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第26話 事後処理(誤魔化し)

「さあ、シロちゃん。もう悪い怪物はいないわ。よく頑張ったわね、私の天使」


 朝焼けの光が差し込む、新東京市のビジネス街。

 瓦礫と化した結界の中心で、俺の小さな身体は、真紅のドレスを血と泥で汚したルビィ(氷室玲奈部長)の腕の中に、ガシッと完全にホールドされていた。

 その万力のような拘束力は、上司としての絶対的な権力と、限界オタクとしての重すぎる執着の両方を兼ね備えており、俺の筋力では到底抜け出すことができない。


「このまま、お姉ちゃんのお家に行きましょうね。温かいお風呂に入れてあげて、美味しい朝ご飯を作ってあげて、一緒のお布団に入って、ずーっと、ずーっと可愛がってあげるからね♡」


 彼女の真紅の瞳の奥に、絶対に逃がさないというブラックホールのような執着の光が渦巻いている。

 先ほど、俺がシステムに強制されて朗読した『乙女の純愛ロマンチックポエム』と、あの地獄のようなウインク&投げキッスが、彼女の限界オタクとしての理性を完全に焼き切ってしまったらしい。

 今のルビィは、世界を救った戦友を労う魔法少女ではなく、最高尊い推しを拉致監禁しようとする極めて危険な変質者と化していた。


「ズルいです! 私も一緒に行きます! シロお姉様は私が一番にお世話します!」

 背後から、結衣ピュア・サファイアも駆け寄ってきて、俺の純白のドレスの裾をギュッと掴んだ。

「私がお姉様の髪を乾かして、可愛いパジャマを着せてあげますっ! ルビィさんだけに独占なんてさせません!」


「ち、ちょっと待ってください! 私は、自分の家に帰らなきゃ……!」

 俺は慌てて身体をよじり、超絶ロリボイスで抗議した。


 冗談ではない。

 俺には帰るべき場所(薄暗い六畳一間のアパート)があり、やるべき重大なタスク(泥のような睡眠)があるのだ。

 それに、隠しモードの代償である『二十四時間変身解除不可』の呪いにより、俺は今、この純白のフリルドレス姿のまま固定されてしまっている。

 この状態でルビィのタワーマンションに連れ込まれ、一緒のお風呂に入れられ、お着替えなどさせられようものなら、俺の男としての社会人生命どころか、人間としての尊厳が素粒子レベルで消滅してしまう。


「遠慮しないで、シロちゃん。あなたは私の命の恩人なんだから、これくらいさせてちょうだい」

 ルビィの顔が、さらに数センチ近づく。

 ブルガリの高級香水と、徹夜の戦闘で滲んだ彼女の汗の匂いが混ざり合い、俺の鼻腔を麻痺させようとしてくる。

 普段のオフィスなら、俺が提出した企画書のミスをネチネチと詰め寄る時の、あの『氷山の悪魔』の恐怖の至近距離だ。


 俺の心臓は、ノワールの巨大な拳を受け止めた時よりも遥かに激しく、早鐘のように打ち鳴らされていた。


(……マキ博士ェェェェッ!! 助けてくれ! 緊急ワープだ、今すぐ俺をここから回収しろォォォッ!!)


 俺は、声に出せない絶叫を胸の中で上げながら、軍用通信機に必死のSOS信号を送り続けた。


『……あー、シロ、聞こえる?』


 脳内のインカムから、マキ博士の少し申し訳なさそうな声が響いた。


『ごめんね。隠しモードの反動で、やっぱりシステムの再起動には最低でも二十四時間かかるみたい。だから、変身を解除して元の姿おっさんに戻すことは不可能なんだけど……』


(そんなことは分かってる! いいから早く俺をこの変態上司の手から逃してくれ!)


『手動で「強制転送ワープ」のプログラムだけは回せたわ! 座標はあんたの自宅アパート! 今すぐ飛ぶわよ!』


「ん……? シロちゃん、どうしたの? ブルブル震えて。寒いの?」


 ルビィが、俺の異変に気づき、さらに強く抱きしめようと腕に力を込めた。

 そして、その薄い桜色の唇を、俺のおでこめがけてゆっくりと近づけてくる。


(……ッ!? おでこキス!? やめろ、昼間俺に「給料泥棒」って罵倒してる口で、俺のおでこに触れるなァァァッ!)


