第15話 過労と呪いの蓄積
黒服の幹部『ベルモット』との邂逅から数日が経過した。
新東京市は、かつてないほどの異常事態に見舞われていた。
ベルモットの宣言通り、ノワールの出現頻度が爆発的に跳ね上がったのだ。それまで週に二、三回程度だった出撃要請が、今や一晩に四回、五回と立て続けに鳴り響くのが当たり前になってしまった。
「……シロ。Bポイントのノワール、掃討完了しました」
『了解よ! 休む間もなくて悪いけど、次はCポイントの港湾施設に大型反応! すぐに向かって!』
「……はいはい。残業代、ちゃんと青天井で計算しておいてくださいよ」
深夜二時。
俺は黒い泥まみれになった純白のフリルドレスを翻し、重量二トンの『ドリーム・ステッキ』を肩に担いで、次の戦場へと強制転送した。
昼間はクロノス商事で終わりなき資料作成とクレーム対応に追われ、夜は軍の飼い犬として化け物を物理的に粉砕し続ける日々。
給料が三倍になったとはいえ、俺の身体と精神は常に限界値のレッドゾーンを振り切っていた。
特に最近、俺を悩ませているのが、右肩から背中にかけての強烈な『重だるさ』である。
「……いでででっ。また肩甲骨の裏側が張ってきたな。湿布が全然効かないぞ」
ノワールを一体倒すたびに、奴らの身体から黒い霧のようなものが立ち上り、俺たち魔法少女の身体へと吸い込まれていく。
マキ博士はそれを『呪い』と呼んでいた。人間の負の感情の残滓であり、魔法少女の精神を汚染し、肉体を蝕む劇薬だと。
だが、極限の絶望耐性(という名の、三十年物のすり減った社畜魂)を持つ俺にとって、その『呪い』は、精神汚染というよりも純粋な『肉体疲労』として出力されていた。
要するに、パソコンの前に十二時間座り続けた後にやってくる、あの嫌な肩こりや腰痛、眼精疲労と全く同じ症状なのだ。
「呪いって言っても、要は乳酸みたいな疲労物質だろ。今度の休みに、ちょっといいマッサージチェアでも買うか。給料は上がったんだし」
俺は、戦闘の合間にステッキの柄で自分の肩をトントンと叩きながら、極めて現実的対策を練っていた。
俺にとっては、怪物の呪いよりも明日の朝イチの役員会議の方がよっぽど恐ろしい。
しかし。
俺が『ただの四十肩の初期症状』としてスルーできているこの呪いは、普通の魔法少女にとっては、まさに命を削る猛毒だったのだ。
――ズガァァァァァァンッ!!
港湾施設にそびえ立つ、巨大な蟹型のノワール。
その硬い甲羅を、真紅の魔法少女が放った氷の槍が直撃する。
だが、槍は甲羅を貫通することなく、表面でパリンと乾いた音を立てて砕け散ってしまった。
『ギシャァァァァッ!!』
蟹型ノワールが、ノーダメージで車ほどもある巨大なハサミを振り下ろしてくる。
「くっ……!」
ルビィは舌打ちをして後方へ跳躍したが、その動きは俺の目から見ても明らかに精彩を欠いていた。
ステップの幅が狭く、着地の際に足元が僅かによろけている。
何より、彼女の長杖から放たれる冷気のオーラが、いつものような澄み切った青色ではなく、どこか黒く濁ったような、不気味な色を帯びていたのだ。
「――残業、消去!」
俺はルビィとノワールの間に割って入り、下からカチ上げるようなフルスイングで、蟹の巨大なハサミを根元から粉砕した。
そのままステッキを回転させ、もう一撃で甲羅の真ん中をカチ割る。
爆散するノワール。
黒い泥が飛び散り、俺たちの身体に呪いの霧が吸い込まれていく。
「ふぅ……。大丈夫ですか、ルビィさん」
俺がステッキを収納して振り返ると、ルビィは杖を支えにして、肩で激しく息をしていた。
彼女の美しい額には脂汗が浮かび、顔色は蝋のように蒼白い。
「……ええ。大丈夫よ。ちょっと、足場が悪かっただけ」
