第20話 ブラックマンデー
四つの巨大な腕と、背中に無数の歯車を背負った異形の悪魔が、廃工場の中央で咆哮を上げた。
周囲の空間が歪み、凄まじいプレッシャーが俺たち三人の魔法少女に重くのしかかる。
「……チッ。深夜のシステムトラブル対応に突入かよ」
俺は、焼け焦げたリボンの残る『ドリーム・ステッキ』を肩に担ぎ、死んだ魚の目でその巨大な悪魔を睨み据えた。
隣では、呪いから解放されて本来の魔力を取り戻したルビィ(玲奈部長)が氷の長杖を構え、結衣が震えながらも希望の杖を前に突き出している。
「シロちゃん、気をつけて! あいつの魔力、今までのノワールとは桁違いよ!」
「ええ、分かっています。一発で木っ端微塵にして……」
俺がステッキを大上段に振りかぶった、まさにその瞬間だった。
『ハハハハハハ! テスト運用はここまでだ!』
上空から、ベルモットの冷酷な嘲笑が響き渡った。
それと同時に、俺たちの目の前にいた巨大な悪魔の身体が、まるで電源を切られたホログラムのように、ノイズにまみれてフッと掻き消えたのだ。
「……消えた?」
俺は空振りしそうになったステッキを止め、上空を見上げた。
『お前たち軍の飼い犬の相手は、また後でゆっくりしてやる。我々の真のターゲットは、初めからこの街に住む数百万人の、感情という病に侵された脆弱な精神どもだからな!』
ベルモットの声が、廃工場だけでなく、新東京市の夜空全体から反響するように鳴り響く。
『目覚めよ、真なる絶望! 全人類から喜怒哀楽というノイズを完全に削ぎ落とし、完全なる静寂と秩序に支配された新世界を創世するための究極の濾過システム……そのプロトタイプをここに展開する!』
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
足元の地面が、激しく揺れた。
いや、地面だけではない。大気が、空間そのものが軋むような、おぞましい音。
遠くに見える新東京市の中心部、高層ビルが立ち並ぶ巨大なビジネス街の上空から、真っ黒なインクを水に垂らしたような「淀み」が急速に広がり始めた。
それは、巨大な半球状のドーム型結界となって、あっという間に新東京市の中心区画をスッポリと飲み込んでしまった。
『シロ! ルビィ! ピュア・サファイア! 応答して!!』
俺のポケットの軍用通信機から、マキ博士の悲痛な叫び声が飛び込んでくる。
「何が起きたんですか! あのビジネス街を覆う巨大な結界は……!」
ルビィが通信機に向かって叫ぶ。
『最悪の事態よ! ベルモットが、新東京市の中心部に、過去最大級の精神結界を展開したの! 内部の魔力濃度は測定不能! それだけじゃない、結界の内部から、ものすごい勢いで市民たちのバイタル(感情エネルギー)が低下しているわ!』
マキ博士が、端末のキーを乱打する音が聞こえる。
『この結界の属性は……「虚無」よ!』
「虚無……?」
結衣が、青ざめた顔で聞き返した。
『ええ。ベルモットの目的通り、結界内部の空間から、希望や喜びはもちろん、怒りや悲しみといったあらゆる感情の波動が強制的にミュート(消去)されているの。内部にいる人間は、生きながらにして心を削り取られ、ただ呼吸するだけの空っぽの器に作り変えられようとしているわ!』
俺は、思わず息を呑んだ。
喜怒哀楽という人間の根源的なエネルギーを奪い去る。それが完了すれば、数百万人の人間が、文字通り感情を持たないただの抜け殻へと成り果てる。
『シロ! 一旦そこから撤退して、軍の地下基地に帰還しなさい! 今すぐ作戦会議を開くわ!』
「了解しました。転送、お願いします」
俺の言葉と共に、三人を包み込む極彩色の光が展開された。
ベルモットの姿は、すでにどこにもない。俺たちは、不気味に黒く淀んだ新東京市の中心部を遠くに見つめながら、軍の基地へと強制帰還した。
――新東京市・地下深層。対ノワール特務機関・メインブリーフィングルーム。
巨大なモニターが壁一面を覆う無機質な空間に、俺たち三人と、マキ博士、そして数名の軍の幹部たちが集まっていた。
