第四章「相互作用」
「もう一回、言って。ゆっくり」
セリカの診療所は、市場から少し外れた路地にあった。棚には、色とりどりの霊薬。壁には、患者の名を書いた木札が、びっしりと下がっている。奥のベッドで、ノルが眠っていた。母親が付き添い、時々子の額に触れている。
俺は机の上に、三本の空き瓶を並べた。青、赤、黄。
「この三つは一本ずつなら、ただの薬です。青は痛み止め。赤は元気の薬。黄は熱冷まし。どれも、悪いものじゃない」
「知ってる。うちでも出す」
「でも、三つ一緒に飲むと――こうなる」
俺は青と赤の瓶をそっと隣に置いた。
「青は、赤の力を体に長く残す働きがある。すると赤が、効きすぎる。心臓を動かしすぎる。そこに黄が入ると、体温が上がってさらに加速する。一本ずつなら薬なのに、三本重ねると毒になる」
セリカが瓶を見つめたまま、動かなくなった。
「これを、相互作用って言うんです」
俺は前世で何百回も口にした説明を、この世界の言葉に置き換えた。
「二つ以上の薬を、一緒に使ったときに、薬同士が影響し合うこと。片方が、相手を効かせすぎたり。逆に打ち消したり。単体では何ともないのに、混ざった瞬間、思いもよらない害を生む。……だから大事なのは、一本一本の強さじゃない。何と、何を一緒にしているか。その“組み合わせ”なんです」
「組み合わせ……」
「その人が、今体の中に何を入れているか。全部を並べて危ない重なりを見つけて、止める。それが――俺の、仕事でした」
言ってから、俺は少し驚いた。“でした”と過去形で言ったつもりが、口が勝手に、“です”と言い直していた。
セリカはしばらく黙っていた。
それから震える指で、壁の木札を指した。何十枚もの、患者の名前。
「……あたし、分からなかったの。ずっと」
声が、掠れていた。
「同じ症状の患者に、同じ薬を同じだけ出す。なのに助かる人と、助からない人がいた。あたしの腕が、足りないんだと思ってた。もっと強い付与を覚えれば、もっといい霊薬を使えれば、助けられるって。だから、重ねた。重ねて重ねて――それでも、死んでいく人がいた」
彼女は一枚の木札をそっと外した。古い、色のあせた札だった。
「この子は、去年。熱があって、うちに来た。あたしはいい薬を三本、重ねて飲ませた。よかれと思って。……次の朝、冷たくなってた」
俺はその札の名前をじっと見た。それから、静かに聞いた。
「その三本、何でしたか」
セリカが答える。俺は頭の中で、その組み合わせを並べた。
――ああ。
それは今日のノルと、同じだった。効きすぎる組み合わせ。この子は、病気で死んだんじゃない。よかれと重ねられた、薬に。
俺はそれを、口には出さなかった。出せなかった。彼女の顔が、それを聞くには、あまりに張り詰めていたから。
だがセリカは、俺の沈黙で、すべてを察したようだった。
彼女の目に、みるみる水の膜が張った。だがこぼれる前に、袖で乱暴に拭った。
「……そう。あたしが、殺したのね。よかれと思って。重ねれば助かるって、信じて」
「違う」
俺は思わず強く言っていた。
「あなたが殺したんじゃない。誰も、教えてくれなかっただけだ。この街の誰も、“混ぜると危ない”ってことを知らなかった。名前もなかった。名前がなければ、疑うこともできない。……あなたは、その中で精一杯やった。それだけです」
セリカは俺を見つめた。長い、長い沈黙だった。
窓の外で、荷馬車の車輪が、石畳を鳴らして通り過ぎた。奥のベッドで、ノルが寝返りを打つ。母親が、小さく子守唄を口ずさんでいる。
やがてセリカが、ぽつりと言った。
「あんた、名前は」
「灰谷……いや。律です。リツ」
「リツ。あんた、ここに残りなさい」
彼女は机に両手をついて、身を乗り出した。目にもう涙はなかった。代わりに必死な光があった。
「あんたのその目。“混ざると危ない”が視える目。あたしには、ない。この街の誰にも、ない。あんたにしか、視えないものがある。それを遊ばせておくなんて、もったいなさすぎる。――ここで、店を持ちなさい」