ルビィは強がるように姿勢を正したが、その声はひどく掠れていた。
彼女は、俺に対しては常に『完璧で頼れるお姉さん』であろうとしている。だが、連日の激増するノワールとの戦闘は、明らかに彼女の許容量を超えていた。
ただでさえ、彼女は本業(クロノス商事の営業部長)でも、俺たち部下を震え上がらせるほどの激務をこなしているのだ。
昼間は完璧な『氷山の悪魔』として会社を回し、夜は世界を救うために化け物と戦う。いくら気力があっても、肉体が持つはずがない。
「あまり無理をしないでください。ここは俺と、ピュア・サファイア(結衣)で回しますから、少し下がって休んでいては……」
俺が、同僚としての純粋な気遣いで声をかけると、ルビィはカッと目を吊り上げた。
「馬鹿言わないで! あんなポッと出の小娘に任せておけるもんですか! それに、シロちゃんにばかり負担をかけるわけにはいかないわ。私は平気。これくらい、どうってことないのよ」
彼女はそう言い捨てると、痛む足を引きずるようにして、次のポイントへと向かおうとした。
その背中を見て、俺の心の中に暗い影が落ちた。
ビジネスにおいて、一番やってはいけないことは何か。
それは『キャパシティを超えた仕事を、誰にも相談せずに一人で抱え込むこと』だ。完璧主義の人間ほどこの罠に陥りやすく、結果としてある日突然倒れ、プロジェクト全体を崩壊させる。
『次は、その気高い「氷山」を崩させてもらうぞ。強固なプライドを持つ者ほど、一度折れれば最高の絶望を産み出すからな……』
ベルモットの言葉が、脳裏にこびりついて離れない。
奴は、ルビィのこの『完璧主義ゆえの脆さ』を完全に見抜いている。わざとノワールの出現数を増やし、彼女の疲労と呪いの蓄積を加速させているのだ。
(……このままじゃ、本当にマズいかもしれないな)
俺は、深い溜息をつきながら、ルビィの危うい背中を追った。
翌日の午後。
クロノス商事の営業部フロアは、いつも通りの重苦しい空気に包まれていた。
俺は、給湯室でコーヒーメーカーに豆を補充しながら、チラリと部長室の方へ視線をやった。
ガラス張りのブラインドの向こう側で、氷室玲奈部長がパソコンのモニターと睨み合っている。
だが、その様子は、昨日までの『氷山の悪魔』とは少し違っていた。
普段なら、キーボードを叩く音は機関銃のように正確で力強いはずなのに、今日のタイピングはどこかリズムが悪く、時折、パタッと手が止まっては、額を押さえるような仕草を見せている。
遠目からでも分かるほど、化粧のノリが悪い。いつもは完璧に引かれているアイラインが、少しだけ乱れているように見えた。
「……神堂主任」
隣の席の後輩が、小声で話しかけてきた。
「なんだ」
「今日の氷室部長……なんか、おかしくないですか? さっき俺、提出した見積書を突き返されたんですけど、いつもなら一時間くらいネチネチ詰められるはずなのに、『ここ直して』って一言だけで、すぐ奥に引っ込んじゃったんですよ」
「……」
俺は無言で後輩を見た。
「いや、俺としては助かるんですけどね! でも、あの悪魔が、俺の計算ミスを五分で見逃すなんて、あり得ないっていうか……。もしかして、体調でも悪いんですかね?」
「馬鹿言え。あの人が風邪なんか引くわけないだろ。ウイルスのほうが凍死して逃げていくわ」
俺は適当に誤魔化したが、内心の焦りは最高潮に達していた。
やはり、昨夜の限界突破の戦闘(と呪いの蓄積)が、現実の肉体にまで深刻な影響を及ぼし始めているのだ。
ルビィの魔法の威力が落ちていたように、玲奈の仕事の精度も確実に落ちている。精神と肉体はリンクしているのだ。
俺は、コーヒーメーカーから紙コップにホットコーヒーを注いだ。
