第23話 おっさんの咆哮
「――ぶっ壊してやるよ。お前らのそのくだらない『虚無』を」
純白のフリルドレスを着た幼女の口から、決死の覚悟を秘めた低い声が放たれた。
隠しモードを解放した代償として、俺の変身システムは最低二十四時間は解除できなくなった。明日の会社を無断欠勤する社会死の危機と、戦闘終了後に限界オタクと化しているルビィ(氷室玲奈部長)に「お持ち帰り(監禁)」されるかもしれないという貞操の危機。
その二つの絶望的な未来が確定したことで、俺の心は完全に吹っ切れていた。
どうせ地獄に落ちるなら、せめて目の前のこの理不尽な悪魔だけは、俺の道連れにして粉砕してやる。
ドーム内に渦巻く絶望のプレッシャーを、俺の全身から噴出する赤黒い炎のオーラ――「絶対に定時退社してやる」という社畜の極限の執念――が真っ向から押し返していく。
俺は、隠しモードによって変容した巨大な鉄の楔『反逆の楔』を両手で握り締め、爆発的な脚力で灰色のタイルカーペットが敷き詰められた床を蹴り飛ばした。
『フハハハ! 無駄だと言っているだろう!』
上空のベルモットが、ペストマスクの奥で余裕の嘲笑を浮かべる。
『その装甲は『忘却』の概念! いかなる物理的破壊力も、感情の昂りも、全てを無に帰す完璧な防御壁だ! 貴様のその無骨な鉄の塊がどれほどの質量を持っていようと、この強固な概念の前に意味を成すことはない!』
「(知るか! クレーム対応の『のれんに腕押し』みたいな真似しやがって!)」
俺は、一切の躊躇なく、迫り来る巨大悪魔『ブラック・プレジデント』の右拳めがけて飛び込んだ。
狙うは、分厚い装甲の関節部分。
重量二トンを超える巨大な鉄の楔を、大上段からフルスイングする。
だが、ここで一つの重大な誤算……いや、マキ博士の仕込んだシステムの恐るべき『仕様』が発動した。
『System Override: Maiden Romance Mode, ON.』
俺の脳内に、無機質な電子音が響いた直後だった。
絶対的な静寂が支配していたはずのドーム内に、どこからともなく、優雅で、そして極めてロマンチックな三拍子のワルツのBGMが大音量で鳴り響き始めたのだ。
「……は?」
俺が戸惑った瞬間、俺の身体のコントロールが、完全にシステム側に強制掌握された。
振り下ろそうとしていた俺の腕が勝手に軌道を変え、空中でクルリ、クルリと、まるで一流のバレリーナのように無駄に華麗なターンをキメさせられる。
ふわりと舞う純白のフリルスカート。
宙を舞う銀髪のツインテール。
そして、俺の意志とは全く無関係に、俺の口が勝手に開き、声帯が限界突破の超絶甘ったるい、まるで深夜アニメのヒロインか少女漫画の主人公のようなトーンで、戦場に全く不釣り合いな『ポエム』を絶叫し始めたのだ。
「星屑の海で迷子になったの……。でも、あなたの瞳の輝きが、私を導いてくれた……っ!」
三十歳の男の口から、いや、魂の底から、聞いたこともないような恥ずかしいセリフが、プロの劇団員顔負けの感情表現たっぷりに放たれる。
「受け取って! 私の、イノセント・スターライト・スマァァァッシュ!!」
バチコンッ!と、俺の両手が胸の前で完璧なハートマークを作り、そこからウインクと投げキッスを同時に放つという、地獄のようなあざといモーションが追加される。
その直後、ステッキの先端から大量のピンク色の薔薇の花びらと、七色に輝くシャボン玉のエフェクトが溢れ出し、鉄の楔が虹色の光を纏って悪魔の右拳に激突した。
(…………な、なんだこれはァァァァァッ!?)
俺の心臓が、恐怖と、そして三十年間の人生で味わったことのない致死量の『羞恥心』によって、文字通り梅干しのように縮み上がった。
隠しモードの代償。
変身解除不可という事実の裏に隠されていた、真のペナルティ。
それは、魔力リソースを物理的な武器の生成に極振りする代わりに、不足するエネルギーを『魔法少女としての究極の乙女チックな振る舞い(あざとさとロマンチックさ)』によって強制的に自己発電させるという、悪魔のような強制演出システム(乙女の純愛ロマンチックモード)だったのだ。
ガガガガガガガッ!!
