第22話 絶対絶望
重厚な両開きのドアを蹴り破り、結界の最深部へと足を踏み入れた俺たちを待ち受けていたのは、あらゆる色彩と音が吸い込まれるような、狂気に満ちた「虚無」の領域だった。
灰色のタイルカーペットが敷き詰められた広大なドーム状の空間。
その中央に、周囲の空間そのものを歪ませるほどの圧倒的なプレッシャーを放ちながら、そいつはそびえ立っていた。
巨大悪魔『ブラック・プレジデント』。
ビル三階分ほどの高さを持つその異形は、近づいて見ると、先ほどの幻影の時よりもさらにグロテスクで冒涜的な姿をしていた。
四本の太く強靭な腕は、まるで黒い泥と無機質な鉱物を寄り合わせたような、不気味に蠢く繊維状の筋肉で構成されている。
背中でゴリゴリと不快な音を立てて回転する巨大な歯車には、感情を失い、虚ろな目をした無数の人々の顔が、まるで地獄のレリーフのようにびっしりと刻み込まれていた。
そして、顔の半分がドロドロに溶け落ちた頭部からは、感情を搾り取られた者たちの声にならない呻き声が、途切れることなく漏れ出している。
『オォォォォォォォォ……ッ!!』
ブラック・プレジデントが、四本の腕を振り上げて雄叫びを上げた。
その瞬間、周囲の空間に漂っていた濃密な『虚無と絶望』のエネルギー(先ほど俺の「帰りたい」という執念のオーラで中和しきれなかった残滓)が、竜巻のように奴の胸の中心へと吸い込まれていく。
奴の胸の奥底で、巨大な黒いコアが心臓のように脈打ち、赤黒い光を放ち始めた。
「マズいわ、シロちゃん! あいつ、周囲の残存魔力を吸い上げて、自己強化している!」
ルビィ(氷室玲奈)が、氷の長杖を構えながら鋭く叫んだ。
「させませんっ! 『希望の光刃』!!」
後方に控える結衣が、青い杖を鋭く振り抜き、三日月の形をした光の刃を飛ばした。
純粋なプラスの感情で構成された、邪悪を浄化する希望の刃。それが空気を切り裂き、ブラック・プレジデントの巨大な胴体めがけて殺到する。
だが。
光の刃が直撃する寸前。悪魔の身体の表面に、泥のように黒く淀んだ六角形のバリアが展開された。
フッ……。
結衣の放った希望の魔法は、そのバリアに触れた瞬間に、まるで最初から「意味を持たないもの」であったかのように、音もなく虚空へと霧散してしまった。
「えっ……嘘!? 私の浄化魔法が、全く通じない……!?」
結衣が信じられないというように目を見開く。
「小娘の生ぬるい魔法じゃダメよ! 私がやるわ!」
ルビィが一歩前に出た。
彼女は長杖を頭上で回転させ、限界まで魔力を高める。呪いから解放され、本来の澄み切った青白いオーラを取り戻した彼女の魔法は、先ほどの暴走状態の時よりも遥かに洗練され、研ぎ澄まされていた。
「――『絶対零度の断頭台』ッ!!」
ルビィの最大魔法が炸裂した。
ブラック・プレジデントの頭上に、ビルをも両断するほどの巨大な氷の刃が出現し、凄まじい速度で振り下ろされる。
空気を凍らせる絶対零度の一撃。
しかし、結果は同じだった。
悪魔が四本のうちの上部の二本の腕を交差させて頭上にかざすと、その腕の表面を覆う真っ黒な装甲が、ルビィの巨大な氷の刃を受け止め――次の瞬間、氷の刃は「温度」という概念すらも奪われたかのように、乾いた灰となってパラパラと崩れ落ちたのだ。
「そんな……! 私の全力の一撃が、傷一つつけられないなんて……っ!」
ルビィが、悔しげに血が滲むほど唇を噛む。
『フハハハハハ! 無駄だ、無駄だと言っているだろう!』
悪魔の頭上で浮遊するベルモットが、ペストマスクの奥で愉悦の笑みを浮かべた。
『希望だの、愛だの、気高いプライドだの。そんな薄っぺらい感情で、この絶対なる「虚無の権化」を穿てるものか!』
「なら、感情抜きの純粋な暴力ならどうですか!」
俺は、ルビィと結衣の攻撃の隙を突き、すでに悪魔の足元へと肉薄していた。
リミッターを解除し、三十歳の社畜のドス黒いオーラを真っ赤な炎(情熱と怒り)に変換して纏った俺の身体は、限界を超えた運動性能を発揮している。
狙うは、悪魔を支える巨大な右足の関節部分。
ここを砕いてバランスを崩させ、一気にあの胸のコアを叩き割る。
「潰れろッ!!」
俺は、重量二トンの『ドリーム・ステッキ』を真横に構え、渾身の力で悪魔の右足めがけてフルスイングを叩き込んだ。
ドゴォォォォォォォォォォンッ!!!