そして、自席には戻らず、そのまま部長室へと向かった。
コンコン、とドアをノックする。
普段なら即座に「入れ」という鋭い声が返ってくるはずだが、数秒の間の後、かすれた声で「……どうぞ」という返事があった。
俺がドアを開けて入ると、玲奈はデスクに突っ伏すようにして書類を読んでいた。
俺の顔を見ると、彼女はハッとして姿勢を正し、いつもの冷ややかな仮面を被ろうとした。
「……神堂。何の用? B社の契約書の修正案なら、期限は夕方のはずだけど」
声に覇気がない。
目の焦点が、微妙に合っていない。明らかに発熱しているか、極度の疲労状態だ。
「いえ。書類はまだですが……これ、どうぞ」
俺は、手に持っていた紙コップのコーヒーを、コトンと玲奈のデスクの端に置いた。
ブラックではない。ミルクと砂糖を少し多めに入れた、微糖のコーヒーだ。
「……何よ、これ」
玲奈が、怪訝そうにコーヒーと俺の顔を交互に見る。
「少し、お疲れのようにお見受けしましたので。糖分を摂ったほうが、脳の働きが良くなりますから」
俺は、営業スマイル(目は完全に死んでいる)のまま、淡々と答えた。
「……余計なお世話よ。部下のくせに生意気ね」
玲奈はプイッとそっぽを向き、冷たい言葉を吐き捨てた。
しかし。
彼女はコーヒーを突き返すことはせず、そっとその温かい紙コップを両手で包み込んだ。
そして、俺から視線を逸らしたまま、フーフーと軽く息を吹きかけ、一口だけ口をつけた。
「……甘い」
ぽつり、と。
玲奈の口から、微かな声が漏れた。
それは、文句ではなく、どこか安心したような、張り詰めていた糸が少しだけ緩んだような、そんな響きを持っていた。
彼女の頬が、ほんのりと赤く染まっている。
発熱のせいかもしれないが、俺には、彼女が強がっている自分を少し恥じているように見えた。
(……チョロい。この人、本当にチョロいのでは?)
昼間は氷山の悪魔として恐れられているが、中身は夜のファミレスで見せた限界オタクのポンコツ女だ。
こうして少し部下に気遣われただけで、あからさまに態度を軟化させている。
「これ、あなたが淹れたの?」
玲奈が、コップを両手で持ったまま、上目遣いで俺を見てきた。
「ええ、まあ。社内のコーヒーメーカーのやつですが」
「そう。……まあ、悪くないわね。普段は気が利かないくせに、変なところだけ鼻が利くのね。甘すぎる気もするけど、今の私にはちょうどいいかもしれないわ」
玲奈は、フイッと視線をそらしながら、文句と照れ隠しが混ざったような感想を述べた。
「恐縮です。常に部長のご体調……いえ、お顔色を拝見しておりますので」
「フン、口の減らない部下ね」
俺が会釈をして、部長室を後にしようとした、その時だった。
「……あ」
玲奈が、コーヒーを持ったまま、デスクの端にある書類を取ろうとして手を伸ばした。
その時、彼女のスーツの袖口がわずかにめくれ上がり、白く細い手の甲があらわになった。
俺の視線が、そこに釘付けになった。
「部長、その手は……」
「えっ?」
玲奈が慌てて袖を引き下げたが、俺は見逃さなかった。
彼女の右手の手の甲。真っ白な肌の上に、どす黒い、血管が浮き出たような『痣』のようなものが、蜘蛛の巣のように広がっていたのだ。
打撲の痣ではない。
皮膚の下で、黒い泥のようなものが蠢いているかのような、不気味な紋様。
間違いない。ノワールの『呪い』だ。
俺のように肉体疲労としてスルーできない彼女の身体に、ベルモットの結界や、連日の戦闘の呪いが、物理的な汚染として明確に現れ始めているのだ。
「……なんでもないわ。ちょっと、どこかにぶつけただけよ」
玲奈は、左手で右手を隠すようにしながら、俺をキッと睨みつけた。
