第28話 地獄の延長戦
夕暮れの空き地に、気まずい沈黙が流れた。
俺の目の前には、下校途中と思われる制服姿の結衣が、目をキラキラと輝かせて立っている。
二十四時間変身解除不可の呪いを受け、空腹のあまりアパートから逃げ出してきた俺にとって、このタイミングでの知り合いとの遭遇は、まさに最悪のエンカウントだった。
「お姉様……どうしてこんなところに? パトロールですか?」
結衣が、ワクワクした様子で尋ねてくる。
「いや、そういうわけでは……」
グゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……。
俺が適当な言い訳を捻り出そうとした瞬間、俺の小さなロリボディの腹の底から、先ほどアパートで鳴ったものよりもさらに巨大で、誤魔化しようのない豪快な腹の虫の音が鳴り響いた。
「あ……」
結衣が、パチクリと目を瞬かせる。
俺は、大人の男としての尊厳が、夕日の彼方へと音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
純白のフリルドレスを着た、ミステリアスでクールな(と結衣は思っている)魔法少女のお腹から、限界を迎えたおっさんのようないじましい音が鳴り響いたのだ。恥ずかしくて死にそうだった。
「ええと……これは、その」
俺が視線を逸らして冷や汗を流していると、結衣はふわりと優しく微笑んだ。
「お腹、空いてるんですね。お姉様」
「……はい」
もはや強がる気力すらなく、俺は素直に敗北を認めた。
「昨夜、あんなに激しい戦いをしたんですもん。お腹が空くのも当然です! そうだ、駅前のファミレスに行きましょう! 私、ちょうど甘いものが食べたかったところなんです。私のお小遣いで、お姉様にたくさんごちそうさせてください!」
結衣はそう言うと、俺の手をギュッと握り、半ば強引に歩き出した。
普段なら「中高生に奢ってもらうおっさんなんて、人として終わっている」と固辞するところだが、今のこの姿では、言いたいことも言えない。
背に腹は代えられない。俺は大人しく、彼女に手を引かれて駅前へと向かうことにした。
――数十分後。駅前のファミリーレストラン。
「はい、お待たせいたしました。特製ハンバーグステーキのダブルと、山盛りフライドポテト、それからメガ盛りストロベリーパフェになります」
店員がテーブルの上に、凄まじいカロリーの山を並べて去っていく。
「ふふっ。お姉様、すっごくよく食べるんですね」
向かいの席に座った結衣が、メロンソーダのストローを咥えながら嬉しそうに微笑んだ。
「食べ物に罪はないしな。美味しいものは、ちゃんと美味しく食べるべきだろ」
俺は短い言い訳をして、ハンバーグにナイフを入れた。
おっさんの胃袋なら確実に胃もたれを起こす脂っこいメニューだが、今の俺の若々しい(?)肉体は、このジャンクなカロリーを狂ったように欲していた。肉の旨味が五臓六腑に染み渡り、ようやく理性と思考力が戻ってくるのを感じる。
「……あの、お姉様」
俺が黙々とポテトを口に運んでいると、結衣が少しだけトーンを落として声をかけてきた。
「なんだ」
「……お姉様は、どうして魔法少女になったんですか?」
俺のフォークを握る手が、ピクリと止まった。
記者会見でも聞かれた質問だ。あの時は素直に「お小遣い(残業代)のため」と答えてしまったが、この純真な少女の瞳を前にして、同じように夢のない現実を突きつけるのは少し気が引けた。
「……ただの、成り行きだ。気づいたら、契約書に血判を押させられていた」
俺は、半分本当のことを言った。
「そうなんですか……。私は、自分から志願したんです」
結衣は、手元のグラスについた水滴を指でなぞりながら、伏し目がちに語り始めた。
「私、昔から体が弱くて、病院のベッドの上でずっとテレビばかり見ていた時期があったんです。その時に見た、アニメの魔法少女たちがキラキラと輝いて、みんなを笑顔にしていく姿が本当に眩しくて……。だから、奇跡的に病気が治った時、私、絶対に誰かの『希望』になるんだって決めたんです」
結衣の言葉には、嘘偽りのない純粋な情熱がこもっていた。
俺のような「労災目当て」や「残業代稼ぎ」の社畜とは、根源的なモチベーションの質が全く違う。彼女は本当に、太陽のように真っ直ぐなヒロインなのだ。
「立派な志ですね。それで?」
「でも……」
