第十二章「配合変化」
「見せてやろう。私の、力を」
再び、塔の頂に呼ばれた。今度は、俺一人だった。セリカは門で、止められた。
「一人で行かせるなんて、嫌よ」
門の前でセリカは俺の腕を、掴んで離さなかった。
「あの男何を企んでるか、分からない。戻ってこなかったら、どうするの」
「戻ってきます」
俺は彼女の手に、そっと自分の手を重ねた。
「相互帳は、俺が持っていきます。これがなきゃ、あの渦は視られない。……でも、もし俺が戻らなかったら。ノルに写しの作り方を、教えてやってください。あの帳面の中身が、この街の備えです」
セリカは唇を噛んだ。だが俺の目を見て、しぶしぶ手を離した。
「……絶対、戻ってきなさいよ。約束」
俺はうなずいて、塔の門をくぐった。振り返るとセリカが胸の前で、拳を握って、こちらを見ていた。その姿が、門の陰に消えるまで。
オルダは上機嫌だった。長机の上に、二本の霊薬を並べる。片方は、赤。片方は透き通った、黄金色。
「この二本を、混ぜるとどうなると思う?」
俺はその二色を、見た瞬間血の気が引いた。
「――やめてください。それは混ぜたら」
「そう。濁る」
オルダは楽しげに、二本を一つの器に注いだ。
赤と、金が混ざる。その瞬間澄んでいた液が、どろりと濁った。もやもやと、黒い煙のようなものが、器の中で渦を巻く。つんとした鼻を刺す匂いが、立ちのぼった。俺は思わず袖で、口を覆った。目が、しみる。
器の底で何かがじゅうじゅうと、音を立てていた。二つの薬はもう赤でも、金でもなかった。混ざって、まったく別の、黒い得体の知れないものになっていた。触れれば肌が、ただれるだろう。飲めば内臓が、焼けるだろう。それが俺には、視えた。
「これを配合変化、と言うのだったな。君の言葉で」
オルダが俺を見た。
「二つ以上の薬を、混ぜたときに、性質が変わってしまうこと。濁ったり、固まったり。時にはまったく別の、毒に変わったり。……そうだろう?」
俺はぞっとした。この男は、俺の言葉を知っている。相互作用も、配合変化も。俺が街に広めた言葉を。
「君の教えは、興味深い。だから、勉強させてもらった。“混ぜると危ない”――結構だ。実に、結構」
オルダは濁った器を掲げた。
「だが、君はそこで止まる。危ないから、混ぜないと。臆病者の、発想だ。私は違う。混ぜて濁るなら――濁りごと、制御してみせる。この、大錬成釜で」
彼は濁った器を、渦の釜に放り込んだ。
釜がごうっと、唸りを上げた。七色の渦がいっそう激しく、回転する。塔全体が、地鳴りのように震えた。
「あと、七つだ」
オルダの目が渦の光を映して爛々と、輝いた。
「あと七つの薬を、この釜に加えれば。究極の霊薬が、完成する。この世のすべての病を、すべての傷を治す薬が。……そのとき、私はこの世界から、“死”を消し去るのだ」
「無理だ!」
俺は思わず叫んでいた。
「その釜の中身は、もう限界です! これ以上、何かを足したら完成なんかじゃない。破裂する! 街ごと、いやこの世界ごと――あなたが視てるのは、完成じゃない。暴走だ!」
俺の目には、はっきりと視えていた。釜の中で、押し込められた薬たちが、互いに悲鳴を上げている。もう耐えられない、と。これ以上何かを足せば、その一本が引き金になる。すべての相互作用が、一斉に連鎖する。まるで、積み上げすぎた薪に、最後の一本を乗せるように。あとは、火がつくのを待つだけ。
「あなたには、視えてないんだ。この釜が今どれだけ、危ういか。“強くなってる”んじゃない。“壊れかけてる”んです!」
オルダの、笑みが消えた。
「……足すことを恐れるのか。君は」
その声が、低く平坦になった。
「足りないのだ。まだ、足りない。だから破裂などと、弱気なことを言う。足りないから、失敗する。もっと、足せばいい。もっと、重ねればいい。それだけの話を、君は難しくしすぎる」
その、一言で。
俺の中の、霧が晴れた。
――それだけの話を、お前は難しくしすぎる。
