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第14話 ブラック・月曜病

 強制転送ワープの光のトンネルが弾け飛び、俺は新東京市・中央区のメインストリートへと降り立った。


 視界が開けた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。

 夜の中央区といえば、普段ならまだ残業を終えたビジネスマンや、飲み歩く人々で煌々と賑わっている時間帯だ。クロノス商事の取引先も多く、俺にとっても馴染み深い(そしてできれば近づきたくない)エリアである。

 しかし、今のこの街には、生者の気配が全くなかった。


 整然と立ち並んでいたはずの街路樹は枯れ果て、街灯の光は不気味な赤紫色に歪んでいる。

 見上げるような高層ビル群の壁面は、まるで巨大なコールタールをぶちまけたように、ドロドロとした黒い泥で覆い尽くされていた。アスファルトの道路は無残にひび割れ、その裂け目から、有毒なガスのような赤黒い瘴気がシューシューと音を立てて噴き出している。


 そして、その惨状の中心。

 駅前の広大なロータリーに、それは『そびえ立って』いた。


「なんだ、あれは……」


 これまで俺が物理的に粉砕してきた、どんなノワールよりも巨大だった。

 複数のオフィスビルを、コンクリートや鉄骨ごと無理やり融合させたかのような、無機質で極めて歪な巨体。壁面には、信じられないほど無数の『時計』が埋め込まれており、その全ての針が、狂ったような速度でグルグルと逆回転を続けている。

 見ているだけで、平衡感覚が狂い、強烈な吐き気を催すような悍ましいデザインだ。


 その巨大なビル型ノワールの頂点。

 地上数十メートルの高さに、一人の男が立っていた。


 男は、仕立ての良い漆黒のスーツを隙なく着こなし、顔の上半分をカラスの嘴のような黒いペストマスクで覆っている。

 怪物の頂点から腕を組んで見下ろすその威圧的な姿は、まるで大企業のワンマン社長が、自分の所有する帝国を見下ろしているかのようだった。


「遅かったわね、シロちゃん!」


 背後から声がして振り返ると、崩れかけたバス停の陰から、真紅の魔法少女ルビィと青い魔法少女(結衣)が飛び出してきた。


 二人の顔には、明確な疲労と焦りの色が浮かんでいる。

 ルビィの気高い顔は煤で汚れ、結衣に至ってはセーラー服の袖が破れ、青い杖を支えにして肩で激しく息をしていた。


「大丈夫ですか、二人とも。随分と苦戦しているようですが」

 俺は、重量二トンの『ドリーム・ステッキ』を召喚して肩に担ぎながら、二人に合流した。


「あいつ……あのスーツの男、今までのただ暴れるだけのノワールとは全然違うわ」

 ルビィが、氷の長杖を握る手を震わせながら、上空の男を睨みつけた。


「攻撃が、全く通じないんです……!」

 結衣が、涙目で訴えてくる。

「私の希望の魔法も、ルビィさんの氷結魔法も、あの男の周りにある黒いオーラに触れた瞬間に、まるで吸い込まれるみたいに全部消えちゃうんです!」


 魔法が消える?

 俺が眉をひそめた時、上空に立つ黒服の男が、オペラ歌手のように大げさに両手を広げた。


『――ハロー、新東京市の哀れな諸君。そして、軍の飼い犬たる忌まわしき魔法少女ども』


 男の声は、マイクもスピーカーも使っていないのに、この異様な空間全体に響き渡るような異常な音量を持っていた。

 低く、粘り気があり、聞く者の鼓膜の奥に直接「疲労感」をねじ込んでくるような不快な声。日曜日の夜に聞く、上司からの業務連絡のような嫌な響きだ。


『私の名はベルモット。この愚かで混沌とした世界に、完全なる「秩序」をもたらすためにやってきた調律者だ』


「調律者……?」

 俺は、死んだ魚の目を眇めた。ノワールの分際で、いっぱしの神様気取りか。


『そうだ。人間という生き物は、希望や愛、情熱といった無軌道な感情を持つがゆえに争い、混沌を生み出す。我々の真の目的は、全人類からそれらの無駄な感情ノイズを完全に削ぎ落とし、ただ与えられた役割だけを黙々とこなすだけの、静寂なる新世界ユートピアを創世することにある』


 ベルモットは、眼下の街を見下ろしながら、冷酷で絶対的な響きを持った声で語り続ける。


『我々は導き出した。人間の感情を最も効率よく摩耗させ、死滅させる方法を。……それは恐怖でも暴力でもない。「終わらない労働」と「明日への絶望」だ。今、この結界の中で、何が起きているか分かるか?』