「店……?」
「そう。薬を売る店。ただし、足す店じゃない。危ない組み合わせを止める店。あたしが場所を用意する。あんたは、視る。それで、救える命がある。今日のノルみたいな子を、次からは、倒れる前に助けられる」
店を持つ。
その言葉が、俺の胸にじんわりと広がった。
前世で、俺はずっと誰かに雇われて、うつむいて働いていた。自分の店なんて、考えたこともなかった。棚原さんの下で、回転率に追われて、震える手で受話器を握って。
でもここでなら――俺の“引く”が、役に立つ場所を、作れるかもしれない。
自分の薬棚を持って、カウンターに立つ。訪ねてくる人の、飲んでいるものを、全部確かめて危ない重なりを止める。そういう場所を。
俺はゆっくりとうなずいた。
「……やります。俺に、できることなら」
「決まりね」
セリカが初めて、笑った。ぶっきらぼうだが、あたたかい笑い方だった。
彼女は奥から、素焼きのカップを二つ持ってきた。中で、薄い緑の茶が湯気を立てている。片方を俺の前に置く。指が触れると、あたたかかった。
「飲みな。血の気が引いてる顔してる」
俺は礼を言って、口をつけた。苦くて、少し甘い。前世のどの茶とも違う味だった。それでも体の芯が、ほどけていく気がした。
眠るノルの寝顔を見ながら、俺はふと気になって、母親に尋ねた。
「この子、いつも霊薬を飲んでますか。今日みたいに」
「ええ……近ごろ、外で友達と競うみたいで。多く飲めるほど、強いって。うちの子は、負けず嫌いだから」
母親の声が、また細くなる。
「わたし、止めるべきだったのに。でもみんなそうしてるし、塔もそう教えるから……何が危ないのか、分からなくて」
「分からなくて、当然です。誰も教えてくれないんだから」
俺は頭の中に、ノルの飲んだ三本を書き留めた。青、赤、黄。いつ、どれだけ。もしこの子が次に、別の薬を足したら、何と何が重なって危ないか。
――全部、書いておければ。
ふと、そう思った。この子が飲んだもの。次に飲むもの。それを一冊に並べておけば、危ない重なりを、飲む前に見つけられる。前世の、あの手帳のように。
夜のアスファルトに散った、五年ぶんの記録。あれをもう一度、この世界で。
「なに、その顔」
セリカが俺をのぞき込んだ。
「なんか、思いついた顔してる」
「……いえ。まだ、これからです」
俺はカップを両手で包んだ。あたたかさが、指から胸へ伝わってくる。
だが次の瞬間、その笑みが少しだけ曇った。彼女は窓の外――市場のほうをちらりと見た。まだ冒涜だと囁く声が、風に乗って届いてくる。
「言っておくけど」
彼女は俺に向き直った。
「あんたのやり方、この街じゃ歓迎されない。“引く”ってことは、力を捨てるってこと。この街の人間にとっちゃ、それは弱さだ。臆病だ。……いえ、もっと悪い。“見殺し”って、呼ばれるよ」
見殺し。
その言葉が、俺の胸に冷たく刺さった。
「引いて、死なせた。強い薬をやらずに見殺しにした。――そう言われる日が、きっと来る。それでも、あんたやれる?」
俺はすぐには答えられなかった。
“見殺し”。前世でも、俺は同じことを恐れていた。声を上げれば、大げさだと言われる。黙っていれば、誰かが倒れる。どっちに転んでも、俺は責められる気がしていた。
でも、と思う。
今日、俺は声を上げた。震えながら、大声で。そして、ノルは生きている。奥のベッドで、寝息を立てている。それは俺が黙っていたら、なかったことだ。
「……やります」
俺はようやく言った。声は、小さかった。だが震えては、いなかった。
「見殺しって呼ばれても。俺は確かめる側でいたい。もううつむいて、後悔するのは――嫌なんです」
セリカは少しの間、俺を見つめた。それから、ふっと鼻で笑った。馬鹿にする笑いじゃない。どこか、嬉しそうな笑いだった。
「変なやつ」
窓の外で大錬成塔が、夕日を受けて赤く光っていた。まるでこちらを、じっと見下ろしているように。