 俺が全力で後方へ仰け反り、貞操の危機(?)から逃れようとした、まさにその瞬間だった。


『SYSTEM OVERRIDE. EMERGENCY WARP START』


 無機質な電子音と共に、俺の足元の魔法陣が爆発的な光を放った。


「えっ……?」

 ルビィが、眩しさに目を細め、腕の力をふっと緩める。


「あ、あはははは! 急用を思い出したので、これで失礼します! じゃあねルビィさん、結衣ちゃん! さようならぁぁぁぁっ!!」


 俺は、その一瞬の隙を突き、光の奔流に飲み込まれながら、最高に引き攣った裏返りロリボイスで別れの挨拶を叫んだ。


 ルビィの唇が空を切り、彼女がハッと目を開いた時には、俺の姿はすでに朝焼けのビジネス街から完全に消え去っていた。


「……行っちゃった」


 遠ざかる意識の中で、俺は最後に、ルビィの少しだけ残念そうな、しかし狂おしいほどの愛おしさを込めた呟きを聞いた気がした。


 光のトンネルを抜け。

 激しい浮遊感と吐き気の後、俺の身体は、見慣れた狭くて薄暗い六畳一間のアパートの床へと、ドスンと無造作に放り出された。


「……げほっ、ゴホッ……! 助かった……」


 俺は、床のフローリングに這いつくばりながら、激しく咳き込んだ。

 貞操と尊厳の危機は、間一髪のところで回避できた。あのまま拉致されていれば、俺の精神は羞恥心でショック死していただろう。


 俺は、ふらつく足で立ち上がり、洗面所へと向かった。

 鏡の前に立つ。


 そこに映っていたのは、煤と泥で汚れ、銀髪のツインテールがボサボサになった、純白のフリルドレスを着た幼女シロの姿だった。


「…………」


 俺は、鏡の中の自分と、死んだ魚の目で数秒間見つめ合った。

 二十四時間、変身解除不可。

 マキ博士の言葉通り、俺は三十歳の平社員『神堂誠』の姿に戻ることができないのだ。


 幸いなことに、変身状態が維持されているため、魔法少女システムの『痛覚鈍麻』の恩恵も継続している。

 つまり、隠しモードで限界を超えて酷使した筋肉の断裂痛や、絶望ビームを押し返したことによる全身の骨の軋みといった肉体的なダメージは、システム側がマスク(隠蔽)してくれているため、今は全く痛みを感じない。


