第八章「離脱症状」
「あんたのせいだ! あんたが、やめろって言うから!」
朝、店を開けるなり、男が転がり込んできた。汗だくで、目が血走っている。手が、木の葉みたいに震えていた。棚にぶつかり並べた薬瓶が、いくつも床に転がった。
名をトーゴといった。数日前に店に来た客だ。長年痛み止めの霊薬を、毎日欠かさず飲んでいた。腰を痛めてから、もう十年になるという。俺はその量が多すぎると告げ、危ない重なりを説明した。彼は青ざめて帰っていった。
「怖くなってぜんぶやめたんだ! きっぱり! 昨日から、一滴も! なのに、これだよ!」
トーゴは震える手を突き出した。冷や汗。吐き気。眠れない。頭が、割れるように痛む。胃がひっくり返りそうだと、彼は言った。夜通し、一睡もできなかったと。
俺はさっと血の気が引いた。
――しまった。
「トーゴさん。ぜんぶ、一気にやめたんですか。昨日から、一滴も」
「ああ! あんたが、危ないって言うから!」
俺の、落ち度だった。
俺は彼に「減らせ」と言った。だが「どうやって減らすか」を、ちゃんと伝えていなかった。長く飲み続けた薬を、急にやめると体が驚く。それまで薬に頼っていた分、反動で逆の症状が、どっと出る。
「これは離脱症状っていいます」
俺は彼を椅子に座らせ、水を飲ませた。冷たい井戸水をゆっくりと。喉が鳴る。
「長く使っていた薬を、急にやめると、体がついていけなくなる。今まで薬が肩代わりしていた仕事を、体がいきなり、自分でやらなきゃいけなくなる。……その切り替えの反動が、この震えや痛みです。あなたの体は、薬を断たれて、パニックを起こしてる」
俺は卓の上の、砂時計を指した。
「たとえるなら、こうです。ずっと誰かに、背負ってもらって歩いてた人が、いきなり下ろされる。足は、歩き方を忘れてる。だから、立てない。転ぶ。……薬を急にやめるってのは、それと同じなんです。体が自分で歩く練習を、しないまま放り出された」
「じゃあ、俺はどうすりゃ」
「いきなりゼロにしちゃ、だめだったんです。背負ってた人に、少しずつ地面に足をつけさせる。今の半分。それに慣れたら、また半分。段々に、体を慣らしていく。……ごめんなさい。俺の説明が、足りなかった」
俺は頭を下げた。深く。
トーゴはしばらくぽかんと、俺を見ていた。頭を下げられるとは、思っていなかった、という顔だった。
引くことにも、作法がある。前世で何度も、口を酸っぱくして言われたことだ。急な中断は、時に飲み続けるより危ない。俺はそれを知っていたのに。“引け”とだけ言って、“どう引くか”を教えなかった。
俺はトーゴに、少量から始める飲み方を紙に書いた。今日は、いつもの半分。三日後にその半分。相互帳にも、細かく記した。
「この通りにゆっくり減らせば、症状は治まります。……俺が毎日、様子を見ます。だから一人で、抱えないでください」
トーゴは震える手で、その紙を受け取った。
「……あんた、間違いを認めるんだな」
彼はぽつりと言った。
「塔の連中は、絶対に認めない。“効かないのは、お前の信心が足りないからだ”って、いつもこっちのせいにする。……あんたは自分のせいだって、頭を下げた。変な薬師だ」
その日から、俺は一つ学んだ。
“引く”は、“足す”の反対じゃない。引くことにも足すことと同じだけ、慎重さがいる。加減を間違えれば、引くこともまた人を傷つける。
この街の人々は、足しすぎて倒れる。だが俺のやり方だって、雑にやれば、別の形で人を倒す。強く引きすぎれば、体は驚いて暴れる。“正しさ”を振りかざすだけじゃ、だめなんだ。相手の体が、今どこにいるのか。どれだけ、薬に頼っているのか。それを確かめてその人に合わせて、ほどく。
――足すことも、引くことも。大事なのは、その加減なんだ。