寸分違わぬ、言葉だった。あの、閉店間際の薬局で。じりじり鳴る蛍光灯の下で。俺に確認を捨てさせようとした、あの人の。整髪料の匂い。釣り銭を数える、乾いた音。回転率、下げるな。大げさなんだよ、お前は。たまたま当たっただけだろう。
記憶が堰を切って、あふれ出した。
あの、値踏みする目。人の話を途中で遮る癖。足せば治る、という口癖。全部、繋がった。オルダの仕草の、一つ一つがあの人と重なっていく。
「……棚原、さん」
声が、勝手に漏れた。
オルダの、動きが止まった。渦の音だけが、部屋に響いていた。
「棚原さん、なんですか。あなたは。……薬局の、エリア長の。あの」
長い、沈黙。
やがて、オルダ――棚原はゆっくりと口の端を吊り上げた。
「……気づいたか。灰谷」
その、名前。前世の、俺の名前。
この男が口にした瞬間、疑いは確信に変わった。膝が、震えた。掌が汗で、ぬめる。この体は、若い異世界の体だ。それなのに前世の俺が、この男の前でいつもうつむいていた癖まで、よみがえってくる。
やっぱり。この男は。前世の、あの人だ。
「私も死んだのだよ。お前と、同じように」
棚原は渦を、背にして言った。
「お前が、あの薬局を去ったあと。私も過労で、倒れてな。気づけば、この世界にいた。……ただ、面白いものでな。この世界とあちらとでは、時の流れがまるで違う。あちらでのほんの数年が、こちらでは、何十年にもなる。だから私はお前より、ずっと早くこの世界で、歳を重ねた。塔の頂に昇りつめるだけの、時間があった。……そして、私は悟った。この世界には、“足せば足すほど強くなる”という、美しい理があると。前世で私が正しかったことを、この世界が、証明してくれたのだ」
棚原の声が、熱を帯びた。
「足りないから、人は死ぬ。薬が力が、足りないから。ならば、足せばいい。すべてを重ねればいい。私はこの世界で、それを極めた。塔の頂に昇りつめた。もうすぐ死そのものを消し去る。……前世の君のような、確かめてばかりの臆病者には、一生届かない場所だ」
俺は後ずさった。
この男が、世界を壊そうとしている。善意で。前世からの、信念で。そしてその真上に――俺が守りたい街が、ある。ノルがセリカが、みんなが。
「あと、七つ」
棚原は渦に向き直った。
「七日後、私は最後の薬を加える。そして世界は、完成する。……止められるものなら、止めてみろ。“引きの薬師”。君のそのけちな引き算で、なあ」
俺はその背中に、問いを投げた。声が、震えた。それでも聞かずには、いられなかった。
「棚原さん。あなたさっき、言いましたよね。“あの日のように手の中で冷たくなっていくのを、ただ見ていることも、なくなる”って。……あの日って、なんですか。あなたは、誰を失ったんですか」
棚原の肩がぴくりと、動いた。
だが、彼は振り返らなかった。
「……つまらんことを覚えているな。相変わらず、記録魔か」
声が少しだけ、掠れた。だがそれはすぐにいつもの、傲慢な調子に戻った。
「昔の話だ。君には、関係ない。さあ、帰れ。そして、その帳面に書いておくがいい。“世界が、完成した日”と。あと、七日後だ」
俺は塔を追い出された。
らせん階段を下りながら俺の頭の中で、いくつもの糸が、繋がっていった。
あの男は、前世で誰かを失っている。薬でも、救えなかった誰かを。“もっと薬があれば”と、悔いた誰かを。だから彼は狂ったように、力を足し続ける。もう二度と、手の中で、冷たくなるのを見たくないから。
――俺と、同じだ。
ぞっとした。棚原と、俺は。“目の前で誰かを死なせたくない”という、同じ思いから、正反対の答えにたどり着いていた。俺は引くことに。棚原は足すことに。
鏡の、裏と表みたいに。
同じ痛みから、生まれたはずなのに。俺たちはこんなにも、遠い場所に立っている。片方は、街を救おうとして。片方は、街を救おうとして。それなのに片方の答えが、街を殺そうとしている。
塔の窓の外。
街の空がいつのまにか、うっすらと、青く濁り始めていた。
あの危険な、青い薬の色に。
残された時間は、七日。




