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異世界おくすり手帳 ―― 重ねがけ禁忌の薬剤師  作者: もしものべりすと


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第七章「耐性」

「効かなくなったの。前は、あんなに効いたのに」


 その女は俺のカウンターに、両手をついて、身を乗り出した。名をミリという。街で器量よしと評判の、若い娘だった。だがその顔には、隠しきれない疲れが滲んでいた。


「肌を、つやつやにする付与。前は一回かければ、十日はもった。それが五日になって、三日になって、今は一日で戻っちゃう。だから一日に、二回も三回もかけてる。なのに効かない。もっと強い付与を、教えてほしいの」


「――待ってください。それ以上強くしても、無駄です」


「無駄?」


「あなたの体が、その付与に、慣れてしまってるんです。耐性、っていいます」


 俺はまたこの世界にない言葉をそっと置いた。


「同じ薬や付与を、繰り返し使ってると、体がそれに慣れる。慣れると同じ量では、効かなくなる。だから、量を増やす。増やすと、体はもっと慣れる。もっと効かなくなる。……この繰り返しを、耐性がつくと言います。あなたは今そのぐるぐる回りの、真ん中にいる」


 俺は卓の上に、ランプを引き寄せた。


「たとえば、この灯り。夜中に真っ暗な部屋で見たら、まぶしいでしょう。でもずっと見てると、目が慣れて暗く感じる。だから、もっと明るくする。すると、また慣れる。……最後には、目が焼けてしまう。付与も、同じです。あなたの体はまぶしさに慣れきって、もう少しの光じゃ、満足できなくなってる」


 ミリの顔から、血の気が引いた。


「じゃあ……どうすれば」


「いったん、やめることです。しばらく、付与を完全に断つ。体が、慣れをリセットするのを待つ。何日か、肌は荒れるかもしれない。でもそれを越えれば、また少しの付与で、効くようになる」


「やめる……? そんな。この顔で、外を歩けなんて」


 ミリは俺の言葉を、拒むように首を振った。


「みんな、重ねてる。重ねるほど、きれいになる。あたしだけ、やめたら負けちゃう。……もっと、強いのが欲しいの。塔から出てる、あの青い薬みたいに」


 青い薬。


 俺の耳が、その言葉を鋭く拾った。


「その、青い薬。どこで、手に入れたんですか」


「知り合いから、少しだけ。すごいのよ。あれを付与に重ねると、効きが何倍にもなるって。だからみんな、欲しがってる。……ねえあんたも、あれを仕入れなさいよ。そのほうが、儲かるわ」


 俺は答えなかった。


 彼女の腕にはうっすらとあの青い光が、宿っていた。飲んで、付与に重ねている。その青が彼女の耐性を、さらに加速させているのが、俺の目には視えた。効かなくなる。だから足す。足すから、もっと効かなくなる。青い薬はその悪循環を、燃料のようにあおっている。


 これが街じゅうに広まったら。


 俺はぞっとした。みんなが耐性の渦に呑まれる。効かない効かない、と際限なく薬を重ねていく。そして、いつか――倒れる。ノルのように。だがノルのような子が、街に何千人と。


「ミリさん。その青い薬だけは、やめてください。お願いです」


 俺は頭を下げた。


 だが彼女は、鼻で笑って店を出ていった。「変な薬師」と、吐き捨てて。扉が、乱暴に閉まる。


 俺はその背を止められなかった。


 カウンターに、両手をついてうつむく。


 助けられなかった。また、一人。俺の言葉はあの人には、届かなかった。相互帳にいくら危ない重なりを書いても、本人が信じなければ、意味がない。この街の重ねがけの理は、あまりに深く人々の骨の髄まで、染み込んでいる。強いことは、正しいこと。弱めることは、罪。その信仰の前で、俺の“確かめる”は、なんて無力なんだろう。


 前世であの患者をベッドに縛ったときと、同じだ。分かっていたのに間に合わなかった。声が、届かなかった。


 俺は拳を握った。


 ――でも。


 ノルは助かった。ガレンも商人も。信じてくれた人は、助かった。全員は、無理でも。一人ずつなら、確かめて引ける。俺にできるのは、それだけだ。それでも、やる。うつむいて後悔するのは、もう嫌なんだ。


