。青い印は、もう十を超えている。塔の釜はあと少しで、完成するという。完成すれば、破裂する。それまでに俺はあの渦を、止めなければならない。
だが、どうやって。付与も使えない、ただの薬師が。世界を救う? 冗談みたいな話だ。
窓の外で塔が青白く、脈打っていた。まるで巨大な、心臓のように。




