第16話 罠と孤立
強制転送の光のトンネルを抜けながら、俺の脳内はかつてないほどの焦燥感に支配されていた。
これまで、どんな理不尽な残業を押し付けられても、どんなに強大なノワールを前にしても、俺の心は常に凪いでいた。
「まあ、終われば帰れるしな」「死んだら明日の会議に出なくて済むしな」という、極限の諦観があったからだ。
だが、今は違う。
俺の直属の上司であり、魔法少女の戦友でもある氷室玲奈が、自分自身の限界を無視して、敵の罠のど真ん中へ単騎で突入したのだ。
(あの馬鹿……! 仕事の抱え込みは、一番組織を崩壊させる原因だって、いつも俺たちに口酸っぱく言ってるくせに!)
俺は心の中で激しく毒づいた。
昼間のオフィスで見た、彼女の手の甲に浮かび上がっていた黒い蜘蛛の巣のような痣。呪いの蓄積。
あの状態で多数のノワールと連戦すれば、肉体はおろか精神までが汚染され、最悪の場合、彼女自身が強大なノワールへと反転してしまう。ベルモットの狙いは間違いなくそれだ。
もし彼女がここで倒れれば、明日の営業部の業務は完全にストップし、尻拭いは全て俺に回ってくる。それだけは絶対に避けなければならない。
光が弾け、視界が開けた。
到着したのは、新東京市の外れに位置する第4ブロックの廃工場地帯。
錆びついた鉄骨と、無機質なコンクリートの残骸が立ち並ぶ、殺風景な場所だ。夜風が冷たく吹き抜け、遠くでトタン板がガタガタと鳴っている。
「結衣!」
俺は、視界の端にしゃがみ込んでいる青いセーラー服の少女を見つけ、駆け寄った。
「シロお姉様……ッ!!」
姫島結衣は、俺の姿を見るなり、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくりながら飛びついてきた。
彼女のセーラー服は所々が破れ、サファイアブルーの髪も土埃に塗れている。怪我はないようだが、精神的にかなり追い詰められているのが分かった。
「何があった。ルビィさんはどこだ」
俺は結衣の肩を掴み、真っ直ぐに彼女の目を見た。俺のロリボイスには、普段の無感情なトーンではなく、切羽詰まったビジネスライクな響きが混ざっていた。
「わ、私……ルビィさんと一緒に、ここに出現したノワールの群れを追ってきたんです。でも、工場の中に入った途端……」
結衣はしゃくり上げながら、震える指で工場の奥を指差した。
そこには、俺の常識を覆す光景が広がっていた。
巨大な廃工場の建屋全体を覆い尽くすように、半透明のどす黒いドーム状の『結界』が展開されていたのだ。
表面には、墨汁を水に垂らしたようなマーブル模様の淀みが渦巻き、近づくだけで吐き気を催すような負のエネルギーを放っている。見ているだけで肩が重くなる、強烈な呪いの塊だ。
「敵の罠でした……。無数のノワールが隠れていて、いきなり私たちを取り囲んだんです。私が希望の魔法で浄化しようとしたんですけど、敵の数が多すぎて……」
「それで、ルビィさんが殿を務めたのか」
結衣は、痛ましそうに首を横に振った。
「ルビィさん、私を……結界の外に、氷の魔法で強引に吹き飛ばしたんです。『あなたはここで見てなさい! 足手まといよ!』って、すっごく怖い顔で怒鳴って……。それで、私が出た直後に、この黒い壁が完全に閉じちゃって……!」
俺はギリッと奥歯を噛み締めた。
足手まといだから放り出したのではない。
結衣の希望の魔法は、呪いの蓄積に対して有効だ。だが、これほど高濃度のノワールの群れの中では、実戦経験の浅い結衣の精神が先に汚染されてしまう。
だからルビィは、嫌われ役を買って出てでも、結衣を安全圏へ逃がしたのだ。自分が全てを処理しなければならないという、彼女特有の極端な『完璧主義』ゆえに。
(……どこまで不器用なんだ、あの人は)
「マキ博士、聞こえますか!」
俺は、軍用通信機に向かって叫んだ。
『ええ、聞こえてるわ。状況は最悪よ、シロ』
マキ博士の声も、かつてないほど切羽詰まっていた。背景でラボの警告音が鳴り響いている。
『その結界、ベルモットが仕掛けた「魔法少女反転」のための儀式場よ。内部に高濃度の絶望を充満させ、ルビィの魔力を強制的に枯渇させた上で、呪いを過剰摂取させる気だわ!』
「ルビィさんの通信は!?」
『切られてる。結界の電波障害もあるけど、あの子自身が意図的にデバイスの電源を落としているわ。……私たちに、自分の無様な姿を見せたくないのか、あるいは私たちを巻き込みたくないからよ』
「ふざけるな。組織のホウレンソウ(報告・連絡・相談)を無視した単独行動は、減俸どころか懲戒免職モノだぞ!」
俺は、ドリーム・ステッキを召喚し、黒いドーム状の結界めがけて歩き出した。
二トンの質量を右手に乗せ、結界の表面めがけてフルスイングを叩き込む。
――ガァァァァァァンッ!!
