第十九章「解毒」
塔の頂は、嵐のようだった。
大錬成釜の渦が、天井を突き破らんばかりに荒れ狂っている。七色の光が、渦を巻き部屋じゅうを、なめるように走る。床が、地鳴りのように震えていた。空気そのものが、毒でひりついている。息を吸うだけで喉の奥がちりちりと、焼けた。
ここまで上ってくるのは、楽じゃなかった。塔の中は暴走の余波で、崩れかけていた。錬成術師たちは、みな逃げ出したあとだった。ただこの最上階だけが、渦の力で辛うじて、形を保っている。俺は崩れた階段を、這うように上ってきた。相互帳を、決して離さずに。
その渦を背に、オルダが立っていた。手には、最後の一本。銀色に光る、小瓶。
「来たか。“引きの薬師”」
オルダ――棚原は俺を見ても、驚かなかった。
「間に合ったな。今まさに、世界が完成するところだ。この、最後の一本を加えれば。……見ているがいい。死のない世界の、始まりを」
「やめろ、棚原さん!」
俺は叫んだ。
「その一本を加えたら、完成じゃない。破裂だ! あんたにも、視えてるはずだ。その釜が、もう限界だってことが!」
「視えている、だと?」
オルダの、目が細くなった。
「私に視えているのは、あと一歩で届く悲願だ。もう誰も、死なせずに済む世界。……お前のような、確かめてばかりの臆病者には、一生届かない場所だ」
オルダが小瓶を、渦にかざした。
――間に合わない。
俺は相互帳を開いた。地図を頼りに、渦の“要”を探す。あそこだ。あの、青と金の繋がり。あれを断てば連鎖の一つが、止まる。
俺は鞄から、薬を取り出し、渦のその一点に投げ込んだ。
薬が、渦に触れる。一瞬その部分の光が、弱まった。
――いける!
そう思った、次の瞬間。
渦は、鎮まらなかった。それどころか、俺の投げた薬が、別の繋がりを暴れさせた。断った一本の、代わりにその隣の三本が、暴走を始める。渦がいっそう激しく、唸る。天井の梁が、みしりと軋んだ。
「くっ……!」
焦った。要を一つ断っただけじゃ、駄目だ。順番が。組み直す、順番が違う。この釜の中は街ぜんぶより、ずっと複雑だった。何百という薬が、何千という繋がりで、絡み合っている。一本間違えれば、連鎖が別の方向へ走り出す。俺はまだこの巨大な渦の、全部を読み切れていない。
あの井戸のときと、同じだ。焦って、一つの相性を見落とせば。良かれとした手が、事態を悪くする。
「はっはっは!」
オルダが嗤った。渦の光を、顔に浴びながら。
「見たか! それが、お前の引き算の限界だ! 断つ、断つ断つ。だが断てば断つほど世界は荒れる! 引くことでは、何も救えん! 足すことでしか、救いはないのだ!」
俺は荒い息をついた。
落ち着け。焦るな。焦って、確かめ損ねたら。あの井戸の、二の舞だ。
俺は渦を、断つのをやめた。そして、オルダを見た。
この渦のいちばんの、要は。薬じゃない。
――この人だ。
この渦を生み出している、根っこ。オルダの、心。そこを解かなければ。この暴走は、止まらない。
「棚原さん。一つ、聞かせてください」
俺は震える声を、抑えて言った。
「あんた、前に言いましたよね。“あの日のように、手の中で、冷たくなっていくのを見たくない”って。……あの日、誰を失ったんですか。あんたをこんなにまで、させた人は」
オルダの、手が止まった。
渦の音だけが、部屋に響く。
長い、沈黙のあと。オルダは渦を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……娘が、いた」
その声はこれまでの、傲慢な声とまるで違った。
「前世で。まだ小さな、娘が。病にかかってな。私はあらゆる薬を買った。名医を探した。高い薬を飲めるだけ、飲ませた。もっともっと、と。……足りない分は、足せばいいと信じて」
オルダの、肩が震えていた。
