第二十一章「離脱」
塔が崩れてから、半月が過ぎた。
街は、ゆっくりと息を吹き返していた。倒れた人々は俺と街の仲間たちの手で、一人ずつ確かめられ危ない薬を抜かれ少しずつ、回復していった。崩れた家は、建て直された。青い薬は一本残らず、集められ処分された。
大錬成塔の跡地には今広場が、できていた。人々はそこに、小さな碑を立てた。「重ねすぎた者たちを、忘れぬために」と。誰かを責める碑じゃない。二度と同じ過ちを、繰り返さないための、覚え書きだった。
俺の薬房は、前よりずっと忙しくなった。
人々は、もう「引く」ことを笑わなかった。強い薬を闇雲に重ねる者は、いなくなった。代わりに、みんな自分の“相互帳”を、持つようになった。飲んだものを書く。危ない重なりを確かめる。それがこの街の、当たり前になりつつあった。
朝、店を開けると、ノルが真っ先にやってくる。手には、小さな帳面。俺が渡した、相互帳の写しだ。
「あにいちゃん! きのう、みっつかいたよ! ちゃんとあぶないくみあわせも!」
「えらいぞ。見せてごらん」
俺はそのたどたどしい文字を、一つずつ確かめる。この子がいつかこの街の、次の“書く人”になる。そう思うと、胸があたたかくなった。
その、ある朝のことだった。
セリカが旅支度を、して店にやってきた。
背には、大きな荷。腰には、いつもの鞄。そして腕には――一冊の、真新しい相互帳。
「行くの?」
俺はそれを、見てすぐに分かった。
「うん」
セリカはあっさりと、うなずいた。
「この街は、もう大丈夫。あんたとあの子たちが、いれば。……でもほかの街は、まだなんにも知らない。“相互作用”も、“確かめる”も。あの青い薬みたいなのが、いつ別の街で、撒かれるか分からない」
彼女は腕の中の、相互帳を見下ろした。
「だからあたしが、行く。街から、街へ。この帳面の、書き方を教えて回る。治療師たちに“重ねすぎると、危ない”ってことを。……妹を、死なせたあたしだから。言えることが、あると思うの」
俺はしばらく黙っていた。
寂しくない、と言えば嘘になる。この世界に来てから、ずっと。セリカは俺の、隣にいた。俺の“引く”を、初めて笑わなかった人。俺の手を取ってくれた人。倒れた俺を何度も叱咤して、立たせてくれた人。
その人が、いなくなる。
窓から朝の光が、差し込んでいた。カウンターの上には、二つの素焼きのカップ。いつもセリカが、余った料理を持ってきては、ここで二人で食べた。あの、あたたかい時間が。もう、終わるのだ。
「……一緒に、来いとは言わないんだな」
俺は少しだけ、笑って言った。
「言わないわよ」
セリカも笑った。だがその目の奥は、少し揺れていた。
「あんたの居場所は、ここでしょ。この薬房。この街の、人たち。ノルに次の書き方を、教えなきゃいけないし。……あんたは、ここで確かめ続ける人。あたしは、それを外へ広める人。役割が、違うのよ」
「うん」
「それに」
彼女は少しいたずらっぽく、笑った。
「あんたが、旅なんかしたら。一日で、野垂れ死によ。荷物の重さの、加減も分からないくせに」
「……否定は、できません」
二人で、少し笑った。その笑いの、後ろで。別れの、影が静かに伸びていた。
同じ、志で。正反対の、道を行く。
俺は留まって、確かめる。セリカは旅して、繋ぐ。だがどちらも、やることは同じだった。危ない重なりを、止めて良い繋がりを広げる。相互作用を組み直す。この世界に、一人でも、それができる人を増やしていく。
俺はふと思った。
別れも、薬と同じかもしれない。
急に断ち切ったら。離脱症状みたいに、心が暴れる。だから、ゆっくり。少しずつ。相手を、ちゃんと送り出す。持っていくものと、置いていくものを確かめて。それが別れの、作法だ。