 顔を上げる。


 ――とその扉が、また開いた。


 入ってきたのは、見慣れない男だった。上等な、青い外套。胸に塔の紋章。歩き方に隙がない。ひと目で、位の高い者だと分かった。


「ここが、噂の薬房か」


 男は、店をぐるりと見回した。安い薬しか置いていない棚を見て、片眉を上げる。それから、カウンターの相互帳に目を留めた。


「面白いものを書いているな。飲んだものを一冊に。……“重なると危ない”を、見抜くとか」


「あなたは」


「塔の、錬成術師だ。錬成長さまに、お仕えしている」


 男は、薄く笑った。


「錬成長オルダさま、と申し上げれば、この街で知らぬ者はいない。塔の頂に座し、日々、より強き霊薬を練り続けるお方だ。……そのオルダさまが、お前に興味を持たれた」


 オルダ。


 その名を俺は初めて、はっきりと聞いた。


 なぜだろう。その響きに俺の背筋が、ぞくりとした。知らない名前のはずなのに。会ったこともないはずなのに。喉の奥が、乾いていく。


「お前は、薬を“引く”らしいな」


 男の声が、冷たくなった。


「重ねがけの理に逆らって。力を弱める。人々にそう教えている。……オルダさまは、それを、たいそう面白がっておられた。“久しぶりに、逆を行く者が現れた”と。同時に、こうも仰った」


 男は、一歩前に出た。カウンター越しに、俺を見下ろす。


「“その者に伝えろ。お前のやっていることは、見殺しだと”」


 見殺し。


 その言葉が、また俺の胸に突き刺さった。


「重ねがけの理は、この街の命綱だ」


 男は、諭すように言った。だがその目は、笑っていなかった。


「強い力があれば、誰も死なずに済む。オルダさまは、そのために日夜身を削っておられる。なのにお前は、その力を弱めて回っている。人々から、命綱を取り上げている。……それがどういうことか、分かるか」


 俺は答えなかった。答えれば、声が震える気がした。


「近いうちに、塔へ招く。オルダさま直々の、お目通りだ。光栄に思うがいい。……逃げるなよ」


 男はそう言い残して、去っていった。青い外套が、扉の向こうに消える。


 入れ替わりに、セリカが、血相を変えて飛び込んできた。今の男と、通りですれ違ったらしい。


「今の、塔の錬成術師じゃない。何しに来たの」


「……オルダっていう、錬成長に招かれました。近いうちに、塔へ」


 セリカの顔が、こわばった。


「塔に? 一人で? だめよ、そんなの。塔に招かれて、戻ってこなかった人を、あたしは何人も知ってる」


「でも断れる相手じゃ、ないみたいで」


 俺は開いたままの相互帳を彼女に見せた。青い印の頁。そこに、今日ミリの名を、四つ目として書き足したところだった。


「セリカさん。この青い薬思ったより、広まってます。ミリさんも、飲んでた。しかも、“みんな欲しがってる”って。塔が少しずつ、街に流してるんだ。……これが行き渡ったら、街じゅうが、耐性の渦に呑まれる。効かない効かないと際限なく重ねて、そして――」


「倒れる」


 セリカが俺の言葉を引き取った。声が、震えていた。


「あの子と、同じように」


 二人の間に沈黙が落ちた。窓の外で、塔が青白く光っている。夜が、来ようとしていた。


「リツ」


 セリカが俺の袖をつかんだ。


「塔に行くなら、あたしも行く。一人で行かせない。あんたのその目は、この街のたった一つの、備えなんだから。……失うわけには、いかないの」


 その手の力の強さに、俺は少しだけ、泣きそうになった。


 前世でも、この世界でも。誰かにこんなふうに、必要とされたのは、初めてだった。


「……ありがとうございます」


 俺は青い印の頁をそっと閉じた。


 オルダ。会ったこともない名前。なのに心臓が、うるさく鳴っている。


 まるでずっと昔から、その名前を、恐れていたみたいに。

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