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第19話 呪いの肩代わり

 俺は、ルビィ(氷室玲奈部長)の右手の甲から首筋にかけて広がる、どす黒い蜘蛛の巣のような痣――致死量の『呪い』の結晶に、自らの小さな両手を力強く押し当てた。


「……肩代わりさせてもらうぞ。部下の特権としてな」


 その瞬間だった。

 ルビィの身体に巣食っていた膨大な負のエネルギーが、俺の手のひらを逆流し、猛烈な勢いで俺の身体へと流れ込んできたのだ。


『アァァァァァァッ!!』


 それは、数え切れないほどの人間たちが吐き出した、怨嗟と絶望の濁流だった。

 「死にたい」「疲れた」「逃げたい」といった、擦り切れた魂たちの悲鳴が、重さとなって俺の全身の血管を駆け巡る。


『シロ! やめなさい!』

 通信機越しに、マキ博士の悲痛な絶叫が響いた。


『あんたの絶望耐性がいくら規格外でも、それは限界突破した魔法少女一人分の致死量の呪いよ! そのままじゃ、あんたの精神の器ごと内側から破裂するわ!』


 マキ博士の警告は、理論的には正しいのだろう。

 実際に、呪いが流れ込んできた瞬間、俺の視界は真っ赤に点滅し、システムのエラー音が鼓膜を突き破らんばかりに鳴り響いた。


 だが。

 俺は、死んだ魚の目を細め、鼻で笑った。


(破裂、だと……?)


 俺は、流れ込んでくる呪いの濁流を、まるで冷たい水を一気飲みするような感覚で喉の奥へと流し込んでいく。


 確かに、重い。

 全身の筋肉が鉛のように硬直し、息をするのもしんどくなるような、凄まじい徒労感と倦怠感。

 普通なら、この感情の重圧に耐えきれずに発狂するか、そのまま意識を失ってノワールへと堕ちるだろう。


 しかし、俺の心(三十歳の社畜の魂)は、これしきの『絶望』で悲鳴を上げるほど、ヤワな作りはしていない。


(……甘いな。こんなもん、期末決算の最終日に、他部署がやらかした数千件の経費精算のミスを、一人で徹夜で修正させられた時の『あの絶望』に比べれば、全然大したことないわ)


 俺の脳内で、過去の地獄のような残業の記憶がフラッシュバックする。

 あの時、俺の精神は一度完全に死滅し、そして『無』の境地へと到達したのだ。どんな理不尽な重圧タスクをかけられようと、それをただの「処理すべきデータ」として右から左へ受け流す、究極の社畜防壁。


「……ふぅっ」


 俺が深く息を吐き出すと、俺の身体から噴出していた真っ赤な炎(情熱と怒りのオーラ)が、流れ込んでくる呪いを次々と蒸発させ、燃料として取り込んでいくのが分かった。


 ズズズッ、と音を立てて。

 ルビィの肌を汚していた黒い痣が、みるみるうちに薄れ、消え去っていく。


 彼女の身体を操っていた見えない糸がプツリと切れ、ルビィは完全に力を失って、俺の方へと倒れ込んできた。

 俺は、呪いの吸収を終えた身体で、彼女の華奢な肩をしっかりと抱きとめた。


『うそ……でしょ……』

 通信機から、マキ博士の呆然とした声が漏れる。


『あの膨大な呪いのバイタルが、完全にフラットになった……。シロ、あんた……生きてるの? 精神汚染は?』


「……ええ、ピンピンしてますよ。ただ」

 俺は首をコキコキと鳴らしながら、顔をしかめた。


「ちょっと、四十肩が悪化したみたいです。右の肩甲骨の裏側が、石が入ってるみたいにゴリゴリに凝ってます。明日、絶対に有休取ってマッサージ行きますからね」


『四十肩で済むレベルの呪いじゃないのよ……!! アンタの精神構造、本当にどうなってんのよ化け物……っ!』


 マキ博士のツッコミをスルーし、俺は腕の中のルビィを覗き込んだ。


 彼女の美しい顔から、呪いの痣は完全に消え去っていた。

 乱れていた呼吸も穏やかになり、頬には本来の血色が戻りつつある。周囲を覆っていた黒氷も、呪いの供給源を断たれたことで、パラパラと音を立てて崩れ落ち、ただの水へと還っていく。