 ベルモットが、パチンと指を鳴らす。

 すると、巨大なビル型ノワールの壁面に埋め込まれた無数の時計が、ピタリと「日曜日・午後十時」の時刻で止まった。


『明日、仕事に行きたくない……』


 突然。

 どこからともなく、重く、暗く、泥のように淀んだ声が響き渡った。

 一人の声ではない。何千、何万という声が合わさったような、不気味な合唱だ。


『上司に怒られる……』

『ノルマが終わらない……』

『電車に乗りたくない……』

『永遠に、日曜日の夜が続けばいいのに……』


「こ、これは……っ!」

 結衣が、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。彼女から放たれていた清らかな希望のオーラが、その声を聞いただけで急速に濁り、消えかかっていく。


『ふはははは! これぞ究極の絶望! 通称「月曜病サザエさん・シンドローム」の具現化だ!』


 ベルモットが両手を高く掲げ、高らかに笑う。


『この結界内では、常に「日曜日の深夜、明日への絶望がピークに達した瞬間」の精神状態が強制される。市民どもは生きながらにして心を削られ、やがて一切の感情を失った完璧な自動機械オートマトンへと成り果てる! これこそが新世界創世のための究極の感情濾過システム! 我が「ノワール・コーポレーション」がもたらす、絶対の秩序の完成だ!』


 ベルモットの演説を聞いて、俺は完全に理解した。

 こいつらは、単なる本能で暴れるだけの化け物ではない。人間の社会システムを最悪の形で利用し、人から心を奪い、ただ労働するだけの機械に変えようとする、冷酷でスケールのデカいカルト集団なのだ。

 

「……シロちゃん、気をしっかり持って」

 ルビィが、青ざめた顔で俺の小さな肩を掴んだ。

「あの声を聞いていると、自分が一番ダメだった時の記憶が引きずり出されそうになる。結界の中にいるだけで、精神がゴリゴリ削られていくわ……」


 確かに、ルビィの顔には、かつてないほどの疲労と焦燥感が浮かんでいた。

 彼女はクロノス商事の営業部長として、常に完璧を求められ、過大なプレッシャーに晒されている。「仕事に行きたくない」「ノルマが終わらない」という怨嗟の声は、彼女自身の奥底に眠る重圧と共鳴し、その精神を激しく侵食しているのだろう。


 結衣に至っては、「月曜日……小テスト……学校、行きたくない……」などと、普段の元気な彼女からは想像もつかないようなネガティブな言葉をうわ言のように呟いている。


『さあ、人間どもよ、絶望しろ! 明日という名の地獄に怯え、その無駄な感情を全て我々に捧げ、完璧な歯車へと生まれ変わるのだ!』


 ベルモットが両手を振り下ろすと、ビル型ノワールから放出される有毒なガス(絶望のオーラ)が、さらに濃度を増した。


 ルビィがたまらず膝をつき、結衣が完全にアスファルトにへたり込む。

 これ以上この空間に長居すれば、魔法少女でさえも心が完全に折れ、ノワールの養分にされてしまうだろう。

 絶体絶命のピンチ。圧倒的な恐怖と無力感が、結界内を支配していく。


 だが。


「…………」


 俺は、一人だけ、全くの無傷で立っていた。


 いや、無傷どころではない。

 俺の心の中には、先ほどからマグマのように熱い「怒り」がふつふつと湧き上がっていたのだ。


(……明日、仕事に行きたくない? 上司に怒られる?)


 俺は、純白のドレスの裾を揺らし、ゆっくりと一歩、前へと踏み出した。


(そんな青臭い感情、入社半年目にはとうに通り過ぎてるんだよ。日曜の夜が怖い? 甘えるな。俺の会社にはそもそも休日という概念すら存在しない日があるんだよ)


