第二十三章「はじめての一頁」
俺は女の子を、カウンターの前の、小さな椅子に座らせた。
彼女は店の中を、きょろきょろと見回していた。安い薬しか置いていない、地味な棚。壁にびっしり下がった、患者の木札。カウンターに積まれた、何冊もの相互帳。ほかの店のきらびやかな霊薬とは、まるで違う、その景色を。不思議そうに眺めていた。
「ここへんな、おみせ」
「そうだね。よく、言われるよ」
俺は笑った。ハズレの店。冒涜の店。変わり者の店。この世界に来て、俺はずいぶんいろんなふうに呼ばれた。だが今その「変なお店」に、こうして小さな客が、はじめての一冊を作りに来る。
真新しい相互帳を開く。まっさらな、最初の頁。何も書かれていない、これからの一頁。
「まずお名前を、教えてくれる?」
「……ミナ、です」
「ミナちゃんか。いい名前だ」
俺は頁のいちばん上に、その名を書いた。ミナ。この街に越してきたばかりの、小さな命。まだ何も記されていない、真っ白なこれからの命。
「じゃあ、ミナちゃん。今持ってるお薬、見せてくれる?」
女の子は小さな手に、握っていた小瓶を、おずおずと差し出した。俺はそれを受け取って、確かめた。ありふれた、風邪の薬。単体なら、なんの問題もない。
「これは大丈夫。安全なお薬だよ。……でもね」
俺はしゃがんで、ミナと目を合わせた。
「もしこれから、別のお薬を飲むことがあったら。飲む前に、この帳面を持ってきて。“これとこれ一緒でいい?”って、聞くんだ。そうすれば危ない組み合わせを、飲まずに済む」
「あぶない、くみあわせ?」
「そう。一つずつなら、いいお薬でも。二つ、三つ重ねると。ときどきけんかして、体に悪さをする。……だから、確かめるんだ。飲む前に。それだけでずっと安全に、なる」
ミナはこくり、とうなずいた。まだよく、分かっていない顔で。だがそれで、いい。いつか分かる日が、来る。この街のみんなが、そうだったように。
俺は頁に書いていく。
飲んだお薬。飲んだ日。安全な使い方。ミナのまん丸な目が、俺のペンの先を、じっと追いかけていた。文字が一つまた一つ、真っ白な頁を埋めていくのを。
「くすしさん、じがきれい」
「そうかな。ありがとう」
俺は少し、笑った。前世でもこの世界でも、字を褒められたことなんて、なかった。ノルにも、下手だと言われたばかりだ。それでもこの子には、丁寧に書く手つきが、きれいに見えたらしい。
それから、頁の隅にいつもの言葉を書いた。この世界に来てから、俺が何冊も書いてきた、その言葉を。前世のあの手帳の、隅にもずっと書いてきた、俺だけの決まりごとを。
――重ねる前に確かめる。
その下にもう一行。この世界で、俺が学んだ言葉を書き足した。
――繋がりは、断つより組み直す。
書き終えて俺はその帳面を、ミナに手渡した。
「はい。これがミナちゃんの、はじめての一冊だよ。大事にしてね。困ったことがあったらいつでも、持っておいで」
ミナは両手で、それを受け取った。宝物みたいに。胸にぎゅっと、抱きしめる。
「ありがとう、くすしさん!」
ぱっと、笑って。ぺこりと、頭を下げて。女の子は、店を駆け出していった。夕暮れの、街へ。手に真新しい、一冊を抱えて。
俺はその背中を見送った。
――ふと気づいた。
さっき俺がミナに、薬を差し出させたとき。「お薬、見せてくれる?」と言ったとき。
俺の手は、震えていなかった。
前世の、あの夜。俺は薬局のカウンターで、受話器を、握って震えていた。危ない組み合わせに気づいていたのに。“確かめさせてください”の、その一言が怖くて。声が、出なくて。手が、震えて。掌に爪の跡が四つ残るくらい、握りしめて。
あのとき、俺は思っていた。俺は確かめることさえ、まともにできない、臆病な男だと。声一つ、上げられない。人の顔色ばかり、うかがって。何一つ、成し遂げられない。
でも、今は。
