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異世界おくすり手帳 ―― 重ねがけ禁忌の薬剤師  作者: もしものべりすと


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第十八章「疑義照会、ふたたび」

夜が明けると、俺は店の前に人を集めた。


 セリカはまだ本調子じゃない。それでも寝台から、起きてきた。壁に手をつきながら。ノルと、その母。ガレン。トーゴ。ミリ。あの老夫婦。俺の“引く”を、信じてくれた街の人々。数は、多くない。二十人ほどか。だが目には、火があった。


 街の空はもうはっきりと、青く濁っていた。太陽がその膜の向こうで、ぼんやりとにじんでいる。時々遠くの家から、悲鳴が上がった。暴走は、まだ街を蝕み続けている。


 俺は床に広げた、あの地図をみんなに見せた。


「聞いてください。俺はこの街を、救う方法を見つけました」


 俺の声は、震えていなかった。自分でも、驚くほど。


 みんなの視線が、俺に集まる。前世ならこれだけの人に、見られただけで俺はうつむいて、声を失っていた。だが今は、違った。この人たちを救いたい。その思いが、恐怖よりずっと大きかった。


「この、相互帳。ここに街じゅうの人が、飲んだものが書いてある。これをたどれば、暴走がどこでどう繋がってるか、視える。……つまりどこを止めれば、連鎖が鎮まるかも、視えるんです」


 俺は地図の、要になる点を指した。


「やることは、二つ。一つはこの街の、危ない組み合わせを、一軒ずつ止めて回ること。皆さんにお願いしたい。もう一度家々を回って、危ない薬を、抜いて安全な形に組み直す。祭りのあと一包化したときと、同じです。あれをもっと、急いで街ぜんぶで」


「そんなの、何度でもやってやる」


 ガレンが太い腕を叩いた。


「あんたに、命を救われた。今度は俺たちが、街を救う番だ」


「もう一つは」


 俺は塔を見上げた。青白い渦が、頂で脈打っている。


「あの、釜の暴走を止めること。それは――俺がやります。この地図を、持って塔へ行く。渦の真ん中の要の繋がりを、断って組み直す」


 みんなが息を呑んだ。


「一人で? あの塔に?」


 セリカが俺の腕を掴んだ。まだ、青ざめた顔で。


「駄目よ。あそこには、オルダがいる。あんたを、殺そうとするに決まってる。前に行ったときだって、生きて帰れたのが、奇跡なのよ」


「分かってます。でもあの渦を、間近で視て組み直せるのは、俺だけです。この目とこの地図が、なきゃできない。……ほかの誰にも、代われないんです」


 俺は静かに続けた。


「それに、これは、俺がやらなきゃいけないことなんです」


「それでも、行きます」


 俺はセリカの手に、自分の手を重ねた。


「前世で俺は一本の電話が、かけられなかった。危ない処方に気づいてたのに。“先生に確認させてください”って、その一言が、言えなかった。臆病で。……その一言を、言ってれば助かった人が、いたのに」


 俺はみんなを見回した。


「薬剤師の仕事に疑義照会っていうのが、あります。処方に、危ないところを見つけたら。たとえ相手が、偉い医者でも。“この処方はおかしい”って、問い直すこと。確かめること。……それは薬剤師の、義務なんです。医者がうっかり危ない組み合わせを、出してしまうことは、ある。人間だから。だから最後に薬を渡す薬剤師が、もう一度確かめる。おかしいと思ったら、必ず問い直す。それで防げる事故が、たくさんある。……でも俺はそれが、できなかった。ずっと」


 前世のあの夜が、よみがえる。


 受話器を握って。震えて。「先生に確認を」の一言が、言えなくて。棚原さんの、視線が怖くて。回転率を下げるな、の一言が怖くて。俺は疑義照会を飲み込んだ。そのたった一度の、飲み込みが。人を、ベッドに縛った。


 あれから、ずっと。俺はその言葉を、喉に詰まらせてきた。声を上げれば、潰される。確かめれば、疎まれる。だから、うつむいた。


 拳を握る。


「今この世界には、間違った処方が出されてる。“重ねれば、救われる”っていう、大きな間違った処方が。オルダが世界に出した処方だ。それを、誰も疑わない。疑えない。塔の言うことは、絶対だから。……だから、俺がやります。世界に向かって、疑義照会を。“その処方は、間違ってる”って。今度こそ震えずに、言うんです」