鈍い、鐘を叩いたような音が廃工場に響き渡った。
だが、俺の規格外の物理破壊力をもってしても、結界の表面はゴムのように大きく凹んだ後、ビヨンと反発して俺のステッキを弾き返した。
「……硬いな。前回の、ベルモットの『月曜病』の結界よりタチが悪い」
『ただの物理障壁じゃないわ! その結界は「孤立」と「自己犠牲」の概念で編まれているの! 中にいるルビィ自身が「私が一人でやらなきゃ」と強く思い込んでいる限り、外部からの侵入を強固に拒絶する仕組みよ!』
マキ博士の解説に、俺は舌打ちをした。
外から鍵がかかっているのではない。ルビィ本人が、内側から頑丈な鍵をかけて、自分自身を地獄に閉じ込めているのだ。
なんという面倒くさい精神構造だ。自分が傷ついても他人に迷惑をかけたくないという、歪んだ責任感。
「結衣、下がってろ」
俺は再びステッキを振り上げ、連続で結界を叩き始めた。
衝撃波が辺りの瓦礫を吹き飛ばすが、ドームはびくともしない。むしろ、俺の攻撃を吸収してさらに黒さを増しているようにすら見える。
『シロ! 軍の偵察ドローンが、結界内部の映像のハッキングに成功したわ! あなたの視界のプロンプトに映像を回す!』
マキ博士の声と共に、俺の右目のARウィンドウに、ノイズ混じりの荒い映像が映し出された。
――廃工場の内部。
そこは、まさに地獄の底だった。
無数の、それこそ数百という単位の小型・中型のノワールが、工場の床や壁、天井を埋め尽くすように蠢いている。
それらが一斉に、中央で孤立する真紅の魔法少女へと襲いかかっていた。
「……ルビィさんッ!!」
俺のプロンプトの映像を覗き込んだ結衣が、悲鳴を上げた。俺も、思わず息を呑んだ。
ルビィは、もはや満身創痍だった。
誇り高き真紅の軍服風ドレスは無残に引き裂かれ、白い肌のあちこちから血が流れている。
彼女の長い黒髪は乱れ、美しい顔は苦痛と疲労で歪んでいた。
だが、それ以上に深刻なのは、彼女の『魔法』の変化だった。
ルビィが長杖を振るうたびに放たれる氷の槍や吹雪が、本来の澄み切った青白さではなく、まるで泥水のようにどす黒く濁っていたのだ。
『はぁっ……! はぁっ……!!』
ドローンのマイクが、ルビィの荒い息遣いを拾う。
彼女が魔法を放ち、ノワールを一体砕くたびに、飛び散った呪いの霧が彼女の身体にねっとりと絡みつく。
昼間、彼女の手の甲で見た黒い痣が、今や腕全体を這い上がり、首筋にまで達しようとしていた。
『ダメ……。休んじゃ、ダメ……!』
ルビィが、よろけながらも必死に杖を構え直す。
四方八方から迫るノワールの触手を、濁った氷の盾で防ぐ。だが、盾はすぐにひび割れ、砕け散る。
防ぎきれなかった一撃が彼女の肩を打ち据え、ルビィはたまらず地面に転がった。
「ルビィさん!! もうやめて! 死んじゃう!!」
結界の外で、結衣が泣き叫びながら黒い壁を青い杖で叩いている。だが、希望の光は結界に弾かれるばかりだ。
俺は、無言でステッキを握りしめ、映像を見つめていた。
ルビィは、泥に塗れながらも、杖を支えにして再び立ち上がった。
もはや、魔力など一滴も残っていないはずだ。立っていることすら奇跡に近い。
なぜ、そこまでして戦うのか。
結衣を逃した時点で、自分もワープで逃げるという選択肢はあったはずだ。なのに、彼女は通信を切り、逃げ道を塞ぎ、一人でこの地獄を処理することを選んだ。
カメラのノイズ越しに、ルビィの掠れた、しかし異常なまでの執着を持った独白が聞こえてきた。
『……負けない。私は……絶対に、諦めない……っ!』
彼女の瞳の奥。
そこにあるのは、クロノス商事の営業部長としての、異常なまでの完璧主義と、全てを支配しなければ気が済まないという強迫観念だった。
『私が全部、片付けなきゃいけないの……! 足手まといの小娘も、あの真っ白な天使も……! 私が守って、私が導かなきゃ……!』
ルビィが、血を吐くような絶叫と共に、残された命を燃やすかのような巨大な(しかし真っ黒に濁りきった)氷の嵐を放った。
周囲のノワール数十体が、一瞬にして凍りつき、砕け散る。
しかし、その代償は致命的だった。
強大な呪いのバックフラッシュがルビィを襲い、彼女は完全に糸の切れた操り人形のように崩れ落ち、ピクリとも動かなくなった。
「…………っ」
俺は、映像から目を離し、目の前の真っ黒な結界を睨みつけた。
胸の奥で、ドロドロとした熱いものが渦巻いているのが分かった。
三十歳の社畜として、完全に死滅したと思っていた感情。
それは、どうしようもないほどの『怒り』だった。
自分が完璧だと思い込んでいる。
自分が全てを抱え込めば、組織が回ると思い込んでいる。
結衣を守り、シロ(俺)を守る?
