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第27話 夕暮れの出会い

 薄暗い六畳一間のアパートに、朝の冷たい空気が忍び込んでいた。


「……あ、あうぅ……」


 スマホに表示された時刻は、午前七時三十分。

 普段なら、スーツに着替えて満員電車に揺られ、あの戦場(クロノス商事)へと向かっている時間だ。


「……終わった……。俺の社会人生活、完全に終わった……」


 俺は、床の冷たさに頬を押し当てながら、虚無の瞳で呟いた。


 先ほど、直属の上司である氷室玲奈部長に送った「高熱が出たため欠勤します」という嘘のNINE。

 それに対する彼女の返信は、『明日、必ず診断書を提出すること』という、絶対不可能な要求(死刑宣告)だった。


 二十四時間は変身が解除できないため、病院に行って診断書をもらうことなど物理的に不可能。


「……十五分だけ……十五分だけ現実逃避して寝よう……」


 俺は、自分が三十歳のおっさんであることも忘れ、小さなロリボディを胎児のように丸め、泥のように意識を手放そうとした。

 迫り来る非情な現実の脅威から、ほんのわずかな時間だけでも逃れるために。



 ――その頃。

 新東京市の高級住宅街にそびえ立つ、セキュリティ万全のタワーマンションの一室。


 広々としたリビングには、間接照明の柔らかな光が灯っていた。

 氷室玲奈は、熱いシャワーを浴びていた。

 長い黒髪から滴る水滴を高級なバスタオルで拭き取りながら、彼女はバスローブ姿でリビングのソファに深く腰を下ろした。


 ふぅ、と。

 彼女の桜色の唇から、甘く、そして熱を帯びた吐息が漏れた。


 テーブルの上に置かれた冷たいミネラルウォーターには手をつけず、玲奈は自分のスマホを手に取った。

 画面のロックを解除し、パスワードで厳重に保護された『秘密のフォルダ』を開く。


 そこに保存されているのは、数百枚に及ぶ写真のデータだった。

 純白のフリルドレス。銀髪のツインテール。

 そして、一切の感情を排した、あの儚くもミステリアスな(と玲奈の目には映っている)死んだ魚の目。


「……シロちゃん」


 玲奈の切れ長で気高い瞳が、みるみるうちに限界オタク特有の、蕩けたような熱い色に染まっていく。

 彼女は、画面に映る『純白のエトワール・ブラン』の画像を指で優しく撫で、そのままスマホを自分の頬にスリスリと擦り付けた。


「はぁぁ……可愛い……。尊い……」


 昼間のオフィスで部下を震え上がらせている『氷山の悪魔』の姿は、そこには微塵もなかった。

 ただ一人の、推しへの愛を拗らせてしまった限界オタクの女が、深夜のテンションも相まって完全に情緒を崩壊させているのだ。


 玲奈の脳裏に、前の死闘の記憶が鮮明にフラッシュバックする。


 自分が完璧でなければならないという強迫観念に押し潰され、呪いに侵食されていた自分。

 そんな自分を、怒鳴りつけ、目を覚まさせてくれたシロ。

 そして、ベルモットの放った即死級の絶望ビームから、小さな身体を盾にして自分を庇ってくれた、あの時の頼もしい背中。


『暗闇に震える小鳥さん……。もう泣かないで』

『あなたの流した涙は、私が星に変えてみせる……っ!』


 ビームの熱光の中で、シロの口から発せられた、あの甘く、優しく、そして情熱的なポエム。

 あの時、玲奈の脳内では、奇跡的かつ絶望的なまでの『都合の良い解釈』が完成してしまっていた。


「……なんて健気で、愛情深い子なの」


 玲奈は、スマホを胸に抱き締めながら、ポロポロと感涙を流し始めた。


「いつもはクールで感情を見せないのに、あんな絶体絶命の危機で、私を励まそうとしてあんな素敵な言葉をかけてくれるなんて……!」


 あのポエムがシステムによって強制的に言わされたものであり、中身のおっさんが羞恥心でショック死しかけていたことなど、玲奈は知る由もない。


「シロちゃん……。私、もう無理しないわ。あなたが教えてくれた通り、これからは部下にもちゃんと仕事を振るようにする。……そうすれば、あなたも喜んでくれるわよね?」


 玲奈は、テーブルの下から引き出しを開けた。

 中から出てきたのは、百円ショップで大量に買い込んできた、キラキラ光るラインストーンのシールや、ピンク色のレースのマスキングテープ、そして『推し活』用の硬質カードケースだった。


