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異世界おくすり手帳 ―― 重ねがけ禁忌の薬剤師  作者: もしものべりすと


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第十六章「副作用」

セリカは目を覚まさなかった。


 寝台の上で、浅い息を繰り返している。額に脂汗が、浮いていた。俺は一晩じゅう、あらゆる手を尽くした。真水で、体を洗い流し。解毒になりそうな薬草を、片端から試し。彼女の手を、握って名を呼び続けた。だが俺が作ってしまった、あの変質した毒には、何一つ効かなかった。


 ランプの灯が、少しずつ細くなっていく。油が、切れかけていた。俺はそれを足すことも、忘れていた。


 窓の外では、街がまだうめいていた。倒れた人。崩れた家。焦げた匂い。あの賑やかだった市場は、もうどこにもなかった。俺がこの一月で、少しずつ変えてきたはずの街が。たった数日で、瓦礫になった。


 夜が明けても彼女の唇の青は、消えなかった。むしろ少しずつその青が頬にまで、広がっていた。俺の目には毒が彼女の体の奥へ、静かに進んでいくのが、視えた。あと、一日か。二日か。この目はそういう残酷なことばかり、正確に視る。


「せんせい……セリカせんせい、しんじゃうの?」


 寝台のそばで、ノルが泣いていた。母親が、その肩を抱いている。小さな手が、セリカの、動かない指をそっと握っていた。


「あにいちゃんが、たすけてくれるんでしょ? ぜったい、たすけてくれるよね?」


 俺は答えられなかった。


 その無邪気な信頼が、俺をいちばん深く抉った。


 この子は、俺を信じている。あの祭りの夜、俺に救われたから。だが俺はその俺の手で、セリカをこの状態にした。子どもの信じる“薬師”は、とっくに壊れているのに。


 俺はふらりと、店の奥へ下がった。


 カウンターの上に、相互帳が置いてあった。


 この一冊に街じゅうの人の、飲んだものが、記されている。俺が五年前世でやってきて、この世界でも、続けてきた記録。地味で几帳面で、誰にも褒められない、俺の唯一の武器。


 その武器が、なんの役に立った。


 街は、壊れた。人々は、倒れた。俺の“確かめ”には、抜けがあって井戸を毒にした。そして、セリカを。俺がいちばん、確かめなきゃいけなかった相手すら、守れなかった。


 この一月俺はこの帳面に、街の命を一つずつ、書き溜めてきた。誰かが助かるたびに、一行増えた。そのたびに、少しだけ前世の後悔が、軽くなる気がした。俺にも、救える人がいる。うつむかなくていい。そう、思えた。


 だがその全部が、たった数日で瓦礫の下に埋もれた。俺の書いた名前の、半分は今通りで倒れている。


 良かれと思って、動いた。全部が、裏目に出た。


 ――副作用、だ。


 俺は乾いた声で、笑った。


 薬には、必ず副作用がある。本来の目的の裏側で起きる、望まない作用。頭痛を治す薬が、胃を荒らす。眠りを助ける薬が、朝体をだるくする。どんなに良い薬にも、それはついて回る。だから薬剤師は効き目だけでなく、副作用も天秤にかけて、使う。良いことの裏で起きる、悪いこと。その、両方を見て。


 俺の“善意”にも、副作用があった。人を救おうとした、その裏で。人を倒す、副作用が。


 いや、と俺は思った。前世でも、そうだったじゃないか。俺があの夜、ためらったのも。声を、上げられなかったのも。全部「間違えたくない」という、俺の慎重さの、副作用だ。慎重すぎて、動けない。確かめすぎて、間に合わない。そして今度は焦って確かめ損ねて、毒を作った。


 どっちに転んでも、俺は人を傷つける。


 俺という人間の、存在そのものに、副作用がついて回っているみたいだった。


 なら、いっそ。


 この目も。この記録も。ないほうが、よかったんじゃないか。


 視えなければ。書かなければ。俺は余計なことを、せずに済んだ。うつむいて、黙って隅に座っていれば。少なくともこの手で人を倒すことは、なかった。


 俺は相互帳を掴んだ。


 そして店の裏の、燃え残った瓦礫の、くすぶる火に向かって歩いた。


 こんなもの。燃やしてしまえ。


 俺の思い上がりの、証だ。ハズレのくせに世界を救うなんて。引くことで、人を助けるなんて。夢を見た。その報いが、これだ。セリカの、青い唇が。倒れた人々の、呻きが。全部俺が夢を見た、代償だ。


