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異世界おくすり手帳 ―― 重ねがけ禁忌の薬剤師  作者: もしものべりすと


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第三章「重ねがけの理」

気づいたら、俺は走り出していた。


 人垣をかき分ける。誰かの肩を押しのけ、倒れた少年の前に膝をついた。近くで見ると、症状はもっとはっきりしていた。呼吸が浅い。脈が、速すぎる。三本の空き瓶が、地面に転がっている。青、赤、黄。俺の目には、その三色が、体の中で暴れている様子まで視えた。


 青が、赤の効き目を跳ね上げている。黄が、それをさらに加速させる。前世で言えば、心臓を無理やり動かし続ける組み合わせだ。このままなら、じきに止まる。


 止め方は、分かる。


 だが、俺の手には何もない。付与も使えない。魔法の一つも唱えられない。


「治療師が来るまで、退いてろ! 素人が!」


 大人の一人が、俺の肩をつかんだ。


「もっと霊薬を飲ませりゃいい。強い薬をかぶせりゃ、勝てるんだ。それが理だろうが!」


 重ねがけの、理。


 この世界の、当たり前。強い力を上から上から、かぶせていく。足りなければ足す。それが正しさだと信じられている。


 だがそれが今、この子を殺そうとしている。


 俺は露店の棚を見回した。ずらりと並ぶ、光る霊薬。その一番端。埃をかぶった、透明な瓶。値札には、この市場で一番安い数字。


 ――薄め水。


 力を弱める水。誰も買わない、笑いものの品。強くしたい人間ばかりのこの街で、「弱める」ものなんか、誰が欲しがる。


 俺はそれをつかんだ。


「おい、金は」


「あとで払う!」


 初めて、大きな声が出た。自分でも驚いた。


 少年の口を開かせ、薄め水を少しずつ流し込む。多すぎてもいけない。急に薄めれば、それはそれで体が驚く。前世で学んだ引き算にも作法がある、というやつだ。


 一滴。二滴。三滴。


 少年の喉が、こくと動いた。


 俺は体の中で暴れる力の勢いを、頭の中で数えていた。青が跳ね上げていた赤の力。その角が少しずつ、丸くなっていく。焦って一気に注げば、今度は力が急に落ちて、心臓が止まる。前世の点滴と同じだ。速さを、間違えてはいけない。


 もう一滴。


 少年の胸が、大きく上下した。


 紫だった唇に赤みが戻る。指の痙攣が止まる。全身に入っていた、弓のような緊張が、ふっとほどけた。やがて少年は、けほと咳をした。


 少年の呼吸が、深くなった。


 紫だった唇に赤みが戻る。痙攣が止まる。やがて少年は、けほと咳をした。


 市場が、静まり返った。


「……ノル?」


 母親が恐る恐る、子の頬に手を当てる。少年が、うっすらと目を開けた。


「かあ、ちゃん……?」


 わっと、母親が泣き崩れた。少年を抱きしめる。周りから、ため息のような声が漏れた。助かった。あの子が、助かった。


 俺は薄め水の瓶を握ったまま、その場に座り込んだ。掌が、汗でぬめっていた。心臓が、うるさい。声を上げた。人前で。しかも、大声で。前世では、一度もできなかったことだ。


 だが――空気が、変だった。


 助かったはずなのに、俺を見る目に、称賛だけがあるわけではなかった。むしろ、戸惑い。いや、それより冷たいもの。


「今の兄さん……薄め水を、飲ませたのか」


 露店の男が、青ざめていた。


「力を弱める水を。霊薬の効き目を殺す水を。人に、飲ませた……?」


「それしか、なかったんだ。あのままじゃ――」


「あんた、正気か!」


 別の男が、声を荒げた。


「霊薬ってのは神さまが人にくれた力だぞ! それを弱めるなんて、冒涜だ! 錬成塔の教えを、なんだと思ってる!」


 俺はそこで初めて知った。この街の人々にとって、「弱める」ことは、ただの技術ではなかった。罪だった。


 塔の教えでは、力とは足していくものらしい。多ければ多いほど尊い。強ければ強いほど、正しい。だから薄め水は、市場の隅で埃をかぶっている。買えば、変な目で見られる。「あいつは力から逃げる弱虫だ」と。


