第18話 真の仲間
真っ黒なドーム状の結界に開けた大穴から、廃工場の内部へと踏み込んだ瞬間。
俺の肌を、刃物のように鋭く、そして痛みを伴うほどの『極寒の風』が撫で斬りにした。
「くっ……! なんだ、この冷気は!」
後ろに続く結衣が、青いセーラー服の腕を抱え込んで震え上がった。
廃工場の内部は、完全な氷河期と化していた。
広大な建屋の床面は、分厚く濁った氷で覆い尽くされ、点在する錆びた機械や鉄骨の柱からは、巨大な氷柱が刃のように突き出している。
だが、その氷は、これまでにルビィが放っていたような美しく透き通ったものではない。ヘドロのような黒ずんだ色をしており、見ているだけで心がひび割れそうになる、濃密な『呪い』を内包した黒氷だった。
『ギ、ギィィィィィィッ……!!』
『アァァ……コワレル……』
氷の合間で、結界内に閉じ込められていた無数のノワールたちが、身動きが取れずに凍りついていた。
いや、完全に動きを止められているわけではない。奴らは黒氷に半ば埋まりながらも、憎悪と苦痛の呻き声を上げ、蠢いている。
そして、その地獄絵図の中心。
工場の最も奥、小高いプラットフォームの上に、彼女はいた。
「ルビィ、さん……!」
結衣が、悲痛な声を絞り出す。
真紅の魔法少女。
俺の直属の上司であり、完璧主義者の権化である氷室玲奈。
彼女は、血と泥に塗れた姿で、氷の長杖を力なく引きずりながら立っていた。
否、立っているという表現は正確ではない。彼女の意志で立っているというより、周囲を覆う凄まじい呪いの魔力が、彼女の身体をマリオネットのように強引に支えているように見えた。
昼間見た手の甲の黒い痣は、今や彼女の首筋から頬にまで這い上がり、その美しい顔の半分を禍々しい文様で侵食している。
焦点の定まらない瞳は、もはや理性を失い、狂気と絶望の狭間を彷徨っていた。
『……こないで』
ルビィの唇が、微かに動いた。
その声は、広大な廃工場全体に、反響する怨嗟の声のように響き渡った。
『こないで……。邪魔を、しないで……。全部、私が……私がやらなきゃ……!』
ギリッ、と。
彼女が長杖を握り直した瞬間。
ルビィを中心に、爆発的な吹雪が巻き起こった。
ただし、それは敵を狙い澄ました精密な魔法ではない。完全にコントロールを失った、周囲のすべてを無差別に破壊し、凍結させる暴走状態。
無数の巨大な黒氷の槍が、全方位に向けて機関銃のように発射される。
ノワールどもが次々と串刺しにされ、悲鳴を上げて砕け散っていく。
そして、その無差別の氷弾は、当然のように結界に侵入した俺たちの方へも襲いかかってきた。
「きゃあぁぁっ!」
結衣が悲鳴を上げ、杖を掲げて『希望の盾』を展開する。
しかし、結衣の淡い光の盾は、ルビィの放つ暴走した黒氷の塊を受け止めた瞬間、ミシミシと嫌な音を立ててひび割れ始めた。
「ダメです……! ルビィさんの魔力、桁違いに膨れ上がってます! 私の盾じゃ、数秒も持ちません!」
結衣が、膝をガクガクと震わせながら叫ぶ。
「結衣、お前は入り口まで下がれ。自分の身を守ることだけを考えろ」
俺は、結衣の前に立ち塞がりながら指示を出した。
「でも、お姉様は!」
「いいから下がれ! ここは私が処理する。……これは私たちのチームの、身内のトラブルだ!」
俺は、結衣を背中で庇いながら、燃え盛る重量二トンの『ドリーム・ステッキ』を構え直した。
リミッターを解除したことで、俺の身体からは相変わらずドス黒いオーラが噴き出し、それがステッキの熱で真っ赤な炎へと変換され続けている。
だが、その炎の熱量をもってしても、暴走するルビィの放つ絶対零度の呪い(黒氷)を完全に相殺することはできなかった。
俺の身体を、容赦なく黒氷の破片が切り裂いていく。