 玲奈は、プリントアウトしてあったシロの隠し撮り写真(戦闘中にこっそり撮った一枚)をカードケースに入れ、その周りを狂ったような手つきでデコレーションし始めた。


「ここはピンクのハートで……あっ、天使の羽のシールも貼らなきゃ。シロちゃんは私の天使だもの……ふふっ、ふふふふっ」


 誰もいない高級マンションのリビングに、玲奈の不気味な笑い声が響き渡る。

 完璧な美貌を持つキャリアウーマンが、バスローブ姿で早朝からアイドルの写真をデコりながら恍惚の表情を浮かべている図は、ある意味でノワールよりも恐ろしいホラー映像だった。


「でも……」


 デコレーションを終え、完成した『シロちゃん特製ブロマイド』を満足げに眺めながら、玲奈の瞳に、ふと冷たく鋭い光が宿った。


「シロちゃんに、もっと近づきたい。シロちゃんの普段の生活、好きな食べ物、休日の過ごし方……全部、全部知りたいわ」


 限界オタクの業は深い。

 一度推しに命を救われ、その尊さに触れてしまえば、もはや遠くから見守っているだけでは満足できなくなる。

 だが、シロは戦いが終わればすぐに姿を消してしまうし、連絡先も知らない。今日だって、気がつけば跡形もなく姿を消していた。


「シロちゃんと直接コンタクトを取る方法は……」


 玲奈は、指先でトントンとテーブルを叩いた。その時――


 ピロリロン。


 テーブルに置かれた軍用の通信端末が、短い着信音を鳴らした。


 画面には『御堂マキ博士』の文字。

 玲奈は、少し舌打ちをしてから表情を切り替え、端末を耳に当てた。


「……はい、ルビィよ。事後処理は終わったかしら」


『ええ、お疲れ様。結界の消滅と、市民のバイタル回復は確認したわ。今は記憶処理のフェーズに入ってる。あなたとシロ、そしてサファイア(結衣)も、三人とも本当によくやってくれたわね』

 マキ博士の声は、疲労が滲んでいたが、どこかホッとした響きがあった。


「当然よ。私とシロちゃんの絆があれば、あの程度の結界、どうってことないわ」

 玲奈は、先ほど自分でデコったシロの写真を撫でながら、誇らしげに答える。


『……絆ね。まあ、結果オーライだから深くはツッコまないでおくわ。でも、喜ぶのは早いわよ、ルビィ』


 マキ博士の声が、急に深刻なトーンに変わった。


「どういうこと?」


『今回あなたたちが倒したあの黒服の男、ベルモット。奴が最後に放ったエネルギーの波動と、残された魔力痕跡を解析した結果……嫌なことが分かったわ』


 マキ博士が、端末のキーボードを叩く音が聞こえる。


『ベルモット側は、まだ完全に打ち砕かれてはいないわ。彼らは今回の失敗で諦めるような連中じゃない。むしろ、裏でまた何か新しい陰謀を企てているはずよ』


「新たな陰謀……?」


 玲奈の表情が険しくなる。


『ええ。奴らは、人間の負の感情を効率よく搾取するシステムを諦めていない。新東京市でこれだけ大規模な結界を展開したのも、何かの前段階だった可能性があるわ。……これから先、さらに強力で、理不尽な脅威が介入してくる可能性が高いわ。警戒を怠らないで』


「…………」


 玲奈は、黙って端末の向こうのマキ博士の言葉を聞いていた。

 普通なら、底知れぬ敵の執念に絶望し、恐怖する場面だろう。


 だが、玲奈の唇には、不敵な笑みが浮かんでいた。


「上等よ」


 玲奈は、冷たく、そして熱く言い放った。


「相手がどんな陰謀を企てていようが関係ないわ。」


 玲奈の視線が、再びテーブルの上のシロの写真へと落ちる。


「博士。シロちゃんが使っていたような『隠しモード』も、早めに用意しておきなさい。……私とシロちゃんの日常(推し活)を邪魔する奴は、どこの誰であろうと、私がこの手で絶対に凍らせて、完全に退場させてやるわ。……覚悟しておきなさい」



 ――どれほどの時間が経ったのか、薄暗い六畳一間のアパート。


「……ん、あぁ……」


 床のフローリングに丸まっていた俺は、軋む体をゆっくりと起こした。

 窓の外を見ると、すでに部屋の中は赤みを帯びた薄暗い光に包まれていた。


「……ん? 赤い?」


 慌ててスマホの画面をタップする。


『午後 17:15』


「…………は?」


 俺は、己の目を疑った。

 今朝の七時半に、「十五分だけ現実逃避して寝よう」と目を閉じたはずだった。

 それがどうだ。気がつけば、太陽は西へ傾き、夕暮れ時になっているではないか。いくら徹夜明けとはいえ、十時間近くも床の上で泥のように眠りこけてしまったらしい。


「やってしまった……。まあ、仮病で休んでるんだから寝てても問題ないんだが……」


 グゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……。


 その時、俺の小さなロリボディのお腹から、信じられないほど巨大で情けない音が鳴り響いた。


「……腹減った」


 考えてみれば、昨日のお昼にカロリーメイトをかじったきり、まともな食事をとっていない。しかも、昨夜は巨大悪魔と殴り合い、絶望のビームを押し返し、限界突破の隠しモードまで使用したのだ。