激しい火花が散る。
先ほどは「無意味」として吸収されてしまった攻撃。
だが、今回は全く違った。
三十歳の男としての尊厳を、全世界(ドーム内の空間)に向けてズタズタに引き裂かれたことによる、「恥ずかしい! 今すぐ帰って布団を被りたい! いっそ俺を殺してくれェェェッ!」という極限の逃避願望。
その、この世の何よりも強烈で純粋な羞恥心の爆発が、強大な魔力の炎となって楔に乗り、悪魔の『忘却』の概念を内側から焼き切り、装甲に深く食い込んでいったのだ。
『な、何ィ!? 装甲の概念が……書き換えられているだと!?』
上空のベルモットが、信じられないものを見るように驚愕の声を上げる。
『物理も魔法も通じないはずの絶対障壁が、あのような……あんなふざけたお遊戯のポーズで崩されるなど、あり得ない!!』
ズッバァァァァァァンッ!!
鉄の楔が、悪魔の右拳の装甲を豆腐のように切り裂き、そのまま繊維状の筋肉を深くえぐり取った。絶対的な虚無の防壁が、一個人の強烈な執念(羞恥心の塊)の前に無残に崩れ去る。
『ギ、ギャアァァァァァァァァァッ!!』
巨大悪魔ブラック・プレジデントが、初めて苦痛の悲鳴を上げて大きくのけぞり、右腕から真っ黒な泥の血飛沫を吹き出させた。
(よしっ! 効いてる! 効いてるけど、もうやめてくれ! 俺の精神力がもたない!)
俺は心の中で血の涙を流し、今すぐこの場から逃げ出して砂漠の真ん中に穴を掘って埋まりたかったが、システムに掌握された身体は、俺の意志を完全に無視して、さらに踏み込んで追撃の構えに入っていた。
「キャァァァッ! シロお姉様、すごいですっ! 美しいですっ!」
背後から、結衣の黄色い歓声が飛んできた。
「あの巨大な敵を前にして、余裕のファンサービス! それに、あの素敵なポエム……っ! 私、感動して震えが止まりません! まるでおとぎ話のお姫様みたいですぅ!」
結衣の純粋な称賛が、逆に俺の心に深く鋭いナイフを何度も何度も突き立てる。
違うんだ、結衣。余裕なんて一ミリもないんだ。俺は今、おっさんとして社会的な尊厳の処刑台に立たされているんだ。頼むから見ないでくれ、目を閉じて耳を塞いでいてくれ。
「シロちゃん……っ! ああ……尊い……ッ!」
さらに恐ろしいのは、ルビィ(氷室玲奈部長)の反応だった。
彼女は、氷の長杖を握り締めたまま、完全に瞳をハート型にして身悶えし、その場に崩れ落ちそうになっていた。
「あの極限状態であんなに可愛いポーズを魅せてくれるなんて、やっぱり私の天使よ! 優雅なステップ、甘いセリフ、舞い散る薔薇の花びら……! 完璧すぎるわ! 軍の録画機能はどこ!? 今すぐ保存して永久保存版にしないと!」
(だから違うって言ってるだろォォォッ!)
俺は心の中で絶叫したが、当然届かない。
『おのれ……! なんだそのふざけた踊りは! 我々の神聖なる虚無を愚弄する気か!』
ベルモットが激昂し、ブラック・プレジデントの残りの三本の腕が、波状攻撃を仕掛けてくる。
空を裂くような豪腕が、俺の小さな身体を叩き潰そうと全方位から迫る。
「(クソッ、来るな! これ以上、俺に攻撃させないでくれ! もうポエムは嫌だァァァッ!)」
俺の悲痛な祈りも虚しく、システムは冷酷に次の演出を強制発動させた。
「冷たい雨に打たれても、心に咲く一輪の花は枯れないわ……っ!」
俺の身体が、迫り来る三本の腕を、まるでフィギュアスケートの選手のように華麗なスピンで躱していく。
その間も、俺の口は止まらない。
「あなたの冷たい心、私が温めてあげる! ラブリー・ローズ・ストライク!!」
バキィィィンッ!!
