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異世界おくすり手帳 ―― 重ねがけ禁忌の薬剤師  作者: もしものべりすと


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第一章「疑義照会」

その組み合わせは、人を殺せる。


 それが分かっているのに、俺の指は受話器の上で止まっていた。


 薬局の蛍光灯が、じりじりと鳴っている。閉店まであと十分。一日で三百枚近い処方箋をさばいた指先が、しびれて感覚を失いかけていた。カウンターの向こうで、若い母親が眠った赤ん坊を抱え直す。手元の処方箋には、二つの薬の名が並んでいた。片方は血を固まりにくくする薬。もう片方は、その働きを跳ね上げる薬だ。


 併用禁忌。


 一緒に飲めば、体の内側で血が止まらなくなることがある。


「灰谷、まだ終わらないのか」


 背後で棚原さんの声がした。エリア長で、この薬局を仕切っている人だ。声は柔らかい。柔らかいのに刃物みたいに薄い。


「あのこの処方、少し確認したくて」


「またか」


 棚原さんは俺の手元をのぞき込み、鼻で笑った。整髪料の匂いが、鼻先をかすめる。


「先生に電話するのか。何回目だ、今月」


「でもこの二つは、一緒だと危ないんです」


「回転率、下げるな」


 その一言で、喉が塞がった。


 少し前のことを思い出す。今日の昼、俺は一人の老人の薬を渡した。常連の岸さんだ。血圧の薬に、眠れないからと別の病院で睡眠薬をもらい、胃が痛いと市販の薬まで飲んでいた。全部を一つの手帳で並べて、俺は危ない重なりを二つ、抜いてもらうよう勧めた。


「あんたは、いつも引いてくれるねえ」


 岸さんは、しわだらけの手で俺の書いた紙を受け取って、笑った。


「医者は足すのが仕事だ。飲め増やせ、ってな。だけどよ、引き算のできる人が、いちばん人を助けるんだよ。あんたみたいなのがね」


 そのときは、聞き流した。世辞だと思った。


 だが今、母親の眠る赤ん坊を見ていると、その言葉が胸の奥で妙に重い。


 俺は臆病だ。昔からそうだ。声を上げると、必ず誰かの舌打ちが返ってくる。だから確かめることさえ、いつも人の顔色をうかがってからになる。


「先生だって忙しいんだ。お前の“念のため”が、この店の信用をどれだけ削ってると思ってる」


 棚原さんはそう言って、レジの締めに戻っていった。


 俺は処方箋を見下ろした。母親は赤ん坊の背をとん、とんと叩いている。この人は、この薬を信じて飲む。俺が黙れば、そのまま飲む。


 ――去年のことを思い出す。


 あの日も、閉店間際だった。俺はためらった。棚原さんの視線が、背中に刺さっていた。危ない飲み合わせに気づいていたのに、俺は「たぶん大丈夫」と自分に言い聞かせた。確認の電話を明日に回した。


 その患者は、三日後に運ばれた。消化管から血が止まらなくなって。真っ白な顔で、点滴の管につながれていた。命は助かった。けれど俺が一本の電話をかけていれば、あの人はベッドに縛られずに済んだ。


 見舞いに行った俺に、その人は笑ってくれた。「薬剤師さんのせいじゃないよ」と。


 その優しさが、いちばん刺さった。


 あの夜から、俺は声を上げるのがもっと怖くなった。


 声を上げなかったことを悔いているのに、声を上げることを恐れている。矛盾したまま、俺はこの一年を生きてきた。


 受話器を握り直す。冷たいプラスチックが、汗ばんだ掌に張りつく。


「――お電話、失礼します」


 声が、震えた。


 処方元のクリニックに繋がる。事情を伝えると、電話口の医師は最初こそ不機嫌だった。だが二つの薬の名を聞いて、短く黙った。


「……ああ。それはまずいな。片方、外すよ。教えてくれて助かった」


 電話が切れる。


 俺は詰めていた息を吐いた。掌に爪の跡が四つ、赤く残っていた。


 母親に事情を話す。彼女は青ざめた。


「そんな……わたし、危ないなんてぜんぜん」


「大丈夫です。今、安全な形に直しました」


 俺は分包機の前に立った。錠剤を一つずつ確認し、危ない一本だけを外す。残りを、朝・昼・晩の袋に分けて機械に流す。ジジ、と低い音を立てて、薬が薄い紙の袋に包まれて出てくる。飲む時間ごとに、一つの袋にまとめること。一包化、と俺たちは呼ぶ。飲み間違いを防ぐための、地味な工夫だ。