結衣の顔に、微かな翳りが落ちた。
「実際に魔法少女になってみて……現実って、テレビのアニメみたいに簡単じゃないんだなって、思い知らされました」
結衣は、ギュッと両手を膝の上で握り締めた。
普段の彼女からは想像もつかないような、年相応の、女子高生としての弱々しい表情だった。
「私の魔法は、『純粋な希望』の感情を力に変えるものです。だから、戦っている間は、絶対に諦めちゃいけない。絶対に弱音を吐いちゃいけない。私が絶望したら、魔法が使えなくなって、周りのみんなを守れなくなるから……。だから、いつでも元気に、明るく笑っていなきゃいけないんです」
彼女の肩が、微かに震えていた。
「でも、私……本当は、そんなに強い人間じゃないんです」
結衣の瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
「怖い時だってあります。昨日の夜みたいに、強大なノワールを前にして、足がすくんで動けなくなることだって……。ルビィさんみたいに完璧で大人の女性でもないし、お姉様みたいに、どんな理不尽な状況でも決して動じない強さもない。……私、ただの普通の高校生なのに、みんなの『希望の象徴』でいなくちゃいけないのが……時々、すごく息苦しくて……っ」
結衣の告白を聞いて、俺は食べる手を完全に止めた。
なるほど。
彼女は、魔法少女というプレッシャーに押し潰されそうになっていたのだ。
常にポジティブでいなければならない。みんなを笑顔にしなければならない。
その責任感と、等身大の彼女自身の弱さとのギャップが、彼女の心を密かに摩耗させていたのだ。
「……シロお姉様の記者会見の動画を見て、私、すごく羨ましかったんです」
結衣が、涙を拭いながら無理に微笑んだ。
「お姉様は、マスコミの人たちを前にしても、自分の『疲れた』とか『眠りたい』っていう本当の気持ちを、隠さずに堂々と言えていたから。私には、そんなこと絶対にできない……。私は、みんなの希望だから……」
俺は、無言でグラスの水を一口飲んだ。
羨ましい、か。
俺があの会見で本音を漏らしてしまったのは、単に三十時間徹夜していて脳のストッパーがぶっ壊れていたからに過ぎない。決して強さなどではない。
だが。
彼女の抱えている悩みは、三十歳のしがないサラリーマンである俺にとって、ひどく既視感のあるものだった。
新入社員の頃、「会社の期待の星だ」「君がうちの部署の希望だ」と無責任にもてはやされ、そのプレッシャーに応えようと必死に愛想笑いを振りまき、キャパオーバーの仕事を断れずに抱え込んで、結局潰れていった同期たち。
俺自身も、そうやってすり減る中で感情を殺す術(死んだ魚の目)を身につけたのだ。
俺は、フォークを置き、結衣の顔を真っ直ぐに見据えた。
「結衣さん」
「……はい」
「あなたは、大きな勘違いをしています」
俺は、ロリボイスのフィルターを通しながらも、ほんの少しだけ彼女に心を開いた。余計なお世話かもしれないが、それでも見て見ぬふりはできなかった……。
「常に笑顔でいること。弱音を吐かないこと。それが『強さ』だなんて、とんだ思い上がりです。そんなものは、ただの『自己防衛』の仮面に過ぎません」
「思い上がり……ですか?」
結衣が、少し傷ついたように目を瞬かせる。
「ええ。人間は機械じゃありません。疲れたら休むべきだし、怖い時は怖いと泣いていいんです。……いいですか。無理をして常に完璧な『希望』を演じ続けようとすれば、いつか必ずその反動が来ます。心の風船が限界まで膨らんで、パチンと割れる。……それこそが、ノワールが生まれるメカニズムそのものでしょう?」
俺の言葉に、結衣がハッと息を呑んだ。
「仕事……パトロールなんてものは、人生のほんの一部に過ぎません。あなたが『結衣』という一人の女の子としての平穏な生活や、弱音を吐ける逃げ道を持っていなければ、いつか必ず壊れてしまう。……昨夜の、ルビィさんのようにね」
俺の脳裏に、一人で全てを抱え込み、呪いに侵食されていったルビィの姿が浮かんだ。
「希望の魔法少女だからといって、常に太陽みたいに輝いている必要なんてないんです。時には雲に隠れたり、夜の闇に紛れて泥のように眠ったりしたっていい。……あなたが疲れた時は、周りの人間を頼ればいい。それが、組織で働くことの唯一のメリットなんですから」
俺は、最後に一つだけ、説教くさくならないように、少しだけ口角を上げて微笑んでみせた。
