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第17話 無形の代償

 視界の右下に表示されたARウィンドウが、危険を知らせる深紅の点滅を繰り返している。


『WARNING:LIMITER RELEASE START』

『SYSTEM OVERRIDE……30%……50%……』


 魔法少女システム『M.A.G.I.C.』の安全装置リミッターの解除プロセスが進行する、無機質な警告音。

 それが鳴り響く中、俺は構えていた重量二トンの『ドリーム・ステッキ』を、ドスンと重い音を立ててアスファルトに突き立てた。


 そして、胸の谷間(システムが捏造した無駄な装飾の一部だ)から、会社用のスマホを取り出した。


 画面をタップして、時刻を確認する。

 午後八時四十五分。


「……まだ、時間中だ」


 俺は、死んだ魚の目でデジタル時計の数字を睨みつけながら、低く呟いた。

 クロノス商事の本来の定時は午後六時である。だが、そんなものは入社案内のパンフレットにしか存在しない架空の概念だ。俺たち営業部の本当の戦いは、定時を過ぎてから始まる。

 午後八時なんて、まだ「午後の部」の延長戦に過ぎない。この時間から新規の企画書を書き始めることなどザラにある。


「お姉様……? 何を、言っているんですか……?」


 俺の背後で、結衣ピュア・サファイアが震える声で尋ねてきた。

 彼女には、俺がなぜ突然ステッキを置き、スマホで時間を気にしたのか理解できないのだろう。当然だ。彼女は光り輝く希望の魔法少女であり、大人の世界の労働基準法という名のファンタジー小説を読んだことがないのだから。


「結衣。よく聞いておけ」


 俺は、真っ黒な結界から目を離さず、スマホをポケットにしまいながら言った。


「一番やってはいけない失敗って、何だか分かるか?」

「えっ……? ええと、ミスをすること、ですか?」

「違う。ミスなんて誰でもする。人間なんだから、上に立つ偉い人だって間違える」


 俺は、結界の奥――その中心で、一人で呪いの泥に沈みかけているであろう『氷山の悪魔』の姿を想像しながら、吐き捨てるように言った。


「一番の罪は、『自分のキャパシティを超えた問題を、誰にも相談せずに一人で抱え込んで、結果的に周り全部を巻き込んで破綻させること』だ」


 そうだ。

 今のルビィ(氷室玲奈)がやっていることは、まさにそれだ。

 自分の命を懸けて後輩(結衣)を逃がしたといえば聞こえはいいが、結果として、彼女がここでノワールに反転してしまえば、終わりだ。結衣も、俺も、ただでは済まない。


 完璧なリーダーでありたい。自分が全てを処理しなければならない。

 そんな強迫観念に縛られて、彼女は今、最悪の自己犠牲という名の『問題の抱え込み』を行っている。


「上に立つ人間なら、それらしく振る舞え! 頭を下げてでも周りを頼るのが、本当の責任だろうが……っ!」


 俺のロリボイスの奥底から、大人の男としての――理不尽な上司に振り回され続ける『社畜』としての、抑えきれない怒りのトーンが漏れ出していた。


『LIMITER RELEASE……80%……90%……』


 システムの解除率が上がるにつれ、俺の身体に異変が起き始めた。


「な、何よこれ……! シロ、あんたのバイタル、完全に振り切ってるわよ!」

 通信機から、マキ博士の悲鳴のような声が聞こえる。


「想定内です。さっさと一〇〇パーセントまで上げてください」


『想定内なわけないでしょ! リミッターを外すってことは、あんたの精神を覆い隠していた「絶望耐性の壁」を取り払うってことなのよ!』


 マキ博士が何をそんなに焦っているのか。

 要するに、俺の正体がバレるリスクが跳ね上がるということだ。普段は『純白のエトワール・ブラン』というシステムが、俺の汚れた社畜のオーラを完璧にフィルタリングして、フローラルな香りとキラキラした星屑エフェクトに変換してくれている。