モニターには、真っ黒な結界に覆われた新東京市中心部のマップと、レッドゾーンを振り切っている魔力数値が表示されている。
「状況は一刻を争うわ」
メインコンソールの前に立ったマキ博士が、いつもの咥えタバコを机に置き、極めて真剣な表情で口を開いた。
「ベルモットが展開した『静寂の結界』。この中心部には、ベルモットの魔力の源であり、今回の結界を維持している巨大なコアが存在しているはずよ。おそらく、奴が先ほどテスト運用と称して見せたあの巨大な悪魔……四本腕のノワールの体内にね」
博士は、モニターにあの四本腕の悪魔の映像を映し出した。
「市民の精神力が吸い尽くされ、完全に心が死滅するまで、もってあと四時間。それまでに、結界内部に突入し、あの悪魔のコアを破壊しなければ、あの区画の人間は完全に終わるわ」
「四時間……」
ルビィが、青ざめた顔で呟く。
彼女は先ほどの死闘の疲れを癒やす間もなく、軍の簡易シャワーで血と泥を洗い流し、予備の真紅のドレスに着替えたばかりだ。顔色は悪いが、その瞳には強い決意が宿っている。
「ですが博士」
俺は、静かに手を挙げた。
「あの結界の内部は、あらゆる感情を消し去る濃密な『虚無』で満たされているんでしょう? 突入すれば、私たち自身も精神を侵食されて、戦うどころじゃなくなるのでは?」
「その通りよ、シロ。だからこそ、この作戦は非常に危険なの」
マキ博士は、大きく息を吸い込み、信じられないほど真顔でこう言った。
「あの圧倒的な虚無の結界を打ち破るには……どれほど心を空っぽにされそうになっても、決して己の意志を手放さない、異常なまでの『自我の強さ』と、失いたくない日常への『執念』が必要よ」
「失いたくない日常への、執念……」
ルビィが、その言葉を噛み締めるように呟く。
『ええ。魔法少女は本来、希望や愛といった強い「プラスの感情」を力に変えて戦う。でも、あの結界の中では、その感情の振れ幅が大きいほど、一気に虚無へと引きずり込まれる危険性が高いわ。結衣、あなたは純粋な希望の力を持っているからこそ、あの濃密な虚無の中では一番汚染されやすい。今回は後方支援に回りなさい』
「はい……。悔しいですが、お二人のサポートに全力を尽くします」
結衣が、唇を噛んで深く頷いた。
『ルビィ。シロ。あなたたちなら、あるいは……』
マキ博士の視線を受け、ルビィが真紅の瞳に強い光を宿した。
「私は負けないわ。どれだけ心を空っぽにされようと……私には、絶対に果たさなければならない責任と、守りたい誇りがある。私の心は、あんな化け物ごときに屈しはしない」
それは、常に完璧を求め、組織を牽引してきた彼女の、決して揺るがないプライドだった。
(俺もだ。感情の死滅? 上等だ)
俺は、死んだ魚の目に、極寒の闘志を燃やした。
俺の心は、長年の社畜生活ですでにある程度摩耗しきっている。感情の起伏を殺すことには慣れているのだ。
だが、俺の中には、絶対に譲れない一つの『我欲』がある。
俺は這ってでも生き残り、全ての理不尽を叩き潰して、絶対に家に帰って泥のように眠る。俺のささやかで平穏な日常を、勝手に「虚無の世界」などと塗り替える権利は、誰にもない。
「……私もです。どんな地獄が待っていようと、必ず終わらせて、家に帰って眠ります。その意志だけは、絶対に曲げません」
俺が静かに宣言すると、マキ博士はニヤリと力強く笑った。
「頼もしいわね。突入のタイムリミットは三十分後よ。各自、装備の最終チェックと休憩を済ませなさい。これが、新東京市の命運を懸けた戦になるわ!」
「「「了解!」」」
――出撃十分前。
基地内の静かな控室。
俺は、ベンチに座って『ドリーム・ステッキ』のグリップの汚れをタオルで拭き取っていた。
結衣はマキ博士のところで魔力調整を受けているため、この部屋には俺とルビィの二人だけだ。
ルビィは、少し離れたロッカーの前に立ち、無言で自分のマントの留め具を直している。
先ほどの会議での気丈な振る舞いとは裏腹に、彼女の横顔には、まだ隠しきれない疲労と、どこか思い詰めたような影が落ちていた。
「ルビィさん」
俺は、ステッキを拭く手を止めずに、静かに声をかけた。