これまでのノワールなら、一撃で肉片すら残さず消し飛ばしてきた、絶対の確信を持つ一撃。
ステッキの先端が装甲に激突し、爆発的な衝撃波がドーム内に吹き荒れる。
手応えはあった。確実に捉えたはずだ。
しかし。
「……な、にッ!?」
俺は、ステッキから両手に伝わってきた『異常な反発力』に、思わず顔をしかめた。
硬い。
ただ硬いのではない。俺の放った二トンの質量と運動エネルギーが、まるで巨大なスポンジか、あるいは底なしの沼に打ち込まれたように、ズルリと「無」へと吸収されてしまったのだ。
ステッキの威力を完全に殺された俺は、そのまま数メートル後方まで滑り、靴底でアスファルトを削ってどうにか踏み止まった。
「シロちゃん! 大丈夫!?」
ルビィが慌てて駆け寄ってくる。
「……手が、痺れました。なんだ、あの装甲は。ただの金属や泥じゃない。俺の攻撃のベクトルそのものを『無』に変換されたような感触でした」
俺は、ジンジンと痺れる両手をさすりながら、悪魔を睨みつけた。
俺の全力のフルスイングを受けてなお、ブラック・プレジデントの右足には、ヒビ一つ入っていなかった。
『素晴らしい分析だ、エトワール・ブラン。だが、理解したところでどうにもならんぞ!』
ベルモットが、両手を広げて高らかに宣言した。
『このブラック・プレジデントの全身を覆う漆黒の装甲! これこそが、あらゆる感情とエネルギーを無効化する最強の防御概念……『忘却』の結晶体なのだ!!』
「……は?」
俺の口から、素の低音のトーンで間抜けな声が漏れた。
『聞け! お前たちがどれほど強大な攻撃や魔法を叩き込もうと、感情というノイズを持たないこの装甲は、あらゆるダメージの「意味」を奪い去り、文字通り無に帰す! お前たちに、この完璧な虚無の防壁を突破することは絶対に不可能だ!!』
「…………」
ドーム内に、数秒間の、いたたまれない沈黙が流れた。
結衣は「ぼうきゃく……?」と、恐ろしい概念の前に首を傾げ、絶望しかけている。
ルビィは、額に青筋を浮かべてワナワナと震えていた。彼女のような情熱と責任感の塊にとって、相手から完全に「無視(無関心)」される防御ほど、屈辱的で許せないものはないだろう。
そして、俺は。
(……要するに、どんなに訴えかけても『暖簾に腕押し』ってことか。クレーム対応で一番腹の立つ、一切の感情をシャットアウトしたマニュアル対応みたいな防御しやがって!)