 ルビィのような「完璧でなければならない」というプレッシャーも、結衣のような「明日が不安」という繊細な感情も、今の俺には一切ない。

 俺にあるのは、「終わらない業務を機械のように処理する」という、感情の死滅した究極の社畜の境地だけだ。


「……シロちゃん?」

 ルビィが、俺の堂々とした足取りに不思議そうに顔を上げる。


「ルビィさん。耳を塞いでいてください。あいつの演説、聞いてると腹が立ってくるんで」


 俺は、ピンク色のリボンが巻かれた重量二トンの『ドリーム・ステッキ』を肩に担ぎ直し、上空のベルモットを真っ直ぐに見据えた。

 俺の死んだ魚の目に、極寒の怒りの炎が宿る。


「おい、そこの黒服」


 俺の超絶ロリボイスが、結界内の絶望のノイズを鋭く切り裂いて、ベルモットの耳に届いた。


『ん? どうしたおチビちゃん。恐怖で口もきけなくなったか? それとも、我々の完璧なシステムに命乞いでもするか?』

 ベルモットが、余裕の笑みを浮かべて見下ろしてくる。


「絶対の秩序だとか、感情の濾過システムだとか、偉そうに語ってるところ悪いですが」


 俺は、深く息を吸い込んだ。


(――うちの会社(クロノス商事)の方が、よっぽど絶望的だわ舐めんなァァァァァッ!!)


 心の中では三十歳の社畜の魂の咆哮を上げながら、俺は必死に『少し達観した子供』のフィルターを通して叫びを放った。


「世の中の毎日遅くまで働かされている大人たちの絶望を、舐めないでくださいッ!!」


『……は?』


 ベルモットが、壮大な大義名分を真っ向から否定され、一瞬だけ面食らったような間抜けな声を漏らす。


「月曜病だぁ!? 甘ったれないでください! 金曜の夜に『月曜の朝イチまでにこれやっといて』って言われて、休日を丸々潰して絶望を通り越して悟りを開いている大人たちが、どれだけいると思っているんですか!」


 俺のことだ! と内心で血の涙を流しながら、俺はアスファルトが粉々に砕け散るほどの力で地面を蹴った。

 魔法少女の超人的な脚力と、俺のブチギレた感情エネルギーが、俺の身体をミサイルのように上空へと射出する。


「お前らみたいな、ぬるい『月曜病』の概念だけで人間の心を折れると思わないでください! 定額働かせ放題、裁量労働制の悪用、タイムカードの改ざん! 私がパトロールで見てきた、そういう血の滲むような大人の地獄ブラックを重ねてから出直してきてください!!」


 俺は、数十メートルの上空まで一気に跳躍し、ベルモットの立つビル型ノワールの頂上――彼の演説台の真正面へと踊り出た。


『な……ッ!? この絶望の空間で、なぜ動ける!?』

 ベルモットのペストマスクの奥の目が、驚愕に見開かれる。


(――残業手当ボーナス、全額払えやァァァァッ!!)


 俺は、心の中でありったけの怨嗟を爆発させながら、口では正義の魔法少女らしく叫んだ。


「――理不尽な労働環境は、私が粉砕しますッ!!」


 俺は、空中で身体を捻り、全重量と全遠心力を乗せたドリーム・ステッキを、ベルモットの足元の演説台(ノワールの一部である巨大な時計の文字盤)めがけて、大上段からフルスイングした。


 ズッッッッッドォォォォォォォォォォォォォン!!!


 天地がひっくり返るような、凄まじい轟音が響き渡った。


 魔法の光などない。

 ただの、純度百パーセントの質量と、俺の個人的な怒りによる一撃。

 二トンのステッキから放たれた衝撃波は、ベルモットの張っていた「魔法を無効化する黒いオーラ」などという生ぬるい概念を、物理的な圧力だけで紙屑のように粉砕した。


 そのまま、ステッキの先端がビル型ノワールの頂上部分に直撃する。


『ギャアァァァァァァァァァァァッ!!』


 ビル型ノワールが、建物そのものが悲鳴を上げるような不気味な音を立てて崩壊していく。

 ガラスが割れ、コンクリートが砕け、絶望を刻んでいた巨大な時計の針が次々と弾け飛ぶ。


『ぐ、おおおおおッ!?』


 足場を完全に粉砕されたベルモットは、防戦する間もなく、吹き荒れる衝撃波の余波を受けて空中の彼方へと吹き飛ばされた。


「……ふぅ。とりあえず、プレゼンは却下です」


 俺は、崩壊していくノワールの残骸を蹴って、地上へと優雅に(※フリフリのドレスのせいでそう見えるだけで、本人はパラシュートなしで飛び降りた気分で)着地した。


 ドスンッ、と二トンのステッキを地面に立てる。


 周囲を覆っていた「日曜日の深夜の絶望」の空気が、嘘のように晴れ渡っていく。

 ビル型ノワールは完全に瓦礫と黒い泥の山に変わり、やがて霧散していった。


「……信じられない」


 背後で、ルビィが呆然と立ち尽くしていた。

 結衣も、目を丸くして俺の後ろ姿を見つめている。


「あの絶望のオーラの中で、全く影響を受けていないどころか……逆に、あんな滅茶苦茶な理屈で敵の結界を力で捻じ伏せるなんて……。それに、大人以上に世の中の闇を知り尽くしているような、あの言葉の重み……」