 魔法少女の身体は、凄まじいエネルギーを出力する分、どうやら極端に『燃費が悪い』らしい。胃袋が背中にくっつきそうなほどの強烈な飢餓感が、俺の理性を削り取っていく。


「何か、作って食べるか……」


 俺はフラフラと立ち上がり、部屋の隅にある小さな冷蔵庫のドアを開けた。


「…………」


 そこには、完璧な『虚無』が広がっていた。

 庫内を照らす冷たい光の中に鎮座しているのは、飲みかけのミネラルウォーターと、賞味期限の切れたドレッシング、そして六缶パックのビールだけ。


 無理もない。連日の理不尽な残業と、魔法少女としての副業のせいで、深夜に帰宅するたびにそのままベッドに倒れ込んで泥のように眠る生活が続いていたのだ。スーパーに食材の買い出しに行く余裕など、どこにもなかった。


「ビールじゃ腹は膨れないし……」


 となれば、選択肢は一つ。外に出て何か食べるか、買って帰るしかない。


 しかし。

 俺は、己の姿を見下ろした。

 純白のシルクと大量のレースで構成されたドレス。背中には天使の羽。そして銀髪のツインテール。


「この姿……どう考えてもまずい」


 もし、このボロアパートの部屋から、こんなド派手な格好をした可愛い幼女が出入りしているところを近所の人に見られでもしたら。

「神堂さんの部屋に謎の幼女が……!」「まさかコスプレでパパ活!?」などと変な噂が立ち、即座に通報されて社会的に抹殺される未来しか見えない。


「……だが、背に腹は代えられない」


 あまりの空腹に、俺はついに白旗を上げた。

 変装する服もない以上、誰にも見られずにこのアパートから脱出するしかない。


 俺は玄関のドアに近づき、チェーンをかけたまま、そっと数ミリだけドアを開けた。

 隙間から右を見て、左を見る。

 薄暗い外の廊下には、誰もいない。


「よし……」


 俺はチェーンを外し、抜き足差し足で、音を立てないようにそっと家を出た。

 ドアの鍵を閉めると、俺は魔法少女としてのずば抜けた身体能力を頼りに、一気に行動を開始した。


 トンッ!と軽く地面を蹴るだけで、身体は重力を無視したように跳ね上がった。

 アパートの外階段の手すりに飛び乗り、そこから隣の雑居ビルの外壁を蹴り、さらにその上の屋根へと跳躍する。

 まるでパルクールのアスリートか、あるいは本物の忍者(忍んでいるのは三十歳の社畜だが)のように、俺は夕暮れの空の下、建物の屋根から屋根へと連続した跳躍を繰り返した。


 誰にも見られない空中ルートを通って、俺は自分の住まいから十分に離れた、人通りの少ない空き地の前で、ふわりと音もなく着地した。


「ふぅ……。ここまで来れば、もう安全かな」


 俺が心から安堵の溜息をつき、近くのコンビニかファミレスを探そうと顔を上げた、その時だった。


「――あ。シロ、お姉さま?」


 背後から、不意にかけられた鈴を転がすような可憐な声。

 その言葉に、俺の心臓はビクゥッ!と激しく跳ね上がった。


(なっ……!?)


 俺が恐る恐る振り返ると。

 夕暮れのオレンジ色の光に照らされた路地に、一人で歩いている少女が立っていた。

 制服姿――どうやら下校途中の女子高生のようだ。カバンを両手で抱えるように持ち、俺の姿を見て、目を真ん丸に見開いている。


 俺のことを「お姉さま」と呼ぶ、その記憶に新しい独特の口調と、制服姿であっても隠しきれない、太陽のような純粋なオーラ。

 そして、見覚えのある綺麗な顔立ち。


「……結衣?」


 俺が思わずその名前を呟くと、少女の顔は、パァァッと花が咲いたように輝いた。

 まさかこんな夕暮れ時の空き地で、偶然出くわしてしまうとは。


「やっぱり! シロお姉様ですね!!」


 結衣はカバンを放り出さんばかりの勢いで、タタタッと俺の方へ駆け寄ってきた。

 その瞳は、推しのアイドルに街中で偶然遭遇したファンのようにキラキラと輝いている。


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