フリフリの純白ドレスがズタズタに破れ、白い肌に赤い線が幾本も走る。
『……くるな……。だれも……私に、かまわないで……!』
ルビィが、うわ言のように繰り返しながら、杖を振り下ろす。
今度は、ダンプカーほどもある巨大な氷の塊が、俺の頭上から落下してきた。
「――ジャマだッ!!」
俺はステッキを上段に振り上げ、落下してくる氷塊を真っ向からカチ割った。
砕け散った巨大な氷の破片が、俺の身体に激突し、容赦なく体温を奪っていく。
足元の水たまりが瞬時に凍りつき、俺のストラップシューズを地面に縫い付けようとする。
痛い。寒い。苦しい。
リミッターが外れているため、肉体的な苦痛がダイレクトに脳の神経を焼く。
だが。
俺は、氷の破片を顔面で受けながら、ニヤリと死んだ魚の口元を歪めた。
「痛くねえ……!」
一歩、また一歩と。
俺は、靴底に張り付いた氷を力任せに踏み砕きながら、ルビィの待つプラットフォームへと歩みを進めた。
(冬の駅で始発待ちしてた時の方が、よっぽど寒かったわ!!)
俺はステッキを振り回し、迫り来る氷の槍を次々とへし折っていく。
『アァァァァァァッ!!』
俺が近づいてくることに恐怖したのか、あるいは呪いがさらに彼女の精神を追い詰めたのか。
ルビィが、絶叫と共に両手を天に掲げた。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
工場の床一面の氷が隆起し、俺の周囲を取り囲むように、分厚い氷の壁が形成されていく。
それは、ただの壁ではない。内側に向かって無数の鋭い棘が生えた、完全な殺戮のための『氷の牢獄』だった。
「閉じ込める気か? 甘いんだよ!」
俺はステッキを大上段に構え、迫り来る氷の壁に真っ向から叩きつけた。
「アポなしで突撃した!!」
ドゴォォンッ!と、右側の壁を粉砕する。
「客先の待合室で三時間放置プレイされた、あの針のむしろの空気に比べれば!!」
ズバァァンッ!と、左側の壁を粉砕する。
「こんな牢屋、ダンボールハウスより脆いわァァァッ!!」
俺は真っ向から、最後の正面の壁を突破した。
粉々に砕け散る氷の破片の中を抜け、俺はついに、ルビィが立つプラットフォームのすぐ下まで辿り着いた。
「ハァッ……ハァッ……」
俺の息は白く濁り、全身は氷の破片で傷だらけだった。
だが、俺の足取りは止まらない。
プラットフォームを見上げる。
ルビィは、息を荒くして、信じられないものを見るような目で俺を見下ろしていた。
彼女の呪いに侵食された瞳に、僅かな『理性』の光が明滅している。
『……シロ、ちゃん……?』
ルビィの口から、微かに俺を呼ぶ声が漏れた。
それは、今までのような限界オタクの蕩けた声でもなく、俺を遠ざけようとする拒絶の声でもなかった。
迷子になった子供が、暗闇の中で知っている人の顔を見つけたような、そんなすがるような響き。
『なんで……。どうして、私なんかのために……そんなに傷ついて……』
ルビィの目から、一粒の涙がこぼれ落ち、それが頬を伝う前に氷の粒となって砕けた。
「あなたは大きな勘違いをしています」
俺は内心でそう呟きながら、ステッキを杖のようにして身体を支え、ゆっくりとプラットフォームの階段を上り始めた。
「今までに、一人で全部を背負い込んで、結局周りを巻き込んで壊れていった人をたくさん見ました。全部一人で片付けなきゃいけないなんて、思い上がりです。完璧な人間なんて、この世にはいないんですよ」
階段を上り切る。
俺とルビィの距離は、わずか数メートル。
「ファミレスで話していたじゃないですか。あなたには、頑丈で使い勝手のいい部下がいるって。だったら、どうしてその人を頼らないんですか。失敗したっていい。ミスをしたっていい。あなたが不器用でも必死に会社のために泥を被ろうともがいていれば……その部下の人は、しょうがねえなって、一緒に泥を被って背中を押してくれるはずです。……働く大人って、そういうものじゃないんですか」