 身体は動く。

 しかし、精神的なダメージは別だ。

 徹夜の戦闘による絶対的な睡眠不足。そして何より、システムに強制された『乙女ポエム』の朗読による致死量の羞恥心が、俺の精神を限界まで摩耗させていた。


 俺は、洗面台の横に置いた自分のスマホ(私用)を手に取った。

 画面をタップして、時刻を確認する。


『11月10日(月) 午前 6:00』


「…………」


 俺は、その数字を見て、肉体的な激痛よりも恐ろしい、絶対的な『絶望』に直面した。


 月曜日の、朝六時。

 ベルモットの『ブラックマンデー結界』は粉砕した。世界は救われた。

 しかし、現実世界の『月曜日の朝』は、何事もなかったかのように、無慈悲に俺の元へとやってきたのだ。


 出社時間は午前八時三十分。

 普段なら、あと一時間もすればスーツに着替え、満員電車に揺られてあの戦場(クロノス商事)へと向かわなければならない時間だ。

 昨夜、俺が血反吐を吐きながら完成させたA社コンペの企画書の最終チェックも残っている。


 だが。

 俺は再び鏡を見た。

 純白のフリルドレス。ツインテール。身長一四五センチ。


「……この姿で、出社できるわけがないだろうが」


 俺は、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。


 結論は一つしかない。

 会社を、休む。


 有給休暇。

 それは、全ての社畜が夢見る黄金郷エルドラドのチケットである。

 しかし、今の俺にとって、それはとてつもなく重く、そして命懸けのチケットだった。


 なぜなら、俺の直属の上司は、あの『氷室玲奈部長』だからだ。


「……欠勤の連絡、どうやって入れる……?」


 俺は、スマホを握りしめたまま、震える声で呟いた。

 社会人のマナーとして、欠勤の連絡は直属の上司に電話で直接伝えるのが基本だ。

 しかし、今の俺が電話をかければどうなるか。


『もしもし、神堂です。今日はお休みを……』

 俺の頭の中でシミュレーションが行われる。

 音声変換モジュールが作動しているため、電話の向こうの玲奈部長に聞こえるのは、間違いなく『超絶可愛いロリボイス』である。

『……神堂? ふざけているの? それとも、ついに声帯までイカれたのかしら?』

 確実に怪しまれる。最悪の場合、「シロちゃんの声に似ている」と気づかれ、正体バレに直結する危険性すらある。


 電話はダメだ。

 となれば、残された手段は一つ。メッセージアプリ(NINEか社内チャット)による、文字での連絡しかない。

 ビジネスマナーとしては少しグレー(氷室部長なら間違いなく「非常識な奴」と激怒するだろう)だが、背に腹は代えられない。


 俺は、震える指でスマホの画面をタップし、玲奈部長とのトーク画面を開いた。


 最後に彼女から送られてきたメッセージは、先日の夕方のこれだ。

『明日の朝イチの会議までに、A社コンペの企画書の最終案を提出しなさい。一文字でも誤字があったら、殺す』


 俺は、生唾をゴクリと飲み込み、キーボードの入力画面に向かった。

 言い訳は『体調不良』の一択だ。


『おはようございます、神堂です。

 大変申し訳ありません。昨夜から急な高熱と悪寒に見舞われ、先ほど測ったところ39度の熱がありました。

 本日は念のためお休みをいただき、病院を受診したく存じます。

 A社コンペの企画書につきましては、共有フォルダに最終案を保存しておりますので、そちらをご確認いただけますでしょうか。

 ご迷惑をおかけして大変申し訳ございません。何卒よろしくお願い申し上げます』


 完璧だ。

 非の打ち所のない、模範的な社畜の欠勤連絡テキスト。

 これなら、いくらあの氷山の悪魔でも「感染症の疑いがあるなら出社するな」と判断せざるを得ないはずだ。


 俺は、深呼吸をしてから、覚悟を決めて『送信』ボタンをタップした。


 ピコンッ。

 メッセージが送信された。


 時刻は午前六時十五分。

 だが、返信が来るまでしばらく猶予があるだろう。俺はその隙に、ベッドに入って少しでも睡眠を……。


 ――既読。


「…………えっ?」


 送信から、わずか三秒。

 メッセージの横に、恐ろしい速度で『既読』の文字がついたのだ。


 早すぎる。

 いくらなんでも早すぎる。まるで俺からの連絡を、スマホの画面を開いたまま待ち構えていたかのような速度ではないか。


(……まさか)

 俺の脳裏に、シロ(俺)の写真を見ながらハァハァ言っている玲奈部長の限界オタク姿が浮かび、背筋が凍る。


 そして。

 画面の下に、『相手が入力しています…』という文字が表示され始めた。


 ドクン、ドクンと心臓が跳ねる。

 長い。入力時間が長すぎる。一体どれほどの長文(あるいは罵倒の言葉)を打ち込んでいるというのか。


 数十秒の永遠とも思える時間の後。

 ピロリンッ。

 ついに、返信が届いた。


『神堂主任。

 今日の午後にはA社の役員を交えた重要なコンペのプレ会議があることを、まさか忘れたわけではないでしょうね?

 這ってでも来なさいと言いたいところだけれど。他の社員に感染させて部署全体のパフォーマンスを落とされては迷惑極まりないから、今日は休むことを許可します。』


 ここまでは、予想通りの冷酷な文章だ。

 俺はホッと胸をなでおろした。だが、メッセージには続きがあった。


『ただし。ただの知恵熱やサボりだった場合は、明日のあなたの席はないと思いなさい。

 必ず病院を受診し、正式な【診断書】を明日提出すること。

 企画書についてはこちらで確認しておくわ。もし私の期待を下回る出来だった場合、病床のあなたに電話して直接詰めさせてもらうから、そのつもりで。……せいぜい、お大事に』


「……診断書」


 俺は、スマホを持つ手を震わせた。


 診断書。

 それは、仮病を使って会社を休もうとする不届きな社畜を完全に詰ませる、最強の証拠である。

 当然ながら、俺はただ疲労困憊しているだけで、体温は平熱だ。病院に行ったところで「過労ですね」と言われるのが関の山であり、診断書など書いてもらえるはずがない。


 つまり、俺は明日の朝、出社した瞬間に嘘がバレて、氷山の悪魔の処刑台に送られることが確定したのだ。


「……終わった。マジで終わった……」


 俺は、床に崩れ落ち、頭を抱えた。

 世界を救った代償が、これか。

 

 だが、俺の絶望はまだ底を打っていなかった。


 ピンポーン。

 その時、無情にもアパートの玄関のチャイムが鳴った。


「お届け物でーす。宅配便でーす」

 ドアの向こうから、配達員の爽やかな声が聞こえる。


「…………」

 俺は、自分の姿――純白のフリルドレスを着た、銀髪の幼女――を見下ろした。


 こんな姿で、荷物を受け取れるわけがない。

 もしドアを開ければ、「神堂さんのお宅ですよね?」と不審に思われ、最悪の場合、事案として通報されてしまう。

 俺は息を殺し、ただひたすらに気配を消して居留守を使うしかなかった。


「……いらっしゃらないみたいですねー。不在票入れときまーす」

 配達員が去っていく足音を聞きながら、俺は冷たいフローリングの上にうずくまった。


 世界を救い、新東京市の平和を取り戻した英雄の、凱旋の朝。

 しかし、俺の現実は何一つ改善されるどころか、より深く、逃げ場のないブラックな絶望へと沈み込んでいた。


 変身したままの、孤独で憂鬱な月曜日の朝が、今、静かに始まろうとしていた。


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