 リミッターを解除すれば、そのフィルターが壊れる。


「かまわんと言ったはずです」

 俺は、冷酷なビジネスライクのトーンで宣告した。


『あーもう、本当に頭のネジが飛んでるわねこのやつは!! 知らないわよ、どうなっても!!』


 マキ博士のヤケクソな叫びと共に、視界のプロンプトが激しくフラッシュした。


『LIMITER RELEASE……100%』

『SYSTEM FILTER:OFF』

『WARNING:EMOTIONAL OVERFLOW』


 ――ガチンッ。


 俺の頭の奥で、分厚い鉄の扉がこじ開けられるような、鈍い音がした。


「……ッ!!」


 俺は、思わず胸をかきむしり、片膝を突いた。

 痛いわけではない。苦しいわけでもない。

 ただ、これまで意図的に麻痺させていた『感情』という名の激流が、三十年分の澱みとなって一気に全身の血管を駆け巡り始めたのだ。


「お、お姉様!? 大丈夫ですか!?」

 結衣が駆け寄ろうとするが、俺は片手を上げてそれを制止した。


「来るな。……今の俺には、近づくな」


 俺の身体から、異様な『オーラ』が噴出し始めていた。

 これまで俺の周囲を飛んでいたピンク色の星屑エフェクトは、みるみるうちにドス黒く変色し、まるでタバコの煙のように淀んだ空気を形成していく。


 純白のフリルドレスからは、フローラルな香りに代わって、強烈な『缶コーヒーの酸化した匂い』、そして『徹夜三日目の徹夜明け特有の脂汗の匂い』が混ざり合った、この世の終わりみたいな悪臭が漂い始めた。


「うっ……!?」

 結衣が思わず鼻をつまみ、数歩後ずさる。


「お、お姉様……? なんか……すごく、私のお父さんが日曜日の夜に出すのと同じ、嫌な匂いが……それに、背中からすごくドンヨリした黒いオーラが……」


 結衣の指摘通り、俺の背中に生えていた小さな天使の羽は、今や煤にまみれたカラスの羽のように黒く濁り、ポロポロと抜け落ちていた。


 これが、俺の本来の姿。

 三十歳の社畜、神堂誠の、ありのままの魂の形である。

 