俺の口から悲しき純愛ポエムが飛び出し、空中でステッキを華麗に回すという地獄のモーションと共に、悪魔の左腕の装甲を叩き割った。
今度は、無数のキラキラした星屑と、ピンク色のハート型のリボンが空間を埋め尽くす。
「ひゃあぁぁっ! シロちゃぁぁん! 美しすぎるわぁぁ!」
後ろでルビィが興奮のあまり過呼吸を起こしかけ、結衣が「お姉様、愛の力ですね!」と感動の涙を流している。
俺は、羞恥心でショック死しそうになりながらも、悪魔の猛攻をシステムの強制ナビゲートに従って躱し続けた。
『ええい、鬱陶しい! そのまま虚無の底へ沈んでしまえ!!』
ベルモットが、さらなる精神攻撃の波動を放ってくる。
お前の存在には意味がない。希望も絶望も無駄だ。そんな無機質なノイズが俺の脳髄を揺らす。
だが、今の俺の耳にはそんな念仏は全く届かない。
俺の頭の中は、「早くこの恥ずかしい状況を終わらせて、家に帰って毛布を被りたい」「そしてマキ博士を呪い殺す」という強烈な生存本能で満たされていた。
精神攻撃など、今の俺の羞恥心の前にはそよ風にも等しい。
『オォォォォォォォォッ!!』
悪魔が残された二本の腕を振り上げ、俺を押し潰そうとする。
さあ、来い。これで最後だ。早く終わらせてくれ。
「(頼む、もう勘弁してくれェェェッ!!)」
俺の心からの叫びを裏切るように、システムは本日最大のクライマックス演出を用意していた。
「涙の数だけ、女の子は強くなれるの……!」
俺の身体が、高く、高く宙へと舞い上がる。背景に、幻の満月が浮かび上がり、俺の純白のドレスが月光に照らされて輝く。
「輝け、私の想い! ホーリー・ティアーズ・ブレイクッ!!」
俺の限界突破の乙女ボイスと共に、巨大な鉄の楔が流星となって、悪魔の胴体のど真ん中へめり込んだ。
ドッガァァァァァァァァァァンッ!!
凄まじい破壊音と共に、ブラック・プレジデントの全身を覆っていた『忘却』の装甲が、ガラスが砕け散るようにパリン、パリンと連鎖的に崩壊していく。
強固な防壁を失った装甲の隙間から、黒いヘドロのような魔力がピューピューと噴き出し、悪魔の巨体が大きく傾いた。
『バ、バカな……! 私の……完璧な虚無の防壁が、こんな……こんなふざけた小娘の愛のポエムに、無残に打ち砕かれるというのか……ッ!』
ベルモットが、頭を抱えて絶叫する。
悪魔の四本の腕がダラリと力なく垂れ下がった。
胸の中央、あの分厚い装甲に守られていた漆黒のコアが、完全に無防備な状態で露出している。
(よし、装甲は完全に剥がした。あとはあのコアを叩き割るだけだ)
俺は、息を整え、鉄の楔を構え直した。
強制ロマンチックモードのBGMがフェードアウトし、俺は自分の身体のコントロールがようやく戻ってきたのを感じて、安堵の溜息を漏らした。
三十歳の尊厳と引き換えに、なんとか活路を切り開くことには成功したのだ。
しかし。
その安堵の隙を突くように、最悪の事態が動き出した。
『……おのれ……おのれェェェェェッ!!』
崩れかけていたブラック・プレジデントの頭上で、ベルモットが血を吐くような絶叫を上げた。
彼のペストマスクが完全に割れ、その奥から、ノワール特有の赤黒い瘴気が猛烈な勢いで噴き出している。
ベルモットの瞳には、計画を完全に狂わされたことへの底知れぬ憎悪と、狂気が宿っていた。
『ただでは終わらん……! 私の築き上げた最高傑作の虚無を崩壊させた代償、貴様らにもたっぷりと支払ってもらうぞ!!』
ベルモットが、両手を露出した悪魔のコアに向けて突き出した。
ドクンッ!!
巨大な黒いコアが、不気味な脈動を打った。
周囲の空気が一気に収縮し、ドーム内の全ての魔力が、あのコアの奥底へと限界を超えて圧縮されていく。
新東京市の中心部から吸い上げた数百万人の絶望エネルギー。それが、赤黒い光の点となってコアの中心で極限まで圧縮されていくのが、肌が焼けるようなヒリヒリとした感覚で伝わってくる。
「……ッ!? 自爆か!?」
俺は、焦って声を上げた。




