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異世界おくすり手帳 ―― 重ねがけ禁忌の薬剤師  作者: もしものべりすと


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第二十二章「相互帳」

季節が、一つ巡った。


 ミサラの街は、すっかり変わった。


 市場から、あの色とりどりの派手な霊薬の山は、消えた。代わりに店先には、単体で安全に使える薬が、きちんと並ぶようになった。そしてどの家にも、一冊の相互帳が、置かれるようになった。


 朝、俺が店を開けると、もう行列ができている。


「薬師さんうちの母の帳面、確かめてくれ」


「新しい薬をもらったんだが、今飲んでるのと、重ねて平気かい」


「うちの子が、熱を出して。何を飲ませたら、いいかね」


 俺は一人ずつ、相互帳を開いて確かめる。飲んでいるものを並べて。危ない重なりを探して。あれば、止める。なければ安心して、送り出す。時には市販の薬より、まずよく眠って、よく食べることを勧める。薬を足すことだけが、答えじゃない。それもこの街の人は、少しずつ分かってきた。


 市場を歩けばあちこちで、声が聞こえる。


「その二つ、重ねて大丈夫かい? 薬師さんに、聞いてからにしなよ」


「うちは、もう相互帳に書いてるから。危ないのは、避けてる」


 かつて「もっと重ねろ、強さは足し算だ」と、叫んでいたあの露店の男も。今では、客にこう言う。「一本ずつ、でじゅうぶんだよ。重ねすぎちゃ、いけねえ」。


 地味な、仕事だ。派手さは、ない。だがこの街では、もう誰もそれを笑わない。


「引く」ことは、弱さじゃない。「確かめる」ことは、逃げじゃない。それは人を、守る力だ。今では街の子どもでも、そう知っている。


 ノルはすっかり俺の、一番弟子になった。


 背が、少し伸びた。俺の相互帳の、写しをいつも持ち歩いている。街の人に頼まれて、飲んだものを書き留める。危ない重なりが、ないか確かめる。まだ、たどたどしい。だがその目は、真剣だった。


「あにいちゃん。ぼく、おおきくなったら。あにいちゃんみたいな、くすしになる」


 ある日、ノルがそう言った。相互帳の写しを、大事そうに抱えながら。


「“ひきの、くすし”に。あぶないくみあわせを、とめるひとに」


 俺はその頭を撫でた。


「なれるよ。君なら、きっと」


「でもぼくまだじが、へたくそだよ」


「上手じゃなくて、いいんだ」


 俺は笑って、言った。


「大事なのは、上手に書くことじゃない。忘れないように書くこと。誰かのために、こつこつ書き続けること。……俺だって、字は下手さ。でも五年も、十年も書き続けた。だから、いざってときに役に立った。君も続ければ、いい。ゆっくり、でいい」


 ノルはこくこくと、うなずいた。それからまた真剣な顔で、街の人の帳面を、確かめに走っていった。


 その、小さな背中を見送りながら。俺は思った。


 この子が、いつか大人になったとき。この街にはもう重ねがけで、倒れる人は、いないだろう。誰もが当たり前に、確かめて繋いで生きている。そんな街になっていればいい。


 俺の、命が尽きたあとも。相互帳はノルの手から、また次の子の手へ。繋がっていく。記録は一代では、終わらない。命を守る術も。


 セリカからは、時々手紙が届いた。


 旅先の、遠い街から。行商人に託して。「西の街でまた重ねがけの、事故があった。でもあんたの帳面の書き方を、教えたら治療師が、泣いて喜んだ」。「南の港町に、相互帳の書き方を広めてきた。少しずつこの考え方が、根づいてる。港にはいろんな薬が、集まるから相互作用も、多いのよ」。「北の村で、あんたの噂を聞いたわ。“引きの薬師”の話が、こんな遠くまで届いてる」。


 手紙の最後にはいつも同じ一行が、あった。


 「あんたは、ちゃんと確かめ続けてる? あたしは、繋ぎ続けてるよ」。


 俺はその一行を、読むたびに少し笑って。返事に書く。


 「はい。確かめ続けてます」。


 あの“はい”は、もう震えない。


 繋がりは、街から街へ伸びていた。セリカが繋いだ先で。また誰かが、確かめ始める。その誰かが、また次の街へ。相互作用が――良いほうの、相互作用が。世界に少しずつ、広がっていた。


