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異世界おくすり手帳 ―― 重ねがけ禁忌の薬剤師  作者: もしものべりすと


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第十七章「薬歴」

俺はその夜をまるごと相互帳と、過ごした。


 店の床に、頁を一枚ずつ、破らないようにそっと広げていく。ランプの油を足す。今度は、忘れなかった。街じゅうの人の記録が、床いっぱいに並んだ。誰がいつ、何を飲んだか。何と何が、危なかったか。


 膝が痛くなるまで、這いつくばった。目が乾いて、しょぼしょぼした。指は紙で、何度も切った。それでも、手を止めなかった。外ではまだ街が、うめいている。時間が、ない。だが焦ってまた確かめ損ねるわけには、いかない。焦りと慎重さの、ちょうど真ん中を探りながら。加減を探りながら。俺は記録を読み続けた。


 薬歴、と前世では呼んだ。その人がこれまで使ってきた薬の、履歴。地味な、記録。医者にも患者にも、軽んじられる。だが薬剤師だけは、それを命がけで書き続ける。なぜならその一冊にだけ、その人の体の“全部”が、書いてあるから。今、飲んでいるもの。昔、飲んだもの。合わなかったもの。効いたもの。それを時の流れとして、一本に繋いだもの。それが薬歴だ。


 俺はその地味な記録を、五年前世で続けた。棚原さんに「無駄なもの」と笑われても。この世界でも、続けた。「変わり者」と呼ばれても。


 ――ずっと恥ずかしかった。


 几帳面すぎる。心配性すぎる。確かめてばかり。書いてばかり。何かを大きく成し遂げる人間じゃない。ただ細かくこつこつと、記録するだけの地味な男。それが俺だった。前世でも、この世界でも。


 同僚は、颯爽と処方をさばいていった。俺だけが、いつも遅かった。一枚の処方箋に何度も目を通し、過去の記録と照らし合わせ、危ない重なりがないかを確かめる。「灰谷は、要領が悪い」。そう、言われた。棚原さんには、「お前の几帳面は、店の足を引っ張ってる」と。


 この世界でも、そうだ。派手な付与も、使えない。強い霊薬も、練れない。俺にできるのは、来た人の話を聞いて書いて、危ない組み合わせを探すこと。それだけ。「引きの薬師」なんて、崇められても。俺自身は、ずっと思っていた。俺なんて本当は大したことは、していないと。ただ確かめて書いているだけだ、と。


 だが。


 今床いっぱいに広がった、この記録を見ていて。


 俺は初めて、気づいた。


 この、地味な習慣こそが。俺が恥じてきた、この“書く癖”こそが。


 ――今この街を救えるたった一つの、鍵だ。


 前世であの患者を、ベッドに縛った夜から。俺は自分の慎重さを、臆病だと思ってきた。声を上げられない、弱さだと。だが、違ったのかもしれない。慎重さは、弱さじゃない。確かめることは、逃げじゃない。それは――人を、守る力だ。ただ俺が、それをそう思えなかっただけで。


 付与を重ねられる者は、いくらでもいる。強い霊薬を練れる者も。だが街じゅうの人の、飲んだものを、一冊に書き留めてきた者は。この世界で俺、ただ一人だった。


 オルダにも、これはない。塔の錬成術師にも。誰にも。


 俺のいちばん、地味で。いちばん、恥ずかしかった部分が。誰にも真似できない、武器だったのだ。


 俺は床に這いつくばって、記録を繋いでいった。


 青い印の、人と人。線を引く。この人とこの人は、同じ薬。だから、同じように危ない。この繋がりが、あの井戸でああ暴れた。この繋がりが、あの家でこう連鎖した。一つずつ、たどっていく。


 やがて床の上に、巨大な一枚の“地図”が、浮かび上がった。


 街ぜんぶの、相互作用の地図。


 俺はその上に、立って見下ろした。無数の線が、街の人々を繋いでいる。ある繋がりは、赤く危ない。ある繋がりは、青く静かに街を蝕んでいる。だが――よく見れば。ある繋がりは、あたたかい色をしていた。ノルと、その母。俺と、セリカ。祭りの夜水を渡し合った、人々。そういう繋がりも、確かにこの地図の中にあった。


