第十四章「過量投与」
街が壊れていくのが、目に見えて分かった。
祝福の日から、二日。青い薬を、浴びるように飲んだ者たちが、次々と倒れ始めた。
最初は、めまい。次に動悸。そして、痙攣。祭りの夜と、同じ症状。だが規模が、桁違いだった。あちこちの家から、悲鳴が上がる。治療所の鐘が朝から晩まで、鳴りやまない。
通りにはうずくまる人が、増えていった。母親が、子の名を叫んでいる。老人が、壁にすがっている。若者が口から、泡を噴いている。あの祭りの夜が、街ぜんぶに広がっていた。青い薬を我先にと飲んだ人ほど、重く倒れた。楽園に行こうとして。高い席を得ようとして。重ねれば、重ねるほど。
だが倒れた人の枕元で、家族はまだこう言うのだ。
「もっと強い霊薬を! 早く、飲ませて!」
足りないから、倒れた。だから、もっと足せ。その信仰が、事態を悪化させ続けていた。倒れた体に、さらに薬を注ぎ込む。火に、油を注ぐように。俺が「引け」と叫んでも、その声は、楽園を夢見る人々の熱狂にかき消された。
「違う! 足しちゃ、だめだ!」
俺は声が枯れるまで、叫んだ。だが誰も、聞いていなかった。強い薬にすがるほうが、楽なのだ。引くことには、勇気がいる。信じることが、いる。この街の人々は、まだそれを持っていなかった。
「これは過量投与です」
俺は駆け込んできた家族に、説明する暇も惜しんで、薄め水を注いだ。
「必要な量の何倍もの薬を、体に入れてしまった。どんなに良い薬でも、多すぎれば毒になる。塩だって少しなら、料理をうまくする。でも一度に茶碗一杯口に入れたら、どうなりますか。……体を壊す。薬も、同じです。効きすぎることは効かないことより、ずっと危ない。とにかくこれ以上、足さないで! 引くしか、ないんだ!」
俺とセリカと、わずかな仲間たちで、街じゅうを駆け回った。ノルの母が、水を運びガレンが、倒れた人を日陰へ運んだ。ミリが泣きながら、老人の背をさすった。だが、追いつかない。一人を助けている間に三人が倒れる。手が、足りない。薄め水も、底をつき始めた。
いくら引いても注ぎ込まれる量のほうが、多かった。バケツで、沈む船から、水をかき出しているようなものだ。かき出す間にも船底の穴からは、次々と青い水が、流れ込んでくる。塔が、その穴だった。オルダがその穴を、押し広げ続けている。
夜、店に戻ると、俺は床に崩れ落ちた。全身が、鉛のように重い。腕が、上がらない。
「間に合わない……こんなの、間に合うわけがない」
このままでは完成の日を待たずに、街が死ぬ。オルダが釜を仕上げる前に、青い薬の過量投与だけで、大勢が倒れていく。
俺は相互帳を開いた。震える指で、頁をめくる。青い印はもう数えきれないほど、増えていた。ほとんどの頁に、青が滲んでいた。
――元を断つしかない。
いくら倒れた人を、一人ずつ助けても間に合わない。ならば青い薬が、街に配られる、その大元を止めるしかない。
だが塔には、近づけない。錬成術師たちが、固めている。ならば、せめて、街に出回る青い薬を無害化できないか。
俺は頭の中で、必死に組み合わせを探した。青い薬を打ち消すもの。弱めるもの。……薄め水なら、どうだ。市場で笑われる、あの力を弱める水。あれを大量に樽に流し込めば、青い薬の濃さが、下がる。過量にならない。倒れる人が、減るはずだ。
俺はそう結論した。
だが――今、思えば。俺は焦っていた。いつもの俺なら、必ず、確かめたはずのことを確かめなかった。青い薬と薄め水そのものの、相性を。
塔の使いたちは、街の井戸のそばで、青い薬を樽ごと配っていた。人々はその樽から、汲んで飲む。
俺は一つの、賭けに出た。
夜中俺は仲間たちと、配給所に忍び込んだ。月は青い膜の向こうで、ぼやけていた。見張りの錬成術師が、まどろんでいる隙を、ガレンが作ってくれた。俺は足音を殺して、樽に近づいた。