 沈黙が、落ちた。


 やがて、ノルが小さな手を挙げた。


「ぼくも、いく!」


「駄目だ。ノルはみんなと、街を」


「やだ! ぼく、あにいちゃんと――」


「ノル」


 俺は膝をついて、ノルと目を合わせた。


「君には、もっと大事な役目がある。この相互帳の、写しを作ってほしいんだ。俺がもし、戻らなくても。この記録さえ、残れば。街は、守れる。……君はこの街の、次の“書く人”だ。頼めるか」


 ノルは涙を、ためてこくりとうなずいた。


「うん……ぼく、かく。ぜったい、かく。あにいちゃんがおしえてくれた、みたいに。だれが、なにをのんだか。あぶない、くみあわせを」


「そうだ。上手だ」


 俺はその頭を撫でた。小さな手が俺の袖をぎゅっと、握って離した。


 この子が、いれば。俺がいなくなっても。この街の“確かめる”は、続いていく。記録は一人の手から、次の手へ。そうやって、繋がっていくものだ。薬歴も。相互帳も。命を守る術は、一代では終わらない。


 準備は、整った。


 街の人々は、地図を手に家々へ散っていく。危ない繋がりを、止め良い繋がりを繋ぎ直すために。


 俺はその光景を見送った。


 ガレンが一軒の戸を叩く。「おいあんたの家の薬、確かめさせてくれ。あの薬師の、地図がある」。最初は疑っていた住人も、隣の家が助かったと聞いて、扉を開ける。トーゴが離脱の経験を語りながら、「急にやめちゃ、駄目だ。少しずつだ」と、教えて回る。ミリが若い娘たちに、「青いのはやめな。あたしが保証する」と、声をかける。老夫婦が握り飯を、炊き出して疲れた人々に配る。


 安心が。恩が。手から手へ渡っていく。祭りの夜プラセボの水が、広場を巡ったように。今度は、街ぜんぶを。これも相互作用だ。良いほうの。人と人が繋がって、支え合う。悪い連鎖を良い連鎖で、押し返していく。


 俺が一人でやってきた“確かめる”が。今街ぜんぶの、手に渡っていた。


 胸が、熱くなった。俺はもう一人じゃ、なかった。


 セリカが俺に、鞄を渡した。


「解毒に使えそうな薬、詰めておいた。……絶対、戻ってきなさい。約束、まだ生きてるんだからね」


「はい。必ず」


 セリカはしばらく俺の顔を見ていた。何か、言いたそうに。だが結局彼女は俺の胸を、とんと一つ叩いた。いつもの、あの仕草で。


「あんたの“はい”は、昔と違うね」


「え?」


「初めて会ったとき。あんたの“はい”は、いつも消え入りそうだった。今のは……ちゃんと、聞こえた。それだけ」


 彼女はぶっきらぼうに、そう言って目を逸らした。だがその頬が、ほんの少し赤かった。


 俺は鞄を受け取った。あたたかい重さだった。彼女がまだ本調子でもない体で、俺のために詰めてくれた薬。


「行ってきます」


 俺は相互帳を、抱えて塔へ歩き出した。


 だが塔の門の前で、足が止まった。


 あの、渦の真ん中にたどり着くには。塔のいちばん奥の、核に触れなければならない。


 そこには、オルダが。前世の棚原さんが、待っている。


 俺のいちばん、恐れてきた人が。


 あの、値踏みする目。あの、薄い声。回転率を下げるな。大げさなんだよ、お前は。確かめてばかりで、何も救えない。……その言葉の、一つ一つが、今も俺のいちばん柔らかいところに刺さっている。


 あの人の前に立てば。俺はまたうつむいてしまうかもしれない。声を失うかもしれない。前世の、あの震える自分に、戻ってしまうかもしれない。


 それでも。


 俺は相互帳を抱きしめた。この一冊の重さが、俺を支えてくれる気がした。街じゅうの、命の重さ。俺が恥じてきた、地味な記録の重さ。


 行こう。


 今度こそ、確かめに。


 俺は塔の、門をくぐった。

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