『ヒ、ヒヒッ……。なんだ、その不愉快なオーラは』


 結界の奥で監視しているベルモットの声が、初めて動揺を含んで響いた。


『純白の魔法少女の姿を保ちながら、その中身は、我々ノワール以上にドス黒く、腐りきった怨念そのもの……! 貴様、一体何者だ!?』


「ただの、魔法少女だよ」


 俺は、ゆっくりと立ち上がった。

 身体が、異常に熱かった。

 社畜の怨念や絶望だけではない。リミッターが外れたことで、俺の心のさらに奥底――ずっと昔に忘れ去っていたはずの感情が、掘り起こされていた。


 そうだ。

 俺は最初から、こんな死んだ魚の目をした人間だったわけではない。

 入社したての頃は、「この会社を良くしてやる」「大きなプロジェクトを成功させてやる」という、青臭いけれど本物の『情熱』を持っていたはずだ。

 日々の理不尽な業務と、上司からの終わらないプレッシャーによって、いつしかその情熱には分厚い蓋がされ、単なるタスク処理マシーンへと成り下がってしまったが。


 だが、俺の心の中にあったその炎は、完全に消え去っていたわけではなかった。


「……思い出したよ。俺は、仕事タスクを途中で投げ出す奴が、一番嫌いなんだ」


 俺は、自分一人で全てを抱え込み、勝手に破滅しようとしているあの『氷山の悪魔』に対して、かつてないほどの怒りを感じていた。

 完璧主義を気取るなら、最後まで完璧にやり遂げてみせろ。

 途中で心が折れて「やっぱり一人じゃ無理でした」と地獄に逃げ込むくらいなら、最初から泥をすすってでも周囲を頼れ。それが、組織で働く人間の責任というものだ。


「燃えろ」


 俺が呟いた瞬間。

 俺の身体から噴出していたドス黒いオーラが、一瞬にして『真っ赤な炎』へと性質を変化させた。


 いや、物理的な炎ではない。

 それは、かつて俺が持っていた『仕事への情熱』と、現在俺が抱えている『理不尽な上司への怒り』が融合して生み出された、全く新しい概念のエネルギーだった。


 俺の右手に握られた、重量二トンの『ドリーム・ステッキ』。

 ピンク色のリボンが焼け焦げ、先端の「LOVE」のネオンサインがパリンと砕け散る。

 代わりに、超高密度合金のステッキ全体が、鍛冶屋の炉から取り出された鉄のように真っ赤に熱を帯び、脈打つように輝き始めた。


「な、なにこれ……! 魔法適性ゼロのシロちゃんから、信じられない魔力数値が検出されてる……!」

 結界の外にいる結衣が、自身の杖のセンサーを見て悲鳴を上げる。


 そうだ。

 リミッターが外れたことで、俺の抑圧された感情は、極限の絶望耐性というフィルターを通して、莫大な『反・絶望エネルギー(魔法力)』へと変換されているのだ。


 魔法など使えない。ビームも撃てない。

 俺にあるのは、この二トンの鈍器と、煮えたぎるような社畜の意地だけ。


 だが、今の俺の物理攻撃には、明確な『概念』を破壊する力が付与されている。


『バカな……。その結界は、彼女自身の「自己犠牲」の意志で強固に守られている! 外部からの力では絶対に破れ――』

 ベルモットが、早口で否定しようとする。


「自己犠牲?」


 俺は、真っ赤に焼け焦げたステッキを両手で握り締め、真っ黒なドーム状の結界の真正面に立った。


「そんなポーズで、自分に酔ってんじゃねえぞ、ルビィィィィィッ!!」


 俺は、大上段にステッキを振りかぶった。

 結界の奥底で、一人で震えているであろう彼女に向けて、俺のありったけの怒声を叩きつける。


「お前が死んで、丸く収まる問題なんて一つもねえんだよ!!」


(お前がいなくなったら、明日のB社の契約書の決裁は誰が下すんだ!? 今月の営業部の売上目標は誰が責任取るんだ!?)

 心の中ではバリバリの社畜としての怨嗟を叫びながら、口に出す言葉は正義の魔法少女のそれを装う。


「自分が完璧だと思い上がって、一人で勝手にパンクしてんじゃねえェェェッ!!」

(組織にとって一番迷惑なんだよ! 上司なら、部下に仕事タスクを振れェェェェッ!!)


 俺は、右足でアスファルトを踏み砕き、腰の回転を極限まで引き絞った。


 全身の筋肉が悲鳴を上げ、血管が弾け飛びそうになる。

 三十歳の情熱と、社畜の怒り。

 その全てを、この二トンの質量に乗せて。


「――定時退社、強制執行タイムカード・パンチッ!!!」


 俺の魔法少女としてのささやかな目標(必殺技)の叫びと共に、燃え盛るドリーム・ステッキが真っ黒な結界の表面めがけて、魂の底からのフルスイングで叩き込まれた。


 ズドォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!


 天地を揺るがすような、凄まじい衝撃音が爆発した。

 結界が、俺のステッキの直撃を受けて、大きく、あり得ないほど深く内側へと凹む。


『ギ、ギギギギギギギギッ……!!』

 結界そのものが、悲鳴のような不快な摩擦音を上げる。


「一人で抱え込むな……っ!! 俺たちを、頼れェェェェェッ!!」


 俺は、歯を食いしばり、さらにステッキを押し込んだ。

 腕の筋肉が断裂するかと思うほどの反発力。

 ルビィの『私がやらなきゃ』という自己犠牲の意志と、俺の『一人で背負うな』という怒りが、結界の表面で激突し、火花を散らす。


 そして。


 ピキッ。


 ガラスにヒビが入るような、小さな、しかし決定的な音が鳴った。


 ステッキの先端がめり込んだ結界の中心から、蜘蛛の巣状の巨大な亀裂が、ビキビキビキッ!と音を立てて全体へと広がっていく。

 絶対に破れないはずの孤立の結界に、大穴が開いたのだ。


『ば、バカな……! 概念で編まれた結界を、純粋な物理と「怒り」だけで叩き割っただと!?』

 ベルモットの驚愕の絶叫が響く。


 俺は、ステッキを引き抜き、肩で大きく息をした。

 結界に開いた巨大な穴からは、内部の廃工場の様子と、うごめく無数のノワールたちの姿が見える。


「……道は開けたぞ、結衣」

 俺は、背後で呆然としている青い魔法少女に声をかけた。


「は、はいっ!」

 結衣はハッと我に返り、青い杖を握り直した。


「ここからは、あの馬鹿を引きずり出して連れ帰るぞ」


 ドス黒いオーラと真っ赤な炎を纏った純白の幼女(俺)は、ニヤリと死んだ魚の目を細め、開かれた地獄の門へとその小さな足を踏み入れた。

 

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