樽は、五つ。並々と青い薬が、満たされている。ひと目見ただけで、危険な濃さだと分かった。これが街の井戸に注がれる。
「リツ、早くしろ。長くは、もたねえ」
ガレンが小声で、急かす。
俺は抱えてきた薄め水の瓶を、次々と開けた。そして、樽の中に流し込んでいく。青い薬の濃さを下げるために。心臓が、うるさく鳴っていた。手が汗で、滑る。
――これで少しは倒れる人が、減る。
そのはず、だった。
「リツ! 見ろ、あれを!」
ガレンが叫んだ。
樽の中で、異変が起きていた。
薄め水と、混ざった青い薬が――ぶわっと泡立った。もやもやと、白い煙を噴き上げる。俺の目がそれを視た瞬間、全身が凍りついた。
配合変化。
あの、青い薬は。薄め水と、混ぜると――変質する。ただ薄まるんじゃない。別のもっと、たちの悪いものに変わる。あの、赤と金を混ぜたときのように。俺の目が今はっきりと、視ていた。樽の中身が無害どころか、猛毒に変わっていくのを。
しまった。
俺は青い薬を、他の“薬”と重ねたことしか、確かめていなかった。だが薄め水そのものとの、相性を、確かめていなかった。この、青い薬に限っては。よりによって、俺がいちばん頼りにしていた、薄め水と。
――棚原は。
背筋が、凍った。あの男は、これを見越していたのか。俺が薄め水で、対抗してくることを。だから薄め水と混ぜると、変質するように、青い薬を作ったのか。
俺の手のひらの上で、いつも救いだった薄め水が、初めて牙をむいた。
「みんな離れろ! その水を、飲むな!」
俺は叫んだ。だが、遅かった。
樽の青い薬はもう街の井戸に、配られたあとだった。俺が薄めた、その樽から。
夜明けその井戸の水を、汲んで飲んだ人々が、バタバタと倒れ始めた。俺が薄めたはずの、水で。俺が助けようとして変質させてしまった、水で。青い薬を、そのまま飲むより、ずっとひどい症状だった。俺がたちの悪いものに、変えてしまったから。
俺の、引き算が。
俺の“確かめ”の、たった一つの抜けが。
人を倒した。
広場にうずくまる人々を、俺は呆然と見ていた。膝が、震えた。掌に爪が、食い込んだ。前世のあの夜の感覚が、どっとよみがえる。受話器を握ったまま、震えていた俺。確認を後回しにして患者をベッドに縛った、俺。
――やっぱり、俺は。
声を上げても。動いても。結局、人を傷つける。棚原の言う通りだ。俺は確かめてばかりで、何も救えない。いや、それどころか。確かめたつもりで、抜けがあって人を倒した。
助けようとした手が、人を突き落とした。
その事実が、俺の足元を崩していく。
「リツしっかりして! 今は、助けなきゃ!」
セリカの声が、遠くで聞こえた。だが俺の耳には、水の中にいるように、こもって届いた。
俺は動けなかった。相互帳を握る手に、力が入らない。この帳面が、なんだ。こんなもの、書いていても。肝心なところで、俺は確かめ損ねた。人を倒した。
塔の頂で渦がひときわ、強く光った。まるで、俺の失敗を嘲笑うように。
俺はその光を見上げることも、できなかった。ただ、地面を見つめていた。倒れた人々の、呻き声が朝の空気を満たしている。その一つ一つが、俺を責めているように聞こえた。
助けようとした。確かに。震える声を振り絞って、動いた。前世の俺には、できなかったことを。
なのに、結果はこれだ。
やっぱり俺なんかが、動くべきじゃなかったんだ。うつむいて黙っていれば、少なくとも俺の手で人を倒すことは、なかった。声を上げるから、間違える。引くから、壊す。
俺の中でこの世界に来て、積み上げてきたものが、音を立てて崩れていった。
完成の日まで、あと三日。
そして、俺は自分の手で、事態を一歩悪くしてしまった。
このとき、俺はまだ知らなかった。
この夜の失敗が、明日もっと取り返しのつかない形で、俺に返ってくることを。