「体調は、本当に大丈夫ですか。もし呪いの後遺症が残っているなら、無理をする必要は……」
「大丈夫よ。シロちゃんのおかげで、嘘みたいに身体が軽いわ。……むしろ、呪いを全部背負ってくれたシロちゃんの方こそ、無理をしていないか心配なんだけど」
ルビィが振り返り、優しく微笑んだ。
その笑顔は、昨夜のファミレスで見せた限界オタクの顔でもなく、オフィスでの氷山の悪魔の顔でもなかった。
ただの、一人の等身大の女性としての、穏やかで静かな表情だった。
「俺は平気です。少し肩が凝っているくらいで」
俺がそう答えると、ルビィはコツン、コツンとブーツの音を鳴らして、俺の座るベンチの前まで歩み寄ってきた。
そして。
フワリと、ブルガリの香水の匂いを漂わせながら、俺の目の前で屈み込み、視線の高さを合わせた。
「ねえ、シロちゃん」
「……はい」
俺の心臓が、微かに警鐘を鳴らした。
彼女の瞳が、俺の目を、真っ直ぐに射抜いてきたからだ。
「……最近、変な男に付き纏われたりしていないかしら?」
「……変な男、ですか?」
俺は、予想外の質問に首を傾げた。
「ええ。夜遅くに一人でいるところを狙うような……たとえば、くたびれたスーツを着ていて、あなたと同じような『死んだ魚の目』をした、気味の悪いサラリーマンとか……!」
「…………」
俺は、言葉に詰まった。
それ、どう考えても俺(神堂誠)の容姿そのものではないか!?
「もし、そんな男があなたに少しでも近づいてきたら、絶対に私に言いなさい!」
ルビィが、俺の小さな手を両手で包み込み、ギリッと奥歯を噛み締めた。彼女の周囲の温度が急激に下がり、ベンチの脚がピキピキと凍りつき始める。
「私が責任を持って、その不審者を絶対零度で氷漬けにして、新東京湾の底に沈めてあげるから……! あんな薄汚い社畜のオッサンに、私のシロちゃんは絶対に指一本触れさせないわッ!」
ルビィの真紅の瞳の奥で、巨大悪魔を前にした時よりも遥かにドス黒く、具体的な『殺意』の炎が燃え上がっていた。
昼間は完璧なキャリアウーマンであるはずの彼女が、推しを守るためなら殺人(氷殺)すら厭わない狂気のストーカーハンターと化している。
「あ、あの、ルビィさん! 大丈夫です、私、そんな怪しいオッサンに付き纏われたりなんてしていませんから!」
俺は、明日の自分の命(本業での社会人生命)が間接的に脅かされているのを感じ、必死に架空の不審者(自分)を弁護……いや、彼女の暴走をなだめにかかった。
「それに、私こう見えても魔法少女ですし! 自分の身くらい自分で守れますからっ!」
「ダメよ、油断は禁物! シロちゃんは自分で思っている以上に天使なんだから、悪い大人に狙われやすいの! ああ……やっぱり心配だわ。これからは、パトロール中も私がずっとそばで守ってあげるからね!」
ルビィは、感極まったように俺を抱き寄せ、頬ずりをしてきた。
話が全く通じていない。
彼女の過剰な保護欲は、俺の必死の説得すらも「強がる天使の健気さ」として都合よく変換してしまっている。
(……終わった。完全にロックオンされた)
だが、今はそんなことを心配している余裕はない。まずは目前の脅威から、この区画の平和を守らなければならないのだ。
『シロ、ルビィ、ピュア・サファイア! 時間よ! 転送装置の前に集合しなさい!』
控室のスピーカーから、マキ博士の号令が響いた。
「……行きますか」
俺はベンチから立ち上がり、純白のドレスの裾を翻した。
通路を抜け、巨大な円形の転送装置の上に立つ。
隣には、氷の長杖を構えたルビィ。その後ろには、少し緊張した面持ちの結衣。
「目標は新東京市中心部、絶望の結界の最深部! 敵のコアを破壊して、無気力に沈んだ市民たちを救い出しなさい!」
「「「了解!!」」」
俺たちの返事と共に、転送装置が眩い光を放ち始めた。
「……どんな地獄だろうと、絶対に終わらせてやる」
俺は、誰に聞こえるでもなく、死んだ魚の目で低く呟いた。
光の奔流が俺たちの身体を包み込み、そして。
この世で最も恐ろしい虚無の結界内部へと、その身を投じたのだった。を投じたのだった。