「これでいつ何を飲むか、袋を見れば分かります。この子が寝てても、間違えずに済む」


 母親は、包みを胸に抱くようにして受け取った。


「あの……ありがとうございます。他の薬局さんだと、こんなふうに止めてくれなくて」


「止めるのが、仕事なので」


 自分でも意外なほど、静かに言えた。


 彼女は何度も頭を下げて、赤ん坊と一緒に夜へ出ていった。自動ドアが閉まる。街灯の下を、小さな背中が遠ざかっていく。あの背中が今夜、血に濡れずに眠れる。それだけで、指の震えが少し止まった。


「大げさなんだよ、お前は」


 棚原さんが釣り銭を数えながら言った。硬貨の音が、ちゃりちゃりと乾いている。


「たまたま当たっただけだろう。いいか、薬ってのは足すもんだ。足りないから病気になる。足せば治る。それだけの話を、お前は難しくしすぎる」


 足せば治る。棚原さんは、いつもそう言う。


 でも俺は知っている。足しすぎて壊れる体を、この目で何度も見てきた。三つの病院から四つの薬をもらって、どれも少しずつ効いて、どれも少しずつ体を削っていく老人たちを。


 言い返したかった。喉まで、言葉が出かかった。


 けれど俺は、うつむいた。いつものように。


 俺は何も言い返せなかった。


 その夜、更衣室のロッカーの前で、俺は自分の手帳をめくった。薬歴を書き留めるための、俺だけのノートだ。誰の患者がいつ何を飲んで、どう変わったか。棚原さんに「そんな無駄なもの」と笑われても、俺は五年間、これをやめられなかった。


 几帳面なんじゃない。ただ、忘れるのが怖いだけだ。


 最後の頁に、今日の一件を書き足す。血を固める薬跳ね上げる薬、抜いた一本。震えた声。岸さんの言葉も、隅に小さく書いた。


 ページの角に、いつも同じ言葉を書く癖がある。


 ――重ねる前に確かめる。


 誰に見せるでもない、俺だけの決まりごとだった。


「先に上がるぞ。戸締まり、頼む」


 棚原さんが上着を羽織って出ていく。ドアの向こうで、彼の口笛が遠ざかった。


 俺は一人、薬局に残った。棚に並ぶ無数の薬の箱をぼんやり眺める。白い箱青い箱、黄色い箱。どれも、一つなら人を助ける。けれど組み合わせを間違えれば、同じ薬が牙をむく。


 薬剤師の仕事は、足すことじゃない。組み合わせを見て、危ないものを引くことだ。


 誰も、そんなことを褒めてはくれないけれど。岸さん一人をのぞいては。


 俺は電気を落とし、外へ出た。三月の夜は、まだ冷える。マフラーを巻き直し、駅までの道を俯いて歩いた。手帳を、上着の内ポケットに押し込む。心臓の上あたりで、ノートの角が硬く当たった。


 もし、と思う。


 もし俺が、震えずに声を上げられる人間だったら。あの人を、ベッドに縛らずに済んだのだろうか。


 その答えは、たぶん一生出ない。だから俺は、せめて明日も手帳を開こう。そう思いながら歩いた。


 交差点の信号が、青に変わる。


 踏み出した、そのときだった。


 右手から、光。


 時間が、やけにゆっくり流れた。


 ヘッドライトが、二つ。近づいてくる。あれは、止まらない。頭の隅で、そう理解した。けれど足は動かなかった。臆病な俺はこんなときまで、一瞬迷った。


 クラクションが、鼓膜を貫いた。


 体が宙に浮く。アスファルトと空が入れ替わる。内ポケットから手帳が飛び出して、指の先から離れ、夜に舞った。街灯の光に、白い頁がひらひらと開く。五年ぶんの誰かの記録が、風にほどけていく。


 ――ああ、あの頁が濡れてしまう。


 最後に思ったのは、それだけだった。


 薬の名前でも痛みでもなく、ただあの手帳のこと。


 重ねる前に確かめる。その言葉ごと、俺の意識は暗転した。


 冷たいはずのアスファルトが、なぜかやわらかい草の匂いに変わっていくのを、俺はまだ知らなかった。

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