前世の俺なら、きっとこの別れを、うまくできなかった。寂しさに耐えられなくて。うつむいて、黙り込んで。何も言えないまま、彼女を行かせて。あとで一人で、後悔した。あのときちゃんと礼を言えばよかった、と。
でも今の俺は、違う。
ちゃんと、顔を上げて。ちゃんと、目を見て。伝えるべきことを、伝えて送り出す。それができる。この世界が。この街の人たちが。そしてセリカが。俺を、そういう人間にしてくれた。
「セリカさん」
「なに」
「……ありがとうございました。あなたが、いなかったら。俺はあの日、店の前で相互帳を燃やしてた。うつむいたまま、終わってた。あなたが、何度も俺を立たせてくれたから。俺はここまで、来られた」
セリカは少しの間、俺を見つめた。
それからぶっきらぼうに、目を逸らした。
「……あのね」
彼女の声が、少しだけ掠れた。
「あたし、初めてあんたを見たとき。ノルを助けた、あの日。“この人は何か知ってる”って、思った。それで、手を差し出した。……でも、本当はね。もう一つ、理由があったの」
「理由?」
「あんた、あのとき。冒涜だって、罵られて。うつむきそうになりながら、それでも消え入りそうな声で、“やります”って言ったのよ。震えながら。……あたし、その“はい”が。どうしても、もう一度聞きたくて。ここまで、一緒に来ちゃった」
俺はその言葉を、うまく飲み込めなかった。
あの日の俺は、ただ必死だった。震えて、うつむきそうで。自分ではいちばん、情けない姿だと思っていた。その姿を。この人は、ずっと覚えていてくれた。情けない、とは思わずに。
「あの“はい”は、弱々しかったでしょう」
「そうね。弱々しかった。でも」
セリカは荷を背負い直した。そしてまっすぐに、俺を見た。
「震えてるのに逃げなかった。あたしそういうのが、いちばん強いんだって、知ってるの。……ねえ、リツ。最後に聞かせて。あんたはこれからも、この街で。確かめ続ける?」
俺はうなずいた。
もう震えては、いなかった。うつむいても、いなかった。
「はい」
その一言を聞いて。
セリカはくしゃりと、顔を崩した。泣き笑いのような、顔だった。
「うん。……いい“はい”だ」
彼女はくるりと背を向けた。
店の扉を開ける。朝の光が、差し込む。その光の中へ、彼女は歩き出した。
「達者でね、リツ。あんたの帳面が、いつか世界じゅうに、広がりますように」
「セリカさんも。……気をつけて。旅先で、無理な重ねがけを見つけたら。ちゃんと、止めてください」
「言われなくても」
彼女は店を出た。
俺は店の前まで、追って出た。街道を、行く彼女の背中を見送る。
彼女はしばらく歩いて、一度だけ振り返って、手を振った。大きく。それから迷いのない足取りで、街道を歩いていった。だんだん、小さくなっていく背中。朝日の中に溶けていく背中。
街道の脇の、木々が朝風に揺れていた。彼女の髪も、揺れていた。その姿が、丘の向こうへ消えるまで。俺はずっとそこに立っていた。手を振り返したまま。腕が、だるくなっても。下ろせなかった。
やがて彼女の姿が、完全に見えなくなった。
俺はそれでも、しばらく街道を見つめていた。
寂しかった。けれど不思議と、涙は出なかった。
だって、これは離脱じゃない。ゆっくりとした、送り出しだ。急に、断ち切ったんじゃない。ちゃんと、言葉を交わして。持っていくものと、置いていくものを確かめて。送り出した。
彼女はちゃんとこの街のあたたかい繋がりを、持っていってくれた。そして、俺の“はい”も。
繋がりは、切れたんじゃない。
外へ伸びていったのだ。
いつか、どこかの街で。誰かが危ない重なりを、止められる日が来る。セリカが教えた、その手で。そう思うと寂しさの中に、あたたかいものが灯った。
俺は店に戻った。
カウンターの上の、二つのカップの、片方をそっと片づける。
そして、残った一つを見つめた。
――さあ。今日も、確かめよう。




