第五章「おくすり手帳」
俺の店は、三日でできた。
セリカの診療所の、通りをはさんだ向かい。空き家だった小さな建物を、彼女が大家に掛け合ってくれた。俺は棚を磨き、床を掃き看板を書いた。付与も使えない俺にできるのは、そういう、地味な手仕事だけだった。
「“薬房”ねえ。地味な看板」
セリカが腕を組んで、俺の書いた文字を眺めた。
「派手なほうが、客が来るんじゃないの。“最強霊薬・重ねがけ十割増し”とかさ」
「それはやりません」
俺はきっぱり言った。自分でも少し驚くくらい、迷いがなかった。
初日棚を組み立てるのに、俺は一日を費やした。前世なら板一枚くらい、片手で運べたはずだ。それがこの若い体では、両手で抱えてもよろけた。釘を打てば、指を打つ。木の匂いと汗の匂いが、狭い店に満ちた。
夕方には、腕が上がらなくなった。だが不思議と、嫌じゃなかった。
自分の店を、自分の手で作っている。前世では、考えたこともなかったことだ。俺はいつも誰かの店で、誰かの棚を、うつむいて磨いていた。
棚には、この街で一番安い薬ばかりを並べた。薄め水。ただの水。痛み止め一種類。熱冷まし一種類。派手な霊薬は、一本も置かない。すべて単体で、安全に使えるものだけ。
代わりに、俺はカウンターの上に、一冊の分厚い帳面を広げた。真っ白な、綴じたばかりの紙の束。紙は、この世界では高価だった。セリカが開店祝いだと言って、こっそり工面してくれたものだ。
「なにそれ」
「相互帳です」
俺は最初の頁に線を引いた。名前。飲んでいるもの。飲んだ日。効き目。危ない重なり。
「ここに来た人の、飲んでるものを全部書きます。霊薬も、付与も。いつ、どれだけ。それを一冊に並べておけば――次に来たとき、危ない組み合わせを、飲む前に見つけられる」
セリカがぽかんとした。
「……いちいち、書くの? 客一人ずつ?」
「はい」
「面倒くさっ」
彼女は心底あきれた顔をした。だが、それ以上は言わなかった。
開店の日。
最初の客は、ノルだった。母親に手を引かれて、恥ずかしそうに俺を見上げた。手には道端で摘んだらしい、しおれかけた花。
「おにいちゃん、あの……ありがとう」
ぼそぼそと言って、花を差し出す。俺はそれを受け取った。しおれた花が、掌の中でやけに軽かった。
「この子あれから、霊薬を飲むのをやめたんです」
母親が、頭を下げた。
「怖くなったって。でもたまに熱を出すから……先生、この子に何を飲ませたらいいか、教えてくれませんか。何を、飲ませちゃいけないか」
俺は相互帳の二頁目にノルの名を書いた。
これまで飲んだもの。青、赤、黄。避けるべき重なり。熱が出たときに安全に使える薬。一つずつ母親に説明しながら、書き込んでいく。母親は俺の書く文字を、食い入るように見ていた。
「これ……この帳面を見れば、いいんですね」
「はい。この子が大きくなるまで、ずっと。飲んだものを、ここに足していけば、いつでも確かめられる」
母親はその頁を、宝物みたいに見つめた。
その日から、ぽつりぽつりと客が来るようになった。
最初は、変わり者の店を、冷やかしに来る者ばかりだった。「薄め水しか置いてない、ハズレの店」。市場では、そう笑われているらしい。冒涜の店だ、と後ろ指をさす者もいた。
だが来た客の一人が、常連の付与術師だった。腕に、いくつもの付与を重ねている。俺はその光をひと目見て、思わず言った。
「その左腕の、青い付与と右の赤いの。二つ一緒にかけたまま、赤い霊薬を飲むと、しびれが出ませんか」
男が、ぎょっとした。
「……なんで、それを。ここ最近、手がしびれて。医者にも分からんと言われて」
「その組み合わせが、原因です。片方の付与を、いったん解いてください。しびれは、引きます」