「だが、娘は死んだ。私の腕の中で。あんなに、薬を飲ませたのに。……足りなかったのだ。まだ、足りなかった。だから、死んだ。私はそう結論した。この世界に来て、力を極めれば。もう二度とあんな思いは、しなくて済むと」
オルダの、肩が震えていた。渦の光がその白い衣に、揺れる影を落としていた。
「あの子の手は、最後まであたたかかった。それが少しずつ冷たくなっていくのを、私は、ただ見ていた。何もできずに。薬箱には、まだ飲ませていない薬が、山ほどあったのに。……あと一本、飲ませていれば。あと一本強い薬が、あれば。私はずっとそう思い続けてきた。三十年も。四十年も」
その姿に俺は前世の、自分を重ねた。
受話器を握って震えていた、俺。あと一本、電話をかけていれば。あの人をベッドに、縛らずに済んだ。俺もずっとそう思い続けてきた。“あと一つ”の、後悔を。
俺と、この人は。同じ、後悔を抱えていた。
ただ、その後悔から。俺は確かめることに。この人は、足すことに。正反対の、道を選んだだけで。
俺はその話を聞きながら。
相互帳の、ある頁を開いた。前世の俺の記録が、この帳面にはない。だが俺の頭の中には、ある。何百人もの、薬歴が。飲みすぎて壊れていった、人たちの記録が。
俺は静かに言った。
「棚原さん。……その娘さんは。本当に“足りなくて”、亡くなったんですか」
「なに?」
「たくさんの薬を、飲ませたって言いましたよね。名医を何人も。高い薬を飲めるだけ。……もしかしたら。その、たくさんの薬が。互いにけんかして。娘さんの体を、余計に苦しめていたんじゃ、ないですか」
オルダの目が大きく、見開かれた。
「あんたのあの一件も。……ちゃんと、ここに書いてあるんです。俺の帳面には。“よかれと思って重ねた薬が、人を、殺した”っていう記録が。何十件も」
俺は相互帳を掲げた。頁をめくる。ノルの名。セリカの名。この街で重ねがけに、倒れかけた無数の人々。そして俺が救えた、無数の人々。
「セリカさんも。妹さんを重ねがけで、亡くしてる。よかれと思って、たくさん飲ませて。……あんたと、同じだ。この街にはそういう人が、たくさんいる。“足せば救える”って信じて、大切な人を、失った人が」
俺は渦の中の、オルダをまっすぐに見た。
「あんたの娘さんは。足りなくて死んだんじゃ、ないかもしれない。……足しすぎて、死んだのかもしれない。あんたがいちばん、見たくなかった答えだ。だからあんたは、四十年目を逸らし続けた。“足りなかった”ってことにしてきた。そのほうが、楽だから。自分を責めなくて、済むから」
オルダの手から、銀の小瓶が滑り落ちた。
床で、割れる。澄んだ音が渦の唸りの中で、やけに響いた。中身が床に広がりじゅうと音を立てて、蒸発した。
「嘘だ」
オルダの声が、掠れた。
「嘘だ……私はあの子を、救おうと……足りない分を、足そうと……」
「知ってます。あんたは、必死だった。娘さんを愛してた。……でも、その愛が。その“足す”が。もしかしたら」
俺は一歩、前に出た。
「あの子を、苦しめたのかもしれない。それはあんたのせいじゃない。誰も、教えてくれなかったんだ。“混ぜると危ない”ってことを。名前も、なかった。疑うことも、できなかった。……あんたは、その中で精一杯やった。ただ、それだけなんです」
それはいつか、俺がセリカに言った言葉と、同じだった。妹を死なせたと、自分を責めるセリカに。
オルダの、頬を一筋水が伝った。
この傲慢な、塔の主が。世界を、壊そうとしていた男が。渦の光の中で、泣いていた。四十年堰き止めてきたものが、崩れるように。
「私は……ずっと……あの子に……」
その声が、嗚咽に変わる。
渦がひときわ、大きくうねった。まるでオルダの、心が乱れるのに合わせて。塔全体が、悲鳴のように軋んだ。
――今だ。
オルダの心が揺れ渦の“縛り”が、緩んだこの一瞬。俺は相互帳を開いた。渦の、全体を視る。乱れた今なら、繋がりの一本一本が、はっきりと視えた。
俺は鞄の中身を握りしめた。
ここから先が、本当の勝負だった。