『……あ……』
ルビィが、俺の顔を正面から見据えた。
いつもなら、俺の目は、完全に光を失った『死んだ魚の目』であるはずだ。
だが、今の俺はリミッターを外している。
三十歳の社畜として抑圧していた感情が爆発し、大人の男としての情熱と、部下としての強い怒りと意志が、俺の瞳の奥に確かな『光』となって宿っていた。
死んだ魚の目ではない。
決して折れることのない、真っ直ぐで、力強い、生きた瞳。
その瞳を見た瞬間。
ルビィの身体が、雷に打たれたようにビクッと震えた。
彼女の呪いに塗れた脳裏で、強固に築き上げられていた「完璧でなければならない」という氷の城壁が、今、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくのが分かった。
自分が背負わなくてもいい。
誰かに頼ってもいい。
その言葉は、彼女がずっと、誰かに言ってほしかった言葉だったのだろう。
『……あぁ……』
ルビィの目から、今度は氷の粒ではない、温かい涙がとめどなく溢れ出し、頬の黒い呪いの痣を洗い流していく。
俺は、無言のまま、最後の一歩を踏み出した。
『アァァァァァァァァッ!!』
だが、その強迫観念の氷解を邪魔するように、ルビィの身体の中に巣食っていた『呪い(ノワール)』の本能が、生存の危機を感じて暴れ出した。
ルビィの意志とは無関係に、彼女の身体が勝手に動き、手にした氷の長杖を俺の心臓めがけて突き出してきたのだ。
「シロお姉様ッ!!」
入り口で見ていた結衣が、悲鳴を上げる。
回避は不可能。
俺の身体は限界を超え、ステッキを振るう力すら残っていなかった。
だが、俺は避けるつもりは毛頭なかった。
俺は、向かってくる鋭い氷の刃に対して、ステッキを投げ捨て、無防備な両手を広げて前に飛び込んだ。
ザシュッ!
鈍い音がして、氷の刃が俺の脇腹を浅く掠め、純白のドレスを切り裂き、血飛沫が舞う。
激痛が走るが、そんなものは無視だ。
俺は、その一撃の懐に滑り込み、ルビィの真正面に到達した。
「……捕まえたぞ」
俺は、小さな両手で、ルビィの真紅のドレスの胸ぐらを、ガシッと掴み上げた。
『あ……』
ルビィが、至近距離で俺の顔を見つめる。
俺は、彼女の胸ぐらを思い切り自分の方へ引き寄せた。
「目を覚ませ、バカ痴女ッ!!」
その怒声は、魔法の力も何もない、ただのサラリーマンの魂の叫びだった。
だが、その声は、彼女の身体を覆っていた呪いの吹雪を、一瞬にして打ち払うほどの熱を持っていた。
「こんなところで、勝手に終わろうとしてんじゃねえ! 私たちを置いて、一人で逃げる気か!!!」
俺がルビィの胸ぐらを激しく揺さぶると、彼女の瞳の奥から、呪いの濁りがスゥッと引いていくのが見えた。
『……っ』
ルビィの唇が震え、彼女は力なく俺の肩へと倒れ込んできた。
俺は、泣き出しそうな上司の体を支えながら、内心の焦りを押し殺し、疲れ切った笑みを浮かべてみせた。
だが、問題は解決したわけではない。
ルビィの意識を取り戻すことには成功したが、彼女の身体に蓄積した致死量の呪いは、消えてなくなったわけではないのだ。
このままでは、彼女の肉体は呪いに耐えきれずに崩壊する。
(なら、どうする?)
決まっている。
仕事の処理能力を超えた部下(上司だが)のタスクを、キャパシティに余裕のある人間が肩代わりする。
それが、チームで仕事をする上での鉄則だ。
俺は、自分の規格外の『絶望耐性』を信じ、ルビィの身体に深く刻み込まれた黒い痣(呪い)に、自らの手を強く押し当てたのだった。