俺は、心の中で猛烈なツッコミを入れながら、ギリッと奥歯を噛み締めた。
どんな攻撃も「無意味」にされる。相手をしていて、これほど徒労感を感じる防御もない。
「シロちゃん! あいつの防御が固いのは事実よ! どうするの!?」
ルビィが、焦燥感を露わにして聞いてくる。
「どうするって言われても……」
俺はステッキを構え直したが、正直、攻めあぐねていた。
魔法も効かない。物理攻撃も『忘却』の装甲に吸収されてダメージが通らない。
絶対的な虚無の論理には、個人の力ではどう抗っても飲み込まれてしまうということか。
『オォォォォォォォォッ!!』
俺たちが膠着状態に陥っている隙を突き、ブラック・プレジデントが反撃に転じた。
四本の太い腕のうち、上部の二本が大きく振り上げられる。
その拳の表面に、赤黒い魔力が凄まじい密度で圧縮されていくのが見えた。
「来るぞ! 結衣、防御壁を最大展開しろ! ルビィさんも氷の盾を!」
「「了解!」」
『――「虚無の鉄槌」ッ!!』
ベルモットの冷酷な叫びと共に、悪魔の巨大な双腕が、俺たちめがけて振り下ろされた。
ドゴォォォォォォォォォンッ!!!
隕石でも落ちたかのような衝撃。
結衣の希望の盾と、ルビィの何重にも重ねた氷の防御壁が、僅か数秒でパリン、パリンと悲鳴を上げて砕け散っていく。
「ぐっ……! 重い……!」
俺は、ステッキを横にして二人の前に立ち、悪魔の拳を直接受け止めた。
だが、その重さは先ほどの蜘蛛やカマキリの比ではない。俺の足元のアスファルトがクレーターのように陥没し、膝がガクガクと震える。
感情を奪われた者たちの無念が、物理的な質量となって俺の腕をへし折ろうと圧力をかけてくる。
「くそっ……。装甲が硬いだけじゃなく、攻撃力までバカみたいに高いのかよ……!」
俺は歯を食いしばりながら、なんとか拳を弾き返そうと踏ん張る。
『無駄だ、無駄だ! そのまま虚無の底へ沈んでしまえ!!』
ベルモットが高笑いする。
このままでは押し潰される。
何か、この理不尽な虚無の装甲を打ち破り、奴のコアに直接ダメージを通す方法はないのか。
その時だった。
『……シロ!! 聞こえる!?』
俺のポケットの中で、通信機が悲鳴のようなノイズと共に、マキ博士の声を拾った。
「博士! 何か打開策はあるんですか! こいつの装甲、『忘却』でダメージが通らないとかいうクソみたいな仕様らしいですよ!」
俺が悲痛な声で叫ぶと、通信機の向こうで、マキ博士がキーボードを凄まじい速度で叩く音が響いた。
『聞いているわ! まったく、敵ながらよくできた防壁ね。ただの物理的質量じゃ、のれんに腕押しよ!』
「感心してる場合ですか! このままじゃ俺たち、虚無の海に沈みますよ!」
『焦らないで! 敵が「無」の概念で防御を固めているなら、こっちもそれに抗う強烈な「我欲」の概念を上書きして対抗するしかないわ!』
マキ博士の声が、ピンと張り詰めた。
『シロ! 今から、あなたのデバイス……「ドリーム・ステッキ」の、リミッターに隠されていた『隠しモード』を遠隔操作で解放するわ!』
「隠しモード……?」
俺は、拳の重圧に耐えながら、自分の手の中の赤い炎を纏ったステッキに目をやった。
『ええ。私の最高傑作のシステムよ。でも、今まで使わせなかったのには理由があるの』
マキ博士の声が、急に少しだけ申し訳なさそうに濁った。
『そのモードを起動すると、システムの魔力リソースのほぼ一〇〇パーセントを「武器の概念変容」に極振りすることになるの。……つまり』
「つまり、なんだって言うんですか! 早く説明してください!」
『代償として、変身を解除するための『ログアウト機能』に回す電力が完全にショートするわ。一度発動したら、システムが再起動するまで……最低でも二十四時間は元の姿に戻れなくなるわよ!』
「…………」
俺の思考が、一瞬だけ、真っ白になった。
悪魔の拳の重圧など忘れてしまうほどに。