俺は当たり前みたいに言えた。「見せてください」と。震えずに。うつむかずに。小さな女の子に、優しく微笑みながら。
あの夜からずいぶん遠くまで、来た。
トラックの光にはねられて。手帳を、夜に散らして。死んだと思ったら、異世界にいた。ハズレと、笑われて。冒涜だと、罵られて。何度も、うつむきそうになって。それでも、セリカに立たされて。ノルに支えられて。街の人に繋がれて。一歩ずつ、ここまで。
カウンターの向こうを見る。
棚に並ぶ、薬の瓶。壁に下がった、患者の木札。前世のあの薬局と、よく似た光景だった。じりじり鳴る蛍光灯は、ないけれど。棚の並びも、カウンターの高さも、どこかあの店に似ていた。
あのころ、俺はこの光景の中で、いつもうつむいていた。回転率に追われて。棚原さんの、視線に怯えて。“確かめる”たびに震えていた。
だが、今同じような光景の中で。俺はまっすぐに立っている。
同じ、カウンター。同じ、薬の棚。同じ、確かめる仕事。
なのに景色がまるで、違って見えた。
あのころ、俺には見えなかったものが。今は、見える。
“確かめる”ことの、意味が。“引く”ことの、価値が。地味な記録が、どれだけの命を支えているか。うつむいていた俺には、決して見えなかった、その景色が。今同じカウンターの向こうに、はっきりと、広がっていた。
俺は変わったのだ。
いや――違うか。
俺は俺のままだった。相変わらず几帳面で心配性で、確かめてばかりの、地味な男。何も、変わっていない。付与も、使えない。強い魔法も、ない。剣も、握れない。この世界に来ても俺は、ただの薬師のままだった。
ただ、俺がそんな自分を。やっと、認められるようになった。それだけ、だった。
確かめることは、臆病じゃない。それは人を、守る力だ。
引くことは、逃げじゃない。それは加減を、見極める知恵だ。
地味な記録は、無駄じゃない。それは誰かの命を、支える一冊だ。
俺のいちばん、嫌いだったところが。いちばん大事なところ、だった。前世で棚原さんに、笑われたその全部が。この世界で、人を救う力になった。
もし、あの人が。棚原さんがまだどこかで、生まれ変わって、いるのなら。今度は笑わずに、聞いてくれるだろうか。“確かめることは、大事なんですよ”という、俺の言葉を。
窓の外で、夕日が街を染めていた。
塔のなくなった空は、どこまでも広い。青い濁りはもうどこにも、ない。澄んだ、夕焼けだった。子どもたちの、笑い声が塔の跡地の広場から、風に乗って聞こえてくる。
どこか、遠い街で。今ごろセリカも、この空を見ているだろうか。相互帳を、また誰かに手渡しながら。「あんたは、ちゃんと確かめ続けてる?」と、あの声で笑いながら。
ええと俺は、心の中で答える。
確かめ続けてます。これからも、ずっと。
あなたが、繋いだ先で。俺が確かめた命が。また、次の誰かに繋がっていく。留まる俺と、旅する君。離れていても、俺たちは同じ一本の線の上にいる。それもきっといちばん良い、相互作用だ。
明日もこの店には、誰かが来る。
飲んでいるものを、確かめてほしい人が。はじめての一冊を作ってほしい人が。
俺はその、一人ずつと。向き合っていく。倒れる前に。確かめて。危ないものを止めて。良い繋がりを繋いで。
派手じゃない。世界を救う、勇者の仕事でもない。
ただ、一頁ずつ。命を書き留めていく、地味な仕事。
でも、俺はこの仕事が。好きだった。
俺は次の客のために、新しい帳面を、一冊カウンターにそっと置いた。
真っ白な、一冊。これから誰かの命が、書き込まれていく一冊。まだ名前もない明日の、誰かのための、はじめての一頁。
俺はペンを、そっとその隣に揃えた。いつでも、書けるように。誰が来ても、確かめられるように。
そして暖簾の向こうへ、顔を上げて静かに言った。
「――お手帳、見せてください」
その声は、もう。
震えて、いなかった。