 どこで、何が繋がり。どこで暴走が、始まり。どの繋がりをどこで断てば、連鎖が止まるか。


 ――視えた。


 俺は震える手で、その地図をなぞった。指先が、線の一本一本をたどる。前世で何百人もの薬歴を、面で読んできたこの目が。今街ぜんぶを、一人の患者の体のように読んでいた。


 塔の釜の暴走も、これと同じだ。あの釜の中も無数の薬の相互作用の、渦。バラバラに見えて、必ず順番がある。何が何を暴れさせ、それが次を呼ぶ。その“順番”さえ、分かれば。要になる繋がりを、いくつか断つだけで。渦全体を鎮められる。全部を力ずくで抑え込む必要なんて、ない。むしろ力ずくは、逆効果だ。オルダがそれを証明している。


 だが、と俺は思った。


 ただ断つだけでも、駄目だ。


 この街を見ろ。人と人が薬を通して、繋がっている。その繋がりを、全部断ち切ってしまえば。それはそれで、街は死ぬ。バラバラになる。祭りの夜プラセボの水を、手から手へ、渡したときのように。良い繋がりも、この街にはある。


 相互作用は。


 悪いものだけ、じゃない。


 俺はずっとそれを、断つものだと思ってきた。危ないから、引く。混ぜない。それが俺の、仕事だと。


 だが、違う。


 危ない相互作用は、止める。でも、良い相互作用は――繋ぎ直す。断つだけじゃない。組み直すんだ。


 相互作用は、断つものじゃない。組み直すものだ。


 その考えが、胸に落ちた瞬間。俺の中で、何かが繋がった。


 俺は地図の、ある一点を見つめた。セリカが吸い込んだ、あの変質毒。それを打ち消すには。


 これまでは「毒を薄める」ことしか、考えなかった。だから、失敗した。だがこの地図で、視れば。あの毒を別の二つの薬と、正しい順で、組み合わせれば。毒を無害な、ただの水に変えられる。悪い相互作用を良い相互作用で、上書きする。


 俺は跳ね起きた。棚の薬を二つ掴む。指が、震えていた。だがそれは恐怖の震えじゃ、なかった。


 セリカの寝台へ走った。


 彼女の口をそっと開かせる。一つ目の薬を一滴。喉がこく、と動く。俺は頭の中で、数を数えた。この薬が、体に回るまで。半減期の、半分。焦るな。速さを間違えるな。あのノルを助けた、最初の日から。俺がずっと守ってきた作法だ。


 そして、正しい間で。二つ目の薬を一滴。


 二つが彼女の体の中で、出会う。


 俺の目に視えた。変質した青い毒が、その二つの薬に、包み込まれほどけていく。悪い相互作用が、良い相互作用に上書きされていく。毒が、ただの無害な水へと姿を変えていく。


 セリカの青かった唇に、ゆっくりと赤みが差した。


 頬から、青が引いていく。


 荒かった息が、深く静かになっていく。


 やがて彼女のまぶたが、震えた。


 薄く、目が開く。焦点が、ゆっくりと俺の顔に合っていく。


「……リツ? なに、そのひどい顔」


 俺はその場に崩れ落ちた。


 涙が、勝手にあふれた。前世でもこの世界でも、流したことのない、種類の涙だった。


「よかった……本当に、よかった……」


「泣くのは……あんたの、仕事じゃないでしょ」


 セリカがかすれた声で、笑った。


 俺は涙を拭った。そして床いっぱいの、地図を振り返った。


 やることが、決まった。


 この地図を、持って塔へ行く。あの、暴走の渦を止める。倒すんじゃない。断つんじゃない。組み直すんだ。危ない繋がりを止めて。良い繋がりを繋ぎ直す。相互作用を、悪者にするんじゃなく。味方につける。


 そのために、必要なのは力じゃない。この、一冊だ。街ぜんぶの飲んだものの、記録。俺が恥じてきた、地味な書く癖。


 窓の外が、白み始めていた。完成の日まで、あと一日。


 オルダは明日、最後の薬を釜に加える。そして世界は、破裂する。それまでに俺はあの渦の、真ん中にたどり着かなければ、ならない。


 怖くない、と言えば嘘になる。膝はまだ少し、震えている。


 だが、俺はもううつむかなかった。


 俺は相互帳を抱き上げた。震える手で、開き直す。前世から頁の隅に、書き続けてきた、あの言葉がそこにあった。重ねる前に確かめる。


 ――確かめよう。全部。


 俺はそう声に出して、言った。今度は震えて、いなかった。

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