ふざけるな。それは単なる自己満足であり、残された人間への最悪のテロ行為だ。
もし彼女がここで死ねば。
クロノス商事の営業部は、大黒柱を失って完全に崩壊する。明日の役員会議の資料は誰が説明するのだ。未解決のクレーム案件はどうなる。
全て、一番社歴の長い主任である俺(神堂誠)の肩に、今以上のデスマーチとして重くのしかかってくるのだ。
「……ふざけんじゃねえぞ、あの女」
俺の口から、低く、震える声が漏れた。
それは、ロリボイスのフィルターを通しても隠しきれない、大人の男としての――理不尽な上司に振り回される『部下』としての、煮えたぎるような怒りの声だった。
「お姉様……? どうしたんですか……?」
俺の異変に気づいた結衣が、涙声で尋ねてくる。
俺は答えず、結衣の前に立ち塞がるようにして、真っ黒な結界と対峙した。
「誰が、全部一人でやれと言った。誰が、俺たちを安全な場所から見ているだけの無能扱いしろと言った」
俺は、ステッキの柄を両手で力強く握り直した。
ギチギチと、超高密度合金の柄が軋む音が鳴る。
『ヒ……ヒヒヒッ! ムダダ、ムダダ!』
結界の奥から、ベルモットの嘲笑うような声が響いた。姿は見えないが、この空間全体を奴が監視しているのは間違いない。
『彼女の心は、すでに自己犠牲という名の絶望に染まりきった。あと数分もすれば、呪いが限界点を突破し、彼女は我々にとって最高の「絶望の女神」として生まれ変わる! この結界は、彼女自身の意志が拒絶している限り、外からは絶対に破れ――』
「うるせえ」
俺は、ベルモットの三流悪役のような演説を、冷酷に切り捨てた。
「あの人の意志が拒絶している? 孤立の結界? 知るかそんなもん」
俺の身体から、これまで抑え込んでいた何かが、ズルリと音を立てて引き出されていくのを感じた。
痛くない、悲しくない、怒りもない。そうやって心をゴムのように固め、感情を殺して生きてきた三十年。
だが、目の前で、上司が勝手に一人で自滅し、俺の平穏(?)な社畜ライフを根本から破壊しようとしているのを見て、何も感じないほど、俺は人間を捨て切れてはいなかったらしい。
「結衣、下がってろ。絶対に近づくな」
俺の極限まで冷えた声に、結衣はビクッと肩を震わせ、黙って数歩後ずさった。
「マキ博士」
俺は、通信機に向かって静かに言った。
『な、何よシロ。あなたのバイタル、ちょっと異常な数値を出してるわよ……』
「魔法少女システムの、リミッターを外してください」
『……は?』
「俺のこの異常な絶望耐性は、感情の起伏をフラットにするシステム側の安全装置の恩恵もあるんでしょう? それを、全部切ってください。俺の本来の『感情』を、魔力出力に全振りしたいんです」
通信の向こうで、マキ博士が息を呑む音が聞こえた。
『バカなこと言わないで! リミッターを外せば、あんたの「極限の絶望耐性」のバランスが崩れるわ! それに、あんたの本来の精神波形……ドス黒いオーラが、シロの純白の姿から漏れ出すのよ!?』
「かまいません」
俺は、目の前の結界を真っ直ぐに見据えたまま、断言した。
『……っ、知らないわよ! 後で泣きついてきても、ボーナスは減額だからね!』
マキ博士の怒鳴り声と共に、俺の視界のプロンプトに『LIMITER RELEASE(リミッター解除)』の赤い警告文字が浮かび上がった。
ガチンッ。
俺の心の中で、重い枷が外れる音がした。
そして、俺の身体の奥底から、これまで抑え圧し殺してきた、どす黒く、熱く、どうしようもないほどの『大人の男の情熱と怒り』が、爆発的なエネルギーとなって吹き上がり始めた。
俺は、ドリーム・ステッキを上段に構え、真っ黒な結界に向けて、ゆっくりと歩みを進めた。