棚原さんは、いつも「足せば治る」と言った。単純で、分かりやすい。だが体は、そんなに単純じゃない。一人ひとり、違う。同じ薬でも、効く人と効かない人がいる。だから、確かめる。だから、記録する。だからその人だけの、加減を探す。
地味で、面倒で誰も褒めてくれない仕事。それでも、俺はこれをやめられない。
◇
その夜セリカが、酒を持って店に来た。
珍しく二人とも、疲れていた。カウンターに並んで座り、素焼きの椀で、薄い果実酒を飲む。甘くて少しだけ、苦かった。
「今日の離脱の件、聞いたよ」
セリカが椀を回しながら言った。
「あんた、患者に頭下げたんだって? 街じゅうで、噂になってる。“薬師のくせに、間違えた”ってね」
「……面目ない」
「馬鹿ね」
彼女はふっと笑った。だがその笑みは、すぐに消えた。しばらく、椀の中の酒を見つめていた。
「あたしね。……治療師になったのは、妹を死なせたからなの」
俺は黙って、続きを待った。
「小さい頃、妹が熱を出した。うちは貧しくて、いい霊薬が買えなかった。だからあたしは、安い薬をたくさん買って、ぜんぶ飲ませた。たくさん飲ませれば、その分効くと思って。……重ねれば、助かると信じて」
彼女の指が、椀の縁をなぞる。
「妹は次の朝、冷たくなってた。あたしが、殺したの。よかれと思って。……あんたの言う、相互作用ってやつだったんだと、今なら分かる」
彼女は酒を、一口あおった。喉が、こくりと動く。
「あの朝のこと、今でも覚えてる。妹の手が、冷たくてね。でも頬にはまだあたしが塗った薬が、少し残ってた。良い匂いのする、高い霊薬。無理して買った、いちばん強いやつ。……それがあの子を、殺した薬だなんて、思いもしなかった」
窓の外で、風が鳴った。ランプの炎が、小さく揺れる。
「それから、あたしは治療師になった。二度と目の前で誰も死なせないって、決めて。何百人も、診てきた。夜も寝ずに勉強した。付与も、いっぱい覚えた。……でも結局何人も、死なせた。理由も、分からないまま。助かる人と助からない人がいて、その違いがどうしても、分からなかった」
セリカの声が、掠れた。
「あんたが来て、初めて分かったの。あたしが重ねた薬が、けんかしてたって。あたしの“よかれ”が、人を殺してたって。……それを知って、あたし、あんたを恨みそうになった。知らないままなら、楽だったのにって。でも」
彼女は俺を見た。目が少し、潤んでいた。だが涙は、こぼれなかった。
「でもあんたのおかげで、これから死ぬはずだった人が、助かってる。だからあたしは、あんたに感謝してる。……ほんとよ」
俺は何も言えなかった。ただ、彼女の椀にそっと酒を足した。
いや――足したあとで、少しだけ減らした。
セリカがそれを見て、噴き出した。
「なにそれ。あんた酒まで、加減するの」
「……癖です」
二人で、少し笑った。
だが笑いが引くと、俺の胸にはあの青い印が、重く残っていた。
その夜寝る前に、俺は相互帳を開いた。青い印は、もう七つに増えていた。街の、あちこちに。ランプの灯りの下で、七つの名前が、静かに並んでいる。
これが九つに、十に増えていったら。いつかこの印が、街の全員の頁を埋め尽くしたら。
俺はぞっとして、帳面を閉じた。
――と、遠くで鐘が鳴った。
治療所の、緊急の鐘だった。一つ、二つ、三つ。立て続けに。こんな夜更けに。
その音は、一つではなかった。街の東からも、西からも。いくつもの鐘が、闇の中で重なり合って鳴っていた。
俺とセリカは、顔を見合わせた。彼女の顔から、酒の赤みが一瞬で引いていた。
「……こんなの、聞いたことない」
セリカが立ち上がった。椅子が、床を鳴らす。
街の、どこかで。いや、あちこちで。何人もが、同時に倒れている。




