第十五章「相互作用の連鎖」
連鎖は、止まらなかった。
毒の井戸で倒れた人を見て、街は恐慌に陥った。「呪いだ」「毒だ」と、叫び声が上がる。人々は我先にと、家の霊薬をあるだけ飲み始めた。身を守ろうとして。強くなろうとして。
だがそれが、次の連鎖を生んだ。
青い薬。元気水。古い霊薬。あらゆるものが、体の中で混ざり合う。一人が倒れそれを見た隣人が、怯えてまた薬を重ね、その隣人が倒れる。相互作用の、連鎖。ドミノが、倒れるように。街の一区画が、まるごと崩れていく。
空気が、青く澱んでいた。あちこちで暴走した付与が、火花のように爆ぜる。焦げた匂いと、毒の匂いと血の匂い。地面には割れた瓶の破片が、散らばりその上を、逃げ惑う人々が踏みつけていく。子どもの泣き声。老人の呻き。誰かが、誰かの名を呼び続けている。
俺が思い描いた、最悪の光景が。今目の前で、現実になっていた。青い薬が、街じゅうに広まったら。みんながそれを重ねたら。何が起きるか。俺には、視えていた。視えていたのに止められなかった。それどころか、俺の手が、その引き金の一つを引いてしまった。
俺はその中を、ふらふらと歩いていた。
助けなければ。分かっている。だが体が、動かない。俺が薄めた井戸の水が、人を倒したのだ。俺が動くたびに、事態は悪くなる気がした。俺の手は、もう信じられなかった。
この目が、憎かった。何が「視える」だ。危ない組み合わせが、視えるくせに。いちばん肝心なときに、たった一つの相性を見落とした。この目が正確だからこそ、俺は自分が変えてしまった毒を、正確に視てしまう。倒れた人の体の中で、それが広がっていくのを、一部始終見せつけられる。いっそ何も視えなければ、楽だったのに。
前世でも、そうだった。危ないと、分かっていた。分かっていて、間に合わなかった。分かるということは、時にいちばん残酷な罰だった。
「リツ! こっち! 手を貸して!」
セリカの声が、飛ぶ。
彼女は崩れかけた家の前で、倒れた子どもを抱え上げていた。俺は駆け寄ろうとして――足が、すくんだ。
もし、俺がまた確かめ損ねたら。この子も俺の手で、倒れるかもしれない。
「何、してるの! 早く!」
「……俺が行っても。また、間違えるかもしれない」
声が、掠れた。
「俺が薄めた水で、人が倒れたんだ。俺の“引く”は、もう信じられない。俺なんかが、触ったら――」
「馬鹿!」
セリカが怒鳴った。子どもを抱えたまま。額に汗が、光っていた。
「一回間違えたくらいで! あんたがこれまで救った人の数を忘れたの! ノルもガレンもトーゴもあの井戸のこと以外、みんなあんたが救った命よ! 今目の前で死にかけてる子がいるのよ! あんたの目が、必要なの!」
「でも――」
「でもじゃない!」
彼女の声が、震えていた。怒りじゃない。必死だった。
「完璧な人間なんていないの! 間違えるわよ、人間だもの! あたしだって妹を死なせた! それでも治療師を続けてる! 間違えたなら、次を救えばいい! それが生きてる者の務めでしょ!」
その一喝に、俺の足が動いた。
俺は子どもの元へ駆け寄った。膝をつき脈を取り、飲んだものを確かめる。今度こそ、慎重に。一つずつ。青い薬と、元気水。定石通りの、過量。薄め水は――使えない。あれは、変質する。ならば、ただの真水で。一滴ずつ。焦らず。時間をかけて、体の中の濃さを下げていく。
子どもの唇に赤みが、戻ってくる。胸が、上下する。呼吸が、戻った。
「ほら、見なさい」
セリカが汗だくの顔で、笑った。
「あんたの目は、間違ってない。ちゃんと、救えた」
俺はうなずいた。ほんの少しだけ、手の震えが止まった。彼女の言葉が、崩れかけた俺の足元を、もう一度支えてくれた気がした。
――そのときだった。
崩れかけた家の、二階から悲鳴が聞こえた。
「まだ、上に人がいる!」