「泣きたい時は、俺……私の後ろに隠れていればいいですよ。あなたが希望の光を失っても、私がこのステッキで、敵を全部叩き潰してあげますから」
そうだ、これもいわゆる『大人』の役目なんだろう……。
「…………っ」
結衣の瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ出した。
しかし、それは先ほどまでの重圧に苦しむ涙ではない。憑き物が落ちたような、安堵と救済の涙だった。
「お、お姉様ぁ……っ」
結衣は両手で顔を覆い、しゃくり上げながら泣き始めた。
「私……ずっと、誰かにそう言ってほしかった……。無理しなくていいよって……。弱くてもいいんだよって……」
俺は、無言でナプキンを彼女に手渡した。
これで彼女が少しでも肩の荷を下ろし、長くこのブラックな職場(魔法少女)で生き残ってくれれば、俺の負担も減るというものだ。
「……ありがとうございます、シロお姉様」
しばらくして泣き止んだ結衣は、鼻をすりながら、しかし最高に晴れやかな笑顔で俺を見つめた。
「私、お姉様に出会えて本当によかったです。お姉様の言葉、一生忘れません」
「大げさですよ。さあ、パフェが溶けますから、早く食べてください」
俺たちは、すっかり冷めてしまったハンバーグと、少し溶けかけたパフェを平らげた。
ファミレスを出る頃には、外はすっかり暗くなり、街灯がポツポツと点き始めていた。
「それじゃあ、私はここで。……くれぐれも、無理はしないように」
俺が駅前で別れの挨拶を告げようとした、その時だった。
「お姉様!!」
結衣が、突然俺に向かって駆け寄り、俺の小さな身体をギュッと抱きしめてきたのだ。
「えっ!? ちょ、結衣さん!?」
俺は突然のスキンシップに驚き、両手を宙に浮かせて硬直した。
「本当に、本当にありがとうございました……っ! 私、これからもお姉様のこと、ずっとずーっと大好きですっ!!」
彼女の身体から、サファイアブルーの暖かな光が、まるで俺への感謝と愛情を表現するようにフワリと溢れ出した。
若い女の子特有の甘いシャンプーの香りが鼻をくすぐり、俺の理性と羞恥心が激しく警鐘を鳴らす。
「わ、分かった! 分かりましたから、人目がありますから離れて……!」
俺が真っ赤になって結衣の身体を引き剥がそうとした、まさにその瞬間だった。
「……あなたたち、そこで何をしているの?」
ゾクリ、と。
俺の背筋を、真冬の吹雪のような、零度の殺気が撫で斬りにした。
ただの殺気ではない。
それは、腹の底から湧き上がるような、ドス黒く、重く、粘り気のある……極限のオーラ。
(……え?)
俺は、結衣に抱きしめられたまま、その殺気が放たれている方向――通りを挟んだ向かい側の街灯の下へと、ゆっくりと視線を向けた。
そこに、一人の女が立っていた。
完璧なシルエットを描く、ダークネイビーのパンツスーツ。
風に揺れる艷やかな黒髪。
その手には、高級フルーツ店の紙袋と、スマホが握り締められている。
玲、玲奈部長!?
新東京市という何百万人が住むこの巨大な街で、ピンポイントでこのタイミング、この場所で出くわしてしまうという、神の悪意すら感じるほどの天文学的な確率の悪戯。
だが、偶然のいたずらを呪う暇などなかった。
俺の目に映る彼女の表情は、これまでの俺の人生で見たどんな恐ろしいノワールよりも、絶望的に恐ろしいものだった。
「…………」
玲奈の顔からは、一切の表情が削ぎ落とされていた。
能面のように固まったその顔の中で、唯一、真紅の瞳だけが、俺と、俺を抱きしめている結衣を、文字通り『射殺す』ような光を放って凝視していたのだ。
血眼になって探していた愛しの推し(シロちゃん)が、自分が一番憎んでいる泥棒猫(結衣)と、夕暮れの街角で熱い抱擁を交わしている。
その光景は、限界オタクである彼女の精神(サン値)を、一瞬にしてマイナスまで叩き落としたに違いない。
「あ……」
結衣も、玲奈のただならぬ気配に気づき、俺から身体を離して青ざめた。
メシャッ。
玲奈の手に握られていたスマホが、彼女の無意識の握力によって悲鳴を上げ、液晶画面に蜘蛛の巣状のヒビが入っていく。
(ああ……これはもう本当に終わった……いろんな意味で)
まるで浮気を目撃されたかのように、頭上の星をぼんやりと見上げた。恐怖で、心臓が今にも止まりそうだった。