「にいちゃん! なにするの!」


 ノルが追いかけてきた。俺の腕にしがみつく。小さな指が、必死に俺の袖を掴んでいた。


「その帳面だいじなやつでしょ! ぼくの、なまえもかいてある! すてちゃ、だめだ!」


「離してくれ、ノル」


 俺の声は自分でも驚くほど、冷たかった。


「これは役立たずだ。こんなもの書いてたって、誰も救えない。……俺は間違ってた。最初から。ハズレのくせに、世界を救おうなんて、思い上がってたんだ」


「ちがう!」


 ノルが叫んだ。小さな体で、精一杯。涙をぼろぼろ、こぼしながら。


「にいちゃんはぼくをたすけてくれた! あのとき、みんな“もっとくすりを”って、いった。でもにいちゃんだけ“ひきなさい”って、いった。だからぼくいきてるんだ! あの帳面に、ぼくののんじゃだめな、くすりがかいてあるから!」


 ノルは俺の手から、帳面を守るように両腕を広げた。


「せりかせんせいも、いってた。“この帳面は、この街のたからものだ”って。“リツがいなくなっても、これがあればみんなまもれる”って! だから――すてちゃ、だめだ!」


 俺の手が、止まった。


 この街の、たからもの。セリカがそう言った。俺がいなくなっても、これがあればと。


 その隙に、風が吹いた。


 燃え残りの、熱を含んだ風だった。


 俺の腕から、相互帳がずり落ちる。地面に落ちた拍子に、頁が大きくめくれた。ぱらり、ぱらりと。くすぶる火の、熱風にあおられて。


 一頁。二頁。街の人々の名が、次々と風にめくれていく。ノルの名。ガレンの名。トーゴの名。あの老夫婦。ミリ。俺がこの一月で、確かめて引いて書き留めてきた、命の記録。


 そしてある一頁で、めくれが止まった。


 風がその頁を、開いたまま押さえていた。まるで誰かの手が、そこを指さしているように。


 俺の視線が、吸い寄せられた。


 それは祭りの夜の、記録だった。倒れた人々の、名前。飲んだもの。青い薬。そして――俺があの夜、書き加えた一行。


 「全員が同じ配り手から、青を受け取った」。


 その隣の頁には、別の日の別の人々の記録。だがそこにも、同じ青い印。そして、よく見ると。


 青い印のついた人と、別の青い印のついた人が。同じ薬を、同じ日に飲んでいる。その二人はまた別の三人と、繋がっている。線が、線を呼ぶ。


 ――待て。


 俺の、頭の奥で。凍りついていた何かが、かすかに動いた。


 この青い印の、繋がり方。バラバラに見えた、街の人々が青い薬を通して、一本の線で繋がっている。誰が誰と、同じ薬を飲んでいるか。どの薬とどの薬が、危ない重なりを起こすか。それが全部、この一冊に書いてある。


 俺はいつも一人の患者の体の中の、相互作用を視てきた。この薬とこの薬が、けんかすると。


 だが、もし。


 街ぜんぶを、一人の“体”だと思ったら。


 街じゅうに広まった、無数の薬。それらが、どこでどう繋がって、どこで危ない連鎖を起こすか。この相互帳は――街ぜんぶの、相互作用の、地図なんじゃないか。


 塔の釜の暴走も結局は相互作用の、連鎖だ。何と何がどの順で、繋がって暴れているか。それが分かれば。どの繋がりをどこで断てば、連鎖が止まるか。


 この地図が、あれば。視えるかもしれない。


 俺は地面に膝をついた。落ちた帳面に、両手を伸ばす。熱風で頁の端が、焦げ始めていた。俺は慌てて、それを胸にかき抱いた。


 燃やそうとしていた、その一冊が。


 俺にたった一つの、道を告げようとしていた。


 ――確かめよう。もう一度。今度こそ、全部。


 その言葉が、口の中で小さく形になった。前世から、俺がずっと頁の隅に書いてきた、決まりごと。重ねる前に確かめる。今俺はそれを、自分自身に言い聞かせていた。逃げるな。うつむくな。まだ、終わっていない。

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