男は半信半疑で、青い付与を解いた。三日後、彼は青ざめた顔で戻ってきた。
「しびれが、消えた。……あんた、いったい何を視てるんだ」
次に来たのは、太った商人だった。
「近ごろ、めまいがひどくてな。強い霊薬を、五本も六本も重ねてるのに、いっこうによくならん。もっと強いのはないか」
「――やめてください。それ以上、足すのは」
俺は彼の飲んでいるものを、一つずつ聞き取り、帳面に書いた。六本のうち、二本が互いを打ち消し合っていた。効いていないから彼は不安になって、また足す。足すから、めまいが増す。
「効かないんじゃない。二本が、けんかしてるんです。片方が、もう片方を消してる。だからいくら足しても、効かない。……この二本を、一本に減らしてください。そうすれば残った一本が、ちゃんと効く」
商人は、鼻で笑った。
「減らして、効くわけがなかろう。素人が」
だが、三日後。彼は菓子折りを抱えて、戻ってきた。
「めまいが、止まった。……減らしたら、よくなった。こんなこと、あるのか。強くするどころか、弱くして治るなんて」
「よくあることです。この街では、まだ知られていないだけで」
それが口伝てに広がった。
あの薬房の若造は、原因の分からない不調を言い当てる。飲んでいるものを、一冊に書いて、危ない重なりを見つける。派手じゃない。地味だ。だが――当たる。しかもたいてい、薬を“減らす”ことで治す。強くするんじゃなく、引くことで。
俺は来る客を、一人ずつ相互帳に書き加えていった。
この街の人々が、何を飲み何を重ねているか。少しずつ一冊の帳面に、街の姿が、浮かび上がっていく。
「あんた、本当に毎回書くのね」
ある夜店じまいのあと、セリカが、俺の帳面をのぞき込んだ。もう、あきれた顔ではなかった。
「これ、全部頭に入れてるわけ?」
「入れてないから、書くんです」
俺はペンを置いて、指をさすった。一日書き続けた指が、じんじんしていた。
「俺は頭がいいわけじゃない。忘れるんです。だから、書く。書いておけば俺が忘れても、帳面が覚えててくれる。……この帳面は、俺の記憶の外側なんです」
セリカはしばらくその頁を見ていた。
やがて、ぽつりと言った。
「あたしのあの子も。……この帳面があったら、助かってたのかな」
俺は答えなかった。答えられなかった。
代わりに、帳面のまだ白い頁をそっとなでた。
その夜、俺は一日分の記録を見返していた。もう、街の三十人ぶんの記録が、この帳面に並んでいる。誰が、何を飲んでいるか。
そしてふと――手が、止まった。
ある頁と、別の頁。離れた三人の記録に、同じ組み合わせが隠れていた。青みがかった、珍しい霊薬。三人とも、最近それを飲み始めている。一人ずつなら、問題ない量だ。
だがなぜこの三人が、同時期に同じ珍しい薬を?
三人は住む場所も、歳も暮らしもまったく違った。接点なんて、なさそうだった。それなのに、三人ともこの一月の間に、同じ青みがかった霊薬を飲み始めている。
しかもその薬は、俺の知らない色をしていた。この街のどの露店にも、置いていない色。淡く深く、吸い込まれそうな青。ひと目見て、俺の目がはっきりと告げていた。これは――ほかの霊薬と、相性が悪い。何かと重なれば、静かに体を蝕んでいく類のものだ。
嫌な予感が、背筋を這った。俺はランプの灯を少し近づけた。頁の上で三人の名前が、細い炎に揺れている。
一本ずつなら、害はない。だがこの街には、重ねがけの理がある。誰もが、薬を重ねる。もしこの青い霊薬が、街じゅうに広まったら。みんながそれを別の薬と重ねたら。
――何が、起きる。
俺はその三人の頁に小さく印をつけた。ペン先が、紙をかすかに引っかいた。
窓の外暗がりの向こうで、大錬成塔だけが、青白い光を放っていた。
――どこから、来た薬だ。これは。