 ルビィの声が、驚愕と、深い同情で震えている。


 当然だ。

 俺にとって、あの程度の絶望は、毎日の満員電車で味わっている日常風景に過ぎない。むしろ、中途半端な絶望を押し付けられたことで、「俺の労働環境(地獄)を舐めるな」という謎の同業他社への対抗意識に火がついてしまっただけなのだから。


『……バカな』


 突然、瓦礫の向こうから、呻くような声が聞こえた。

 吹き飛ばされたはずのベルモットが、ズタボロになったスーツを引きずりながら、ゆっくりと立ち上がっていたのだ。


 彼のペストマスクにはヒビが入り、そこから黒い煙のようなものが漏れ出している。


『私の……数万人の市民から抽出した「月曜病」の特濃結界を……たった一撃の物理攻撃で粉砕しただと……?』


 ベルモットは、信じられないものを見る目で、俺の小さな姿を凝視した。


『魔法の波動すら感じなかった。ただの純粋な運動エネルギー。……だが、それを放つ者の精神が少しでも揺らいでいれば、結界の反発力に弾き返されていたはずだ』


 ベルモットが、一歩、後ずさる。


『完全に、感情が死滅している。一切の絶望すらも受け入れない、純度一〇〇パーセントの「虚無」の器……』


 男の仮面の奥の瞳が、恐怖と、そして狂気じみた歓喜に震えていた。


『お前、一体……どれほどの社会の闇を見てきた……? 本当にただの子供なのか……?』


 戦慄の入り混じったその問いに、俺はただ、死んだ魚の目で彼を見つめ返した。


(答える義務はありません。俺は今、特別有給休暇のために働いているだけですから。さっさと帰って寝たいんです)


 心の中の本音をグッと飲み込み、俺は、先日マスコミの前で語った『設定』を崩さないように平坦な声で返した。


「答える義務はありません。私はただ……平和な世界で、泥のように眠りたいだけですから」


 俺がステッキを構え直すと、ベルモットはチッ、と短く舌打ちをした。


『……今日は引き上げさせてもらう。この器のままでは、お前のその規格外の「虚無」を飲み込むことは不可能だと分かった』


 ベルモットの周囲に、黒いゲートのような空間の歪みが出現する。


『だが、エトワール・ブラン。お前のその強さの源泉は分かった。お前自身を崩すのが無理なら……次はお前の周囲から崩させてもらう』


 男の視線が、俺の背後にいるルビィへと向けられた。


『次は、その気高い「氷山」を崩させてもらうぞ。強固なプライドと責任感を持つ者ほど、一度折れれば最高の絶望を産み出すからな……』


「待てッ!!」

 ルビィが氷の槍を放つが、すでにベルモットの姿は黒いゲートの奥へと消え去っていた。


 残されたのは、崩壊した結界の跡と、静寂を取り戻した夜の街だけ。


「……逃げられましたね」

 俺はステッキを収納し、肩をすくめた。


「シロちゃん……」

 ルビィが、力なく俺に近づいてくる。


「大丈夫ですか、ルビィさん。顔色が悪いですが」


「ええ……。ただ、少し、疲れたみたい。あの男の言葉のせいかしらね」

 ルビィは気丈に振る舞おうとしていたが、その顔色はかつてないほど蒼白だった。

 そして、俺の動体視力は、彼女が顔を拭った際、右手首のあたりにどす黒い痣のようなものが微かに浮かび上がっているのを見逃さなかった。

 先ほどの絶望の結界の影響か、それとも連戦による呪いの蓄積か。


 俺の心の中に、冷たい不安がよぎる。

 ベルモットの残した『次は「氷山」を崩させてもらう』という不吉な予告。

 それは、ただの脅しではない。奴らは人間の精神の隙を突くプロだ。


(……明日、会社で玲奈部長の様子をよく見ておいた方がいいかもしれないな)


 俺は、純粋な部下としての業務的な懸念を抱きながら、彼女の背中を見つめた。


 魔法少女の呪いの蓄積。

 本業での過労。

 そして、敵幹部からの明確なターゲティング。


 だが、今の俺にできることは、とりあえず帰って二時間だけ寝て、明日の朝イチの会議に完璧な企画書を提出することだけだった。


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