その声には、明らかな焦りと、自分の弱み(限界)を部下に見られたくないという強烈なプライドが滲んでいた。
「神堂。さっさと仕事に戻りなさい。夕方までにB社の書類を出せなかったら、今度こそクビにするわよ」
「……承知いたしました」
俺は深く頭を下げ、部長室のドアを閉めた。
ドアの外に出た瞬間、俺の背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走った。
呪いの蓄積は、魔法少女にとって精神崩壊のカウントダウンを意味する。マキ博士の言っていたことが正しければ、あの痣が全身を覆った時、玲奈の心は完全に壊れ、彼女自身が『最悪のノワール』へと反転してしまう。
『次は、その気高い「氷山」を崩させてもらうぞ』
ベルモットの嘲笑うような声が、幻聴となって耳の奥で響いた。
罠だ。
奴らは、確実に玲奈を追い詰めている。
俺の規格外の絶望耐性に対抗するために、一番脆く、そして一番俺に近い存在である彼女をターゲットに定めたのだ。
(……クソッ。どうすればいい)
俺は自席に戻り、キーボードを睨みつけたが、手は全く動かなかった。
俺は魔法適性ゼロの物理アタッカーだ。敵を殴り倒すことはできても、玲奈に蓄積した呪いを浄化する手段など持っていない。
それができるのは、結衣の『希望の魔法』くらいだが、あの二人は絶望的に反りが合わないし、玲奈のプライドが他人に頼ることを許さないだろう。
じわじわと、だが確実に。
俺たちの平穏な(ブラックな)日常は、崩壊の淵へと追いやられていた。
そして、その『破綻の時』は、最悪のタイミングで訪れた。
夕方。
定時を少し過ぎた頃、オフィスに重い空気が漂い始めたその時。
ヴヴヴヴヴヴッ!!
俺のポケットの軍用スマホが、悲鳴を上げるように激しく振動した。
同時に、部長室のドアがバンッ!と荒々しく開き、玲奈が血相を変えて飛び出してきた。
彼女はコートも羽織らず、俺の目を見ることもなく、ただ一点を虚ろに見つめながら、フロアを走り抜けていく。
「氷室部長!?」
周囲の社員たちが驚いて声をかけるが、玲奈は耳に入っていないようだった。
彼女はそのまま非常階段のドアを押し開け、姿を消した。
(まさか……)
俺は慌ててトイレに駆け込み、個室の鍵を閉めてスマホの画面を開いた。
画面には、真っ赤なアラートと共に、メッセージの通知が表示されていた。
マキ博士からではない。
送信者は、『ピュア・サファイア(結衣)』。
『シロお姉様ッ!! 助けて!!』
『ルビィさんが……ルビィさんが!』
『敵の罠だって言ったのに……! ものすごい呪いの気配を纏ったまま、たった一人で敵の大群の中に突っ込んでいきました!』
『このままじゃ、ルビィさん、死んじゃいます……ッ!!』
俺は、奥歯が砕けるほど強く噛み締めた。
最悪のシナリオが、現実のものとなった。
ベルモットの仕掛けた罠。限界を迎えていた玲奈の肉体と精神。
あの『氷山の悪魔』が、持ち前の完璧主義から誰にも助けを求めず、一人で全てを抱え込んで破滅しようとしている。
俺は震える指で、急いでフリック入力をした。
『場所はどこですか』
数秒後、結衣から返信が来た。
『廃工場地帯です! 第4ブロックの』
そこで、メッセージが途切れた。
「……結衣?」
俺が何度かメッセージを送っても、既読はつかない。通信が物理的に遮断されたのか、あるいは結衣自身に何かあったのか。
俺はスマホを握り潰さんばかりの力で握りしめ、視界のプロンプトを睨みつけた。
「……待ってろ、バカ上司」
俺は、これまでにないほど低く、怒りに満ちた声で呟いた。
「俺が、残業代(代償)をきっちり取り立ててやる」
トイレの個室が、極彩色の光に包まれる。