 俺が一人で、この街で確かめている間に。セリカはそれを、世界へ運んでくれている。俺たちは、離れていても。同じ、一つの仕事を続けていた。留まる俺と、旅する彼女。正反対の場所で。同じ方向を向いて。それもきっと相互作用だ。遠く離れていても、支え合える。そういう繋がりも、ある。


 夜、店じまいのあと。


 俺は窓から、あの、塔の跡地の広場を眺めることがある。今は子どもたちの、遊び場だ。あの青白い渦の恐怖を、この子たちはもう知らない。それでいい。平和とは、きっとそういうものだ。誰も覚えていないくらい、当たり前の日々。


 俺は一人カウンターで、相互帳を開く。


 もう、何冊目になっただろう。この街の、人々の命の記録。誰が何を、飲んでどう元気になったか。倒れかけて、助かったか。一頁一頁が、この街の生きてきた証だった。


 前世の、あの手帳を思い出す。


 夜のアスファルトに、散らばった五年ぶんの記録。あのとき、俺は思った。“あああの頁が、濡れてしまう”と。死ぬ間際に思い出したのが、薬の名前でも痛みでもなく、ただあの手帳のこと。俺という人間から、記録を取り上げたら、何も残らないと。


 俺はずっと自分を、つまらない人間だと思っていた。


 付与も、使えない。強い霊薬も、練れない。前世でも要領が悪くて、いつもうつむいていた。棚原さんに笑われて。声も、上げられなくて。何一つ大きなことは、成し遂げられない地味な男。


 でも。


 その地味な、記録が。この世界を救ったのだ。


 俺がいちばん、恥じていた確かめる癖が。書く癖が。世界でたった一つの、武器になった。派手な力を持つ者は、いくらでもいた。でもこつこつと、命を書き留め続けた者は、俺だけだった。


 人生で何が役に立つか、なんて。分からないものだな、と俺は思う。


 自分のいちばん、嫌いだったところが。誰かの命を救うことも、ある。


 だから、と俺は思う。もし前世の俺みたいに、うつむいている人が、どこかにいるなら。伝えたい。あなたのその地味な、こつこつが。いつか誰かの光になる日が、来ると。


 ――と、その夜。


 店の閉めかけた扉が、遠慮がちに叩かれた。


 開けるとそこに小さな女の子が、立っていた。まだ五つか、六つ。この街に越してきたばかりの、家の子だろうか。見覚えのない、顔だった。


「あの……」


 女の子は恥ずかしそうに、俺を見上げた。


「くすしさん、ですか。あの、わたし、“そうごちょう”っていうのをまだもってなくて。となりのおばさんが、“くすしさんに、つくってもらいなさい”って」


 その子の小さな手には、風邪の薬らしい、小瓶が一つ握られていた。よそから来た家で、この街の“確かめる”ことを、まだ知らないのだろう。


 俺はその子を見た。


 相互帳をまだ一冊も、持っていない子。この街では、珍しくなった。生まれたばかりの命か、よそから来た命。まだ何も記されていない、真っ白なこれからの命。


 俺の胸にじんわりと、あたたかいものが広がった。


 ――そうか。


 これが俺の、続けていく仕事だ。


 派手じゃない。もう世界を救う、勇者でもない。あの塔の渦を止めた日々は、遠い、昔のことのようだった。今の俺は、ただの街の薬師だ。ただ、一人ずつ。この街に来た、一人ずつの、はじめての一頁を作っていく。それが俺のこれからの、一生の仕事だ。


 世界を、一度救うことより。たぶんこっちのほうが、ずっと大事なことなんだと、俺は思う。一頁ずつ。一人ずつ。倒れる前に確かめる。その地味な、繰り返しが。街を世界を、静かに支え続ける。


「もちろん」


 俺は微笑んで、言った。膝をついて、その子と目の高さを合わせる。


「入って。今、作ってあげる。君の、はじめての一冊を」


 女の子の顔が、ぱっと明るくなった。おずおずと、店の中へ入ってくる。俺は棚の奥から綴じたばかりの、真新しい帳面を、一冊取り出した。まだ何も書かれていない、真っ白な一冊を。

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