 プラットフォームの上の氷点下の空気が、少しずつ緩んでいった。


「……ん……」


 ルビィの長いまつ毛が震え、ゆっくりと、その切れ長の瞳が見開かれた。

 濁りのない、透き通った真紅の瞳。

 狂気も絶望も、そこにはもう存在しなかった。完全に正気を取り戻したのだ。


「ルビィさん。気がつきましたか」


 俺は、敢えていつものロリボイスで、極力平坦なトーンを意識して声をかけた。


「……シロ、ちゃん……?」


 ルビィが、ぼんやりとした声で俺を呼んだ。

 彼女の瞳に、徐々に焦点が合ってくる。目の前で自分を抱きかかえている、純白のドレスの幼女。


「ああ……私、どうして……。呪いに、呑み込まれそうに、なって……」

 ルビィは、自らの手を見つめ、痣が消えていることに気づいてハッと息を呑んだ。


「あなたが、私の呪いを……全部、吸い取ってくれたの……?」


「まあ、そんなところです。私の絶望耐性なら、これくらいどうってことありませんから」

 俺は、無表情のまま頷いた。


「シロちゃん……」


 ルビィの瞳が、みるみるうちに潤み始めた。

 だが、その安堵から来る感情の爆発は、俺の予想を遥かに超えたベクトルへと向かったのだ。


「シロちゃぁぁぁぁぁぁぁぁんッッ!!!!」


「……は?」


 次の瞬間。

 ルビィは、俺が肩代わりした呪いのことなど完全に吹っ飛んだかのような、凄まじい勢いで俺の小さな身体を抱きしめてきた。


「怖かったぁぁぁぁぁ! 一人で死んじゃうかと思ったぁぁぁぁ! シロちゃん! シロちゃんが来てくれなかったら、お姉ちゃんどうなってたか!!」


「ちょ、ちょっ、ルビィさん!? 苦し……!」


 俺の顔面が、ルビィの豊満な胸(魔法少女の衣装で強調された渓谷)に、完全に、物理的にめり込んだ。

 窒息しそうだ。

 しかも、彼女は本当に子供のように大号泣しており、涙と、あろうことか鼻水まで垂らして、俺の銀髪と純白のドレスに顔をスリスリと擦りつけてくるのだ。


「うわぁぁぁん! シロちゃん、いい匂い! 生きてる! 温かいよぉぉ! もう絶対離さないからぁぁぁ!」

「離せ! 離してください! ドレスに鼻水がつく! 息ができない!」


 俺は必死にもがいたが、呪いが抜けて魔力が急速に回復しつつある彼女のホールド力は、もはや万力並みだった。


 さっきまでの、あの悲壮感あふれる感動的でシリアスな空気は一体どこへ行ってしまったのか。

 昼間はオフィスで「あなたの推測データなんか一ミリも信用できないわ」と冷酷に言い放つ『氷山の悪魔』が、今は鼻水を垂らしながら「シロちゃぁん♡」と俺の身体を撫で回しているのだ。

 完全に『推しに命を救われて情緒が崩壊した限界オタク』そのものである。


「シロちゃん、だいちゅき! 結婚して! いや、私がシロちゃんを養う! うちの子になりなさい!」

「法律と倫理が許しません! いい加減にしろ、このバカ!」


 俺が毒づいても、彼女の耳には『ツンデレなロリっ娘の照れ隠し』くらいにしか変換されていないようだ。

 顔面を胸に押し付けられ、俺の理性が別の意味で限界を迎えそうになっていた、その時。


「お、お姉様ぁぁぁーっ!!」


 プラットフォームの下から、息を切らして駆け上がってきた結衣が、その光景を目の当たりにして完全にフリーズした。


「……えっ。あの、シロお姉様……? ルビィさん……?」


 結衣の目に映っているのは、死闘の果てにボロボロになった俺とルビィが、熱い抱擁を交わしている……というより、真紅の女が純白の幼女を押し倒して顔面を胸に埋めているという、極めて犯罪的(あるいは百合的)な事案の現場であった。