二十四時間、元の姿に戻れない。
それはつまり。
明日の朝、俺は神堂誠として会社に出社できないということだ。無断欠勤。あの『氷山の悪魔』である氷室玲奈部長が、それを許すはずがない。明後日出社した時、俺の首は飛ぶ。
さらに恐ろしいのは、今の状況だ。
俺のすぐ後ろには、熱烈に崇拝している後輩の結衣と、俺を『お持ち帰り』しようと虎視眈々と狙っている限界オタクのルビィ(玲奈部長)がいる。
もし、戦いが終わった後も俺が『シロ』の姿のままだったら。
確実にルビィに拉致監禁され、丸一日、フリフリの服を着せられたまま地獄の『かわいがり(推し活)』を受けることになる。
(……社会死と、貞操の危機(?)のダブルパンチじゃないか)
俺は、額から冷や汗を流した。
ここで決断を間違えれば、俺の人生は完全に終了する。
『どうする!? 今ならまだ、強制帰還プログラムを回して、この場から撤退することも……!』
マキ博士が、俺の社会的な立場を慮ってか、退路を提示してきた。
俺は、悪魔の拳を支えながら、後ろを振り返った。
ルビィが、氷の長杖を構え、俺の背中を守るように立っている。
結衣が、涙目になりながらも、懸命に希望の杖で俺たちにバフをかけようとしている。
そして、結界の外には。
今この瞬間にも、「虚無」の絶望に心を吸い尽くされそうになっている、数百万人の市民たちがいる。
中には、クロノス商事の同僚や、取引先の人たちもいるだろう。
俺は、深く、深く息を吐き出した。
(社会死? 監禁? ……知るか、そんなこと)
明日の会社の人間関係や貞操の危機より、今、ここで理不尽な悪魔に屈する方が、三十歳の男として百倍我慢ならない。
それに、こんなところでチンタラ戦っていたら、本当に家に帰って寝る時間がなくなってしまう。俺のささやかな平穏を、これ以上奪わせてたまるか。
「博士」
俺は、死んだ魚の目に、決死の覚悟の炎を燃やした。
「やれ」
俺の短い、しかし絶対の意志を持った言葉に、マキ博士は数秒だけ沈黙し、そして。
『……了解。あんたのその執念、見届けさせてもらうわ!』
『OVERRIDE EXECUTED。HIDDEN MODE、UNLOCK!!』
マキ博士のタイピング音と共に、俺の視界のプロンプトが激しい閃光を放った。
直後。
俺の両手の中で、重量二トンの『ドリーム・ステッキ』が、凄まじい熱と光を放ちながら、その形状を劇的に変化させ始めた。
「な、何!? シロちゃんのステッキが……!」
ルビィが、まぶしさに目を細めながら叫ぶ。
ステッキの先端にあった、可愛らしいピンクのハートの装飾が、ドロドロと溶け落ちる。
天使の羽のモチーフが消え去る。
代わりに形成されたのは、圧倒的な質量を持った『無骨で巨大な鉄の楔』だった。
それは、もはや魔法少女のステッキなどではない。
白く輝く合金の表面に、赤黒い魔力の炎で、俺の「絶対に帰って寝る」という強烈な我欲と執念が、バチバチと音を立てて刻み込まれていく。
『フ、フハハハハ! なんだそのふざけた武器は! ただの巨大な鉄の塊になっただけではないか!』
上空のベルモットが、形振り構わず嘲笑する。
だが、俺は知っている。
この『反逆の楔』こそが、理不尽な虚無の論理を真っ向から粉砕する、己のエゴを極限まで圧縮した「絶対防御貫通」の概念武装であることを。
「……無駄かどうかは、その身体で味わってみろ」
俺は、声を張り上げようとして、深く息を吸い込んだ。
声は、相変わらず鈴を転がすような超絶ロリボイスのままだ。
だが、そこに込められた三十歳の社畜のドス黒い殺意と威圧感は、フィルターを通してなお、ドーム内の空気を凍りつかせるほどに重く、鋭かった。
「――ぶっ壊してやるよ。お前らのそのくだらない『虚無』を」
純白の幼女の口から放たれた、死刑宣告。
俺は巨大な鉄の楔を両手で構え、絶望の権化へと真っ向から飛び込んだ。




