第二章「転生」
俺は死んだはずだった。
なのに、頬に草の匂いがしていた。
目を開ける。青い空。高すぎる。日本の空じゃない。二つの太陽が――いや、一つは月だ。昼間なのに、薄い月が空に浮いている。そんな空を、見たことがなかった。
起き上がろうとして、体がふらついた。手をつく。地面がやわらかい。見下ろすと、俺の手だった。俺の手のはずなのに、指の節が記憶より少し細い。若い。二十歳そこそこの手だ。
「……なんだ、これ」
声も、少し高い。喉に触れる。ひげの剃り跡がない。
立ち上がって、よろけた。前世なら片手で持てたはずの、そこらに落ちている石。拾おうとして、両手でも重くて驚いた。体がまるで、別人だ。頭の中身だけが、灰谷律のままで。
――転生、というやつか。
漫画やゲームでなら聞いたことがある。まさか自分がそうなるとは。だが事実、俺はここにいる。あのトラックの光の続きにこの草原がある。
草をかき分けて歩くと、丘の向こうに街が見えた。石造りの壁。とがった屋根。城壁の門を、荷馬車が出入りしている。人の声がする。生きている、と思った。とにかく、生きている。
門をくぐると、市場が広がっていた。
人いきれと、香辛料の匂い。焼けた肉。土埃。荷を担いだ男が、俺の肩にぶつかって舌打ちして去る。石畳はあちこちがすり減って、つるつるだった。何百年も、人が歩き続けた道だ。
街の真ん中に、一本の塔がそびえていた。
ほかのどの建物より高い。空を突くように細く長く。てっぺんに、うっすらと光の膜がかかっている。あれが何なのか、そのときの俺は知らなかった。ただ見上げると、なぜか背筋が寒くなった。理由もなく。
「大錬成塔だよ」
すれ違った物売りの女が、俺の視線を追って言った。
「あそこで、この街の霊薬はぜんぶ作られる。錬成長さまが、日々もっと強い薬を練ってくださる。ありがたいことさ。おかげで、この街じゃ誰も病で死なない。足りない力は、足せばいい。そういう世の中になったのさ」
誰も、病で死なない。足せばいい。
その言葉が、耳の奥に小さな棘のように刺さった。
そこで、俺は最初の違和感にぶつかった。
露店に、ずらりと小瓶が並んでいる。赤、青、緑。中で光る液体。誰が見ても、あれは「薬」だ。この世界の薬なのだろう。
「へい、そこの兄さん。傷薬はどうだい。三本重ねりゃ、腕がもげても生えてくるよ」
露店の男が、瓶を三本まとめて振ってみせた。
三本、重ねる。俺の耳が、その言葉に引っかかった。
見ていると、客の若者が三本を一気にあおった。それだけじゃない。首から下げた札に手を当て、何かを唱える。腕に淡い光が走った。付与、というものらしい。薬を飲み、その上に光をかぶせる。重ねて重ねて、強くなる。
「もっと重ねろ! 強さは足し算だ!」
露店の男が、笑って叫ぶ。
周りの誰も、疑っていなかった。それが当たり前の顔をしていた。
背筋に、冷たいものが走った。
俺の目には、見えてしまう。あの赤い薬と、青い薬。二つを一緒に飲めば、片方がもう片方を暴れさせる。前世で言えば――効きすぎる組み合わせだ。体の中で、力が制御を失う。
だが、ここでは誰もそれを知らない。
「兄さん、顔色悪いね。うちの元気薬、飲んでくかい」
「……いえ。結構です」
俺は後ずさった。声が、またうまく出ない。前世の癖が、体を変えても抜けていない。
市場の奥に、人だかりができていた。石の台の上に、水晶のようなものが据えられている。人々が順番に手を触れ、水晶が色を変えていた。
「適性の判定だよ」
隣に立っていた老婆が、教えてくれた。
「この街に来た者は、みんな視てもらう。どんな付与に向いてるか。強く光るほど、いい暮らしができる。あんたも視てもらいな」
断る理由もなかった。俺は列に並んだ。
俺の番が来る。水晶に手を触れた。
――何も、起きなかった。