誰かが、叫んだ。老人が逃げ遅れて、取り残されている。家は暴走した付与の余波で、今にも崩れそうだった。柱が、軋む。壁に亀裂が、走る。
「セリカさん、危ない!」
だがセリカは、もう駆け出していた。
「治療師が見捨てられるわけ、ないでしょ!」
彼女は崩れかけた家の中へ飛び込んだ。埃が、舞い上がる。
「セリカさん!」
俺は追おうとした。だが崩れる瓦礫が、行く手を塞いだ。頭上から砕けた瓦が、降ってくる。俺は腕で頭をかばうのが、精一杯だった。
家の中から、物が崩れる音。セリカが老人に呼びかける声。「立てますか」「掴まって」。焦れるほど、長い時間だった。
次の瞬間。
家の中で、閉じ込められていた霊薬の樽が、暴走に呑まれた。
青い光が、窓から漏れる。ぶわっと、膨らむ。爆ぜる。
もやもやとした、毒の煙が家じゅうに噴き出した。俺が樽で見たのと、同じ煙。あの、変質した青の毒。あれを吸えば。
「セリカさん! 息を、止めて! 逃げて!」
俺は絶叫した。喉が、裂けそうだった。
時が、止まったように感じた。
崩れかけた戸口。埃と煙の、向こう。
やがて、その煙をかき分けて。
セリカがよろめき出てきた。腕に、あの老人を抱えて。髪が乱れ顔は煤で、汚れている。それでも老人をしっかりと、抱えていた。彼女は外の仲間に、その体を託した。
「ちゃんと、診てあげて。あたしは……大丈夫」
だが彼女自身の顔は、蒼白だった。口元を押さえている。指の間から、荒い息が漏れていた。
「セリカさん!」
「……げほっ。だいじょう、ぶ。ちょっと、煙を吸っただけ」
そう言って、彼女は笑おうとした。いつものぶっきらぼうな、笑い方で。
だがその足が、がくりと崩れた。
俺は間に合わなかった。
彼女の体が、ゆっくりと傾いていく。手が、宙を掴む。俺は走った。だが、遠かった。数歩の距離が、何倍にも感じた。
彼女の体が、地面に倒れる。目がうつろに、宙をさまよう。唇があの、青い毒の色に染まっていく。
「セリカさん! セリカさん!」
俺は彼女を抱き起こした。脈を取る。速く、そして乱れている。あの、変質した青い毒を吸い込んだ。俺が変えてしまった、あの毒を。
彼女の指が、力なく俺の袖を掴んだ。
「リツ……あの帳面……ちゃんと、次の人に……」
「喋らないで! 助けます! 絶対、助けるから!」
俺は彼女を、抱えて店へ走った。仲間が、道をあけてくれる。ノルの母が泣きながら、ついてくる。
店に運び込み、寝台に寝かせる。俺はあらゆる薬を、頭の中で並べた。この、変質した青い毒を打ち消すもの。中和するもの。……ない。俺の知識にも、この世界の霊薬にも。あの毒は俺が薄め水で、作り出してしまった、新しいものだから。前例が、ない。
俺の目は残酷なほど、正確に視ていた。
彼女の体の中で、毒が静かに広がっていく。心臓へ。肺へ。じわじわと。今すぐ命を奪うほどではない。だが確実に、彼女を蝕んでいる。このままなら、数日ともたない。
俺のせいで。
俺が薄め水で、変質させたあの毒で。
助けようとした手が、いちばん大切な人を倒した。
セリカが俺の腕の中で、荒い息を繰り返していた。
俺は彼女の手を、握ったまま動けなかった。
あたたかい手だった。初めて会った日、俺の“引く”を笑わなかった手。診療所で湯気の立つ茶を、俺の前に置いてくれた手。何百人もの患者に触れて、何人もを見送ってきた、傷だらけの手。妹を死なせた罪を抱え続けてきた手。
その手が、今俺のせいで、冷たくなっていこうとしている。
棚原の言葉が、耳の奥でよみがえった。「あの日のように、手の中で冷たくなっていくのを、ただ見ている」。あの男が狂ってまで、避けようとした光景。それを今、俺が味わっている。
――足すことも、引くことも。人を殺す。
じゃあ俺はどうすれば、よかったんだ。
答えは、出なかった。
窓の外で、塔の渦が勝ち誇るように、青く脈打っていた。
完成の日まで、あと二日。