「ち、違う結衣! これは不可抗力で……!」

 俺がくぐもった声で助けを求める。


「ルビィさん! 何やってるんですか! お姉様が嫌がってるじゃないですか、離してくださいっ!」

 結衣が顔を真っ赤にして怒り、ルビィから俺を引き剥がそうと加勢してくる。


「うるさいわね小娘! これは命の恩人に対する、最大限のスキンシップよ! あんたこそ邪魔しないで!」

「スキンシップの度を超えてます! お姉様が窒息しちゃいます!」


 右からルビィの豊かな胸に押しつぶされ、左から結衣に腕を引っ張られる。

 またしても始まった、地獄の百合綱引き。

 俺の感動的な「部下としての救出劇」は、たったの数分で、いつものドタバタなギャグ時空へと強引に引き戻されてしまったのだ。


「……もう、労災じゃなくて慰謝料を請求する……」

 俺は虚無の空を見上げながら、深く、深く絶望の溜息をついた。


 ――だが。

 その滑稽な光景を、結界の奥の暗闇から、血走った目で見つめている存在がいた。


『……あり得ない。そんなことが、あり得るはずがない……!』


 ベルモットだ。

 彼は、ペストマスクの奥で歯をガチガチと鳴らしながら、戦慄していた。


 彼が仕掛けたこの「孤立の結界」。

 そして、ルビィに蓄積させた致死量の呪い。

 それは、人間の精神を内側から崩壊させ、完全にノワールへと反転させるための、絶対確実な儀式のはずだった。

 その呪いの量は、通常の魔法少女なら一瞬触れただけで発狂し、肉体が炭化して吹き飛ぶほどの濃度である。


 それを。

 あの純白の少女エトワール・ブランは、素手で触れ、あろうことか自らの身体に全て「吸収」してしまったのだ。


 しかも、吸収した直後だというのに、苦しむ素振りすら見せず、仲間の魔法少女たちとじゃれ合って(ベルモットの目にはそう見えた)いる。


『あれだけの絶望を……あの小さな器で、完全に中和したというのか……?』


 ベルモットの背筋に、氷のような悪寒が走った。

 彼らノワールは、人間の「負の感情」を養分として生きている。だからこそ、人間の精神の限界を誰よりも熟知している。

 どんなに強靭な精神を持つ人間でも、一定の負荷を超えれば必ず折れる。それがこの世界の絶対のルールだ。


 だが、あの少女は違う。


『ただの絶望耐性ではない。感情の死滅などという生易しいものではない。……あれは、あらゆる負の感情を飲み込み、自らのエネルギーへと変換してしまう、バグだ。システムの規格外』


 ベルモットの瞳に、恐れと、そして底知れぬ探究心が浮かんだ。


『まさか、伝説に語られる「特異点」……。我々ノワールを根絶やしにするかもしれない、究極のアンチテーゼが存在したというのか……』


 ベルモットは、ギリッと拳を握り締めた。


『……いいだろう、エトワール・ブラン。お前のその底なしの器、私が直々に、あふれ返らせてやる』


 ベルモットが、黒いコートを翻し、両手を高く掲げた。


 その瞬間。

 廃工場の内部を満たしていた空気が、ピタリと止まった。


「……ん?」


 ルビィの胸からようやく顔を引き抜いた俺は、周囲の異変に気づいて顔を上げた。


 俺が破壊した黒氷の残骸。

 ルビィが暴走して倒した、無数の小型・中型ノワールの黒い泥の死骸。

 それらが、まるで巨大な磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、廃工場の中央の空中に向かって、凄まじい勢いで集まり始めたのだ。


「シロちゃん、あれ……!」

 正気に戻ったルビィが、氷の長杖を構え直して叫んだ。


「何かが……集まって、融合しています!」

 結衣も、希望の杖を両手で握り締め、震える声で警戒する。


『ヒ、ハハハハハハ……!!』


 集束していく黒い泥の渦の中から、ベルモットの歪んだ高笑いが響き渡った。

 ドーム状の結界の残骸すらも吸収し、その『塊』は、ビルほどもある巨大な漆黒の球体へと変化していく。


『見事だ、エトワール・ブラン! お前のその特異な力、このベルモットが最大の敬意をもって評価しよう!』


 漆黒の球体が、ドクン、ドクンと、巨大な心臓のように脈打ち始めた。


『だが、今日のところは、これで挨拶代わりとさせてもらおう』


 球体の表面が、ズルリと裂けた。

 中から現れたのは、これまでの蜘蛛やカマキリといった虫の姿ではない。

 四つの巨大な腕と、背中に無数の歯車を背負った、異形の『悪魔』。

 顔の半分が溶け落ちたようなその姿は、周囲の空間そのものを歪ませるほどの、圧倒的で濃密な魔力を放っていた。


「……チッ。延長戦どころか、深夜のシステムトラブル対応デスマーチに突入かよ」


 俺は、焼け焦げたリボンの残るドリーム・ステッキを肩に担ぎ、死んだ魚の目でその巨大な悪魔を睨み据えた。


 どうやら、俺の平穏な定時退社の夢は、まだまだ遠い未来の話になりそうだった。

 

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