「強い力を、弱めるだと? そんなの、命を粗末にするのと同じじゃないか!」


 ざわめきが、広がっていく。あの若造、ハズレのくせに。神の力を殺した。縁起でもない。


 誰か一人でもこう言ってくれたら、と思った。「でも、あの子は助かったじゃないか」と。


 だが、誰も言わなかった。母親でさえ俺に礼を言いかけて、周りの目を気にして、口ごもった。抱いた子の頭を隠すようにして、後ずさった。


 俺は地面の空き瓶を見つめた。三本のうち、どれか一本を飲まなければ、この子は倒れなかった。それを言っても、この人たちには届かない。強い力は正しい。その信仰の前では、俺の“引く”は、ただの臆病に見えるのだ。


 前世と、同じだった。「大げさ」「念のため」「回転率を下げるな」。棚原さんの声が、遠い世界から、ここまで追いかけてくる気がした。


 俺はまたうつむきかけた。


 やっぱり、そうだ。声を上げれば、こうなる。前世でも、この世界でも。俺の“引く”は、誰にも歓迎されない。


 そのときだった。


「――ちょっと、いいかしら」


 凛とした声が、人垣を割った。


 背の高い女が、こちらへ歩いてくる。腰に革の鞄。手には、治療師の証だという青い布。歳は、俺と同じくらいか。まっすぐな目が、俺を、そして地面の空き瓶を順に見つめた。


「治療師のセリカよ。この街で、傷や病を診てる。……で、聞きたいことがあるの」


 彼女は少年の脈を確かめ、瓶を拾い匂いをかいだ。それから、俺の顔をじっと見た。


「あんた、これが“重なると危ない”って、分かってたでしょ。飲む前から。倒れる前から」


 俺は答えられなかった。


「その顔よ」


 セリカは少しだけ、目を細めた。笑ったわけじゃない。もっと切実な、何かを探るような目だった。


「あたしはね、この仕事を七年やってる。重ねがけで倒れた人を何百人と診てきた。でもなんで倒れるのか、誰も教えてくれなかった。塔の教えは“足せば治る”の一点張り。あたしがどれだけ薬を重ねても、助からない人がいた。……その理由を、あんた知ってるんじゃないの」


 人垣が、二人を遠巻きにしていた。冒涜だと囁く声が、まだあちこちで続いている。


 セリカはその声に構わず、俺に手を差し出した。


「あんた、何か知ってるでしょ。その顔は、知ってる人の顔だ。――教えて。あたしは、もう目の前で誰かを死なせたくない」


 その一言に俺の胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。


 目の前で、誰かを死なせたくない。


 それは前世の俺が、ずっと言えなかった言葉だった。喉の奥にいつも引っかかって、震えて、出てこなかった言葉。それをこの女は、まっすぐな目で、当たり前みたいに口にした。


 差し出された手を見つめる。日に焼けて、あちこちに小さな傷のある手だった。何百人もの患者に触れてきた手。何人もを、救えずに見送ってきた手。


 俺はまだその手を取れずにいた。取ってしまえば、また声を上げることになる。また、笑われるかもしれない。冒涜だと、罵られるかもしれない。


 だが俺の視界の隅で、もう一人瓶を三本持った子どもが、通りを走っていく。あの子も、いつか倒れる。次は、間に合わないかもしれない。


 俺はゆっくりと口を開いた。


「……相互作用、って言うんです」


 声が少しだけ、震えた。


「薬と薬が、混ざったときに起きること。それがこの街を、内側から蝕んでる」


 セリカの目が、大きく見開かれた。


「相互……作用?」


 初めて聞く言葉だ、という顔だった。当然だ。この世界には、まだその名前がない。名前がなければ、誰もそれを疑えない。疑えなければ、いつまでも人は倒れ続ける。前世で当たり前だった、その一言がこの街では、誰も知らない秘密になっていた。


 冒涜だと囁く声は、まだ止まない。俺の背に、無数の視線が刺さっている。手が、また震えそうになる。


 だが地面で目を覚ましたノルが、俺を見上げていた。まだ焦点の定まらない、幼い目で。生きている。あの子が、生きて俺を見ている。それだけが、確かだった。


 俺は差し出された手を――ようやく取った。


 温かい手だった。この世界で初めて、俺の“引く”を笑わなかった手。

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