水晶は、うんともすんとも言わない。透明なまま、俺の手の下で沈黙している。判定役の男が、眉をひそめた。もう一度、と促される。触れる。やはり、光らない。
「……ハズレだな」
男が、気の毒そうに言った。
「付与の適性、ゼロだ。重ねがけが、ひとつもできん体だ。こんなのは、久しぶりに見た」
周りが、ざわついた。くすくす、と笑い声がした。ハズレ。使えない。誰かがそう囁いた。
俺はうつむいた。前世でも、俺はいつもそうだった。役に立たない。大げさ。びくびくして。この世界でも、俺は同じ場所に立っている。
けれど判定役の男が、ふと妙な顔をした。
「待て。おかしいな。適性はゼロだ。なのにお前……薬の“中”が、視えてるのか?」
「え」
「今、うちの棚をちらっと見て、右から三本目を避けただろう。あれは、隣の瓶と混ぜると危ないやつだ。玄人しか知らん。なんで、お前が」
俺は答えられなかった。ただ、視えるとしか言いようがない。何を混ぜれば危ないか。何を引けば助かるか。前世で五年それだけを見てきた目が、この世界でも、勝手に働いている。
「まあ、いい。付与ができんのじゃ、飯は食えんぞ。せいぜい、薬瓶でも磨くんだな」
男は、そう言って背を向けた。
俺は市場の隅に座り込んだ。石畳が、じわりと冷たい。腹が減っていた。金もない。異世界に来て、最初に手に入れたのが「ハズレ」という称号か。
膝を抱えて、空を見上げた。薄い月が、まだ昼の空にいる。前世で俺が最後に見たのは、街灯だった。手帳が、風に舞っていた。あれは、どうなっただろう。もう二度と、開けない。五年ぶんの記録が、あの夜のアスファルトに散らばったまま。
急にたまらなくなった。
俺という人間から、記録を取り上げたら、何が残るんだろう。付与もできない。戦えない。声も上げられない。ただ危ない組み合わせが視えるだけの、役立たず。
この世界で、俺はまたうつむいて生きるのだろうか。声も上げられず、隅に座って。
通りを、子どもたちが駆けていく。手に、色とりどりの小瓶を握って。あれを飲めば強くなれると、無邪気に信じて。
その一人が、瓶を三本、まとめて袋に入れているのが視えた。青と赤と、黄。
嫌な予感が、胸をよぎった。
そのときだった。
通りの向こうで、ざわめきが起きた。
人垣の中心に少年が倒れていた。まだ十かそこらの子だ。手には、空になった小瓶が三本。付与の札が光ったまま、暴走している。少年の体が、びくびくと跳ねた。口から、白い泡が噴き出す。
「ノル! しっかりしな、ノル!」
誰かが叫んでいた。だが、誰も何をすればいいか分からない。ただ、おろおろしている。
「治療師を呼べ! もっと霊薬を飲ませろ!」
大人の一人が、四本目の瓶を、少年の口に押し当てようとした。
「やめろ!」
叫んだつもりが、声にならなかった。俺の喉から出たのは、かすれた息だけだった。誰にも届かない。
もっと、飲ませろ。
その言葉に、俺の全身が凍りついた。
違う。それは逆だ。今あの子に必要なのは、足すことじゃない。あの三本の、どれかを――打ち消すこと。引くことだ。
俺の視界の中で、三本の瓶の色が、はっきりと危険を告げていた。青と赤と、黄。青が赤を暴れさせ、黄がそれを加速させている。止め方が、分かる。俺には、分かってしまう。
立ち上がりかけて――足が、止まった。
声を上げれば、また笑われるかもしれない。ハズレのくせにと。前世の記憶が、俺の足首をつかむ。うつむけ。黙っていろ。お前の“念のため”なんか、誰も聞きたくない。
少年の唇が、紫色に変わっていく。指の先が、細かく痙攣していた。母親らしき女が、地面に膝をつき、子の名を呼び続けている。ノルノル、と。その声が市場のざわめきに溶けて、届かない。
俺の膝の上で、両手が握りしめられていた。爪が、掌に食い込む。前世であの受話器を握ったときと、同じ痛みだった。
時間が、ない。
――重ねる前に確かめる。
俺の決まりごとが、頭の